第2話~期待~

 狭い教室に申し訳程度に小さな扇風機が回っている。たが、そんなものでこの真夏の熱気を冷ますことなどできるわけもなく、この部屋は依然として暑かった。目の前にいる担任の額には大粒の汗が浮かび上がっていて、それが机の上に置いてある俺の進路希望調査用紙の上に落ちる。

「本当にこれでいいのですか?」

 担任はさも俺のことを思っているようなことを言いながら、しかしその表情は晴れていなかった。

 きっとこの先生は音大なぞに行くのではなく、ふつうの大学に行く方が将来のためになると、そう思っているのだろう。

 普通の大学に、周りの人間と同じように、流されるように歩いていく。そんなものなどに絶対なりたくないと、それだけは強く思う。

「これでいいです。俺は音大に行って、ピアノを習います」

 それ以上言うことはなく、俺は教室を去った。

 教室から廊下に出ると、ほんの少しの風が窓ガラスから入り込んでくる。しかし、結局それも熱風であって涼しくはならない。

 校舎から外に出ると真夏の日差しが直接体を襲ってきた。もともと汗はかいていたけど、それに加えてさらにドッと汗が噴き出てくる。

 夏休みを迎えているこの学校に生徒の姿はあまり見えないが、部活にいそしんでいる野球部の連中がグラウンドで走っている姿が見えた。ほかにも、どこからともなく吹奏楽部が奏でているのであろう楽器の音も聞こえてくる。

 駐輪場に置いてある自転車は数えられるほどしかない。だが、俺の自転車が置いてあるスペース、つまり三年生の駐輪スペースにはそれなりの自転車が置かれている。おそらく図書室や解放された教室で受験勉強をしている奴らのものなのだろう。

 それらを傍目で見つつ自転車にまたがる。家に帰ったら入試試験の課題曲でも練習しようかと、そんなことを考えながら帰路についた。


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 自転車をこぎ、途中の信号機で止まり、青になれば再びペダルを漕ぐ。

 この道も、もう何度行き来してきただろうか。

 今更なのかもしれないけど、この三年間を振り返ってみる。

 家にいるときは寝る真も惜しんでひたすらにピアノを弾いていた。学校に行っている時は勉強をしているふりをして居眠りをしていた。そんなふうに過ごしてきたから、きっと俺はあまり良い生徒ではなかったのだと思う。テストはいつも赤点ギリギリ。成績だって常に後ろから数えたほうが早かった。

 時々母親から「そんなにピアノばかり弾いていて、体は大丈夫なの?」なんて言われたことがあったけど、俺は無視してピアノを弾き続けた。

 何のためにこんなことをしているのか。こんなことをして何を目指しているのか。時々ふと、演奏が終わった後にそんな疑問が頭の中をよぎるが、それすらピアノの音でかき消していた。

 夢中というより、それは固執に近かった。

 中学を卒業すると共に、ちづるはどこか知らないところに行ってしまい、今はもうどこで何をしているのか俺は知らない。

 もう、誰かが俺のピアノを褒めることはなかった。

 コンクールに出れば誰かから褒められるというよりは、むしろ嫉妬に近いような思いを含む眼差しが向けられることが多かった。

 もちろんそれは俺も同様で、自分よりもはるかにうまい奴を見ると、言葉に言い表せないが、決していいものではない気持ちを抱いてしまう。

 誰よりもうまく。なにより自分だけにしかできないことだと信じていたかった。だけど、それは結局妄信でしかなく、俺以外に、俺以上にうまくやる奴なんて数えきれないほどいた。

 そのことを知っていた。だけど認めたくはなかった。だから俺はピアノに固執していただけなのだ。

この三年間は、そんな三年間だった。


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 家に着く。俺はピアノの置いてある部屋に入ってクーラーをかけ、楽譜を用意した。そして鍵盤に触れる。

 初めは意識的に指を動かすが、次第にそれが無意識にでもできるようになる。そして、いつもその時が来ると色々なことを考え始めてしまう。

 それは今日も同じだった。

 すぐに頭の中に浮かんできたのは先ほどの教師の顔だ。次に思い浮かんだのは進路調査用紙。そこの第一希望に書かれた大学の名前。

 その先をさぐると、視界に靄がかかったようになる。そして、巨大な壁が見えてくるのだ。

 気が付けば未来という名の正体不明な壁が目の前まで迫ってきていて、後ろを振り返ろうものなら、今までしてきたことが音を立てて崩れ去るようであった。

 今自分が立っているこの場所が大きな分岐点であることに変わりはない。あの調査用紙一枚で将来が確定してしまうなど微塵も思ってなどいないけれど、将来への道は狭まるのは確かだと思った。

 選択すれば片方の可能性は消滅する。大人というものに近づけば近づくほど、消えて行くものが増えていき、道が狭まっていく。そのことが最近になって嫌というほど見えてきた。

 ピアノをやる。ピアノで生きて行く。いつの間にか俺の胸の中で芽生えていたこの思いの出どころなんて、今更思い出そうとしても思い出せない。

 選んできた果ての結果がこれで、もうそれしかなくなっていたという方が正しい気がする。

 だから俺にはもうこの選択肢しかなくて、すがるように、もしかしたらと期待しながらこうしてピアノを弾くことしかできなかった。

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