第3話~現実~
久しぶりに地元に帰って来た。前にこちらへ帰ってきたのは成人式の時だったから、約五年ぶりの帰郷だ。
家の周辺は相変わらず山に囲まれている。季節は夏で、都心でもセミの鳴き声は聞こえるが、こちらだと何も遮るものがないから余計に大きく聞こえてくる。
二十五歳になって、改めてこの地元の風景を見回ってみると何とも言えない気持ちになる。
小学生の頃に歩いていた通学路。大きな変化はないが、道の途中にあった廃墟は撤去されていて、川に新しく橋を架けるのか、重機が音を鳴らしていた。
約五年ぶりに地元は、知っているようで知らないような場所に変わっているようで、あの時から確かに時間が過ぎ去っているのだということを実感してしまう。
こちらの電車に久しぶりに乗ったのだが、都会の電車に比べはるかに人の数が少なく、どこか不思議に思った。
家に帰って久々に見た母の顔は年相応の顔になっていて、だけど優しく微笑んだ顔はどこか面影を残していた。
夏休みは十日。大学生から社会人になってすぐは、大きく変わった生活のリズムに体がついていかなかったが、三年目にもなると次第にそれが日常へと変わっていた。
結局、私はピアニストにはなれなかった。
むしろ、大学に入ってすぐに私には無理だと思ってしまった。
たかがこんな小さな町で、多少ピアノが出来ると言うだけであって、私はそれほどでもないのだと痛感した。
私しかできないと思っていたことは、存外、少なくない人にもできるらしかった。
それでも、大学を卒業し今務めている小さな楽器屋で働き始めた頃は、まだその夢を切り捨てることは出来ず、色々なことをしてきた。
コンクールに出る。オーデションを受ける。もっとうまくなるために、もっと練習をする。
だが、その回数は時間と共に減っていった。
仕事に追われる日々。人というやつは、良かろうが悪かろうが環境に慣れ、最適化していくものらしく、仕事が日々の中心へと変わってしまった。
こんなこと私がしたかったことではないと思っていても、会社を辞める度胸もなく、生活するためにはしょうがなかった。
生きがいというやつはないが、生きていくにはそれしかなかった。今働いている職場だって、何社も受けてやっと内定をもらった会社だ。
そうやって日々を過ごしてきた。
そしてつい最近。目を覚まし、いつものように顔を洗って自分の顔を見た瞬間。その鏡に映る自分の目から目を離すことが出来なかった。
とても曇っていた。いつの間にか私も、こんな顔をするような年になったのかと思った。
なによりも、そんな顔を見ても何も思わないことに驚いた。
目が曇ると共に、ずっと抱いていた夢と言うやつも曇ってしまったことに気が付いた。
あんなにも固執していたものが、あんなにも強く願っていたことが、すっぽりと抜け落ちていた。
それに対して何も思わなかった。
その瞬間、「ああ、終わったのだ」とそう思ってしまった。
そして、食パンを一枚食べ終えて、いつものように満員電車に乗り込み職場に向かった。
それがこの夏休みに入る一か月前のこと。
そんなことに気が付いたせいか、何となく地元に帰ってみたくなった。そんなこと今まで思ったことなどなかったのに、不思議だった。
思うことなど何もない。確かに懐かしい風景なのだろうが、実際に見てみると何も思わなかった。
実家に帰ってすぐ、母親から「ちづるちゃん、結婚したらしいわよ」と話を聞いたが、ちづるという名前をその時に思い出し、そうなんだと思っただけだった。
小学校の通学路を歩き、ちょっと道を外れて丘の上へ向かう。
風が地上よりも少し強く吹き、その風が後ろの雑木林を揺らす。葉や枝のこすれる音は都会ではあまり聞かないため、少し懐かしく思えた。
風の音。枝葉の音。セミの鳴き声。川の水が流れる音。都会には無いが、ここにはあるものが確かにあるらしかった。
子供の頃にはそんなものに気が付かなかったが、今それがわかったような気がして、大人になったのだなと、我ながら恥ずかしいが素直にそう思った。ただ、同時にどこか寂しくもあった。
「帰るか……」
来た道を帰る。同じ道筋を辿って実家に帰る。
「お帰り」
「ん、ただいま」
母親は夕食の支度をしているらしく、懐かしい匂いが台所からしてきた。
私は少し夕食を楽しみにしつつ、ある部屋に入る。
扉を開けると、それは何一つ変わることなくそこにあった。
私が初めて触ったピアノ。母のピアノでもあり、私のものでもあったそれは、変わらずにここにあった。
時々母も弾いているらしく、調律はしっかりとされている。
鍵盤に触れ、一つを押し込むと、ポーンと優しい音が渇いた部屋に響いた。
夕食の時間までまだ少しあるから久しぶりに自室へ向かう。自室の様子も相変わらずであった。勉強机や本棚は昔のままだ。
何となく昔の卒業アルバムだとか、そういうものを見たくなって本棚からそれらを取り出す。アルバムを手に持ったところで、一枚の紙が本棚から床に落ちた。
それは丁寧に畳まれた一枚の紙。
開いてみると、「未来のぼくへ」という文字がそこには書かれていた。その字を見た瞬間、そう言えばその昔、将来の自分に宛てて手紙を書いたことがあったことを思い出した。
これは確かに自分の字だ。そして、この内容にも覚えがある。
文の量は決して多くない。書いてあることだって難しくとも何ともない。ただ、どうしようもなく輝いていて、どうしようもなく苦しくなった。
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