未来への手紙

青空奏佑

第1話~希望~

 僕はお母さんが弾くピアノの音が大好きだった。小学校が終わって家に帰ると、いつもその音が僕を出迎えてくれていた。

 その音はいつも優しくて、時々眠くなってしまうような、そんな音だった。お母さんが弾いている曲がいったいなんと言う名前のものなのか僕は分からなかったけど、そんなことは僕にとってどうでもよくて、ただその音が好きだった。

 ある休みの日、僕はお母さんに黙ってピアノに触れた。白と黒が交互に並んでいて、僕は白い板を押す。だけど、それは思っていた以上に重くて、力を入れないとしっかりと押すことが出来なかった。

 板がずっしりと沈み、ぼーんという音が一つ、重々しくずっしりと部屋の中で響いた。その音を聞いた瞬間、体の中から電気のようなものが走って、この音は僕が出したんだと思ったとき、自然とその場で飛び跳ねていた。

 最初は一つ一つ、ここを押すとどんな音が出るんだろうと思って次々と白と黒の板を押す。

 だけど、それだけじゃあお母さんがいつも鳴らしている音とは全然違うもので、僕はお母さんがピアノを弾いていた姿を思い出して、その真似をしてみることにした。

 両手を板の上に置いて、踊るみたいに指を動かす。違う音が一緒に出て、時々とてもきれいな音がピアノから出てくる。

「なにをしているの?」

 そんな声が耳元から聞こえて、気が付いたらそこにはお母さんが立っていた。

「なんか楽しいね!」

 僕がそう言うと、お母さんはやっぱり優しそうに笑って「そうでしょ」と言ってくれた。

 それから僕はお母さんの膝の上に載って、一緒にピアノを弾いた。

 お母さんが指さす板を押すと、とてもきれいな音がピアノから出た。

「お母さん、いつもの弾いてよ」

 僕がそう言うと、お母さんは「いいわよ」と言って指を板の上に置いた。

 それからその指は、まるで生きている様に動き始めた。板の端から端に指は動いて、流れるように音が出てくる。

「お母さん」

「何?」

「いつか僕も、こんなふうに曲を弾いてみたい」

 もしそんなことが出来たのなら、どれほど楽しいのだろうと僕は思った。

「じゃあ、やってみようか」

「僕にできるかな?」

 本当に、こんなふうにピアノを弾くことが出来るのだろうか。

「できるわよ」

 お母さんはそう言って笑う。窓ガラスから入り込んでくる暖かな日差しがピアノとお母さんの笑顔を照らしていた。

「じゃあやってみる」

 お母さんが言うのだからできるのだと僕は思って、その日からずっとピアノのことを考えるようになった。


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 お母さんからピアノを習い始めて二年。気が付けば僕も小学四年生になっていた。

 僕のそばにはいつもピアノがあって、家に帰ればすぐにピアノの鍵盤と向き合っていた。

 僕の指は、まだお母さんの様に軽やかに動いてはくれないけれど、それでも少しずつ動くようになっていて、そのことが僕は嬉しかった。

 僕の通う小学校では、毎年、校内で音楽発表会が開かれているのだけど、僕が合唱で歌う曲の伴奏者に選ばれた。

 それから僕は、音楽の授業中にもピアノを弾くようになった。

 昼の長い休み時間。この時間にも、僕は毎回音楽室に足を向けてグラウンドで遊んでいる友達の声を聞きながらピアノを弾いていた。

 その時、僕と一緒に音楽室に来てくれる女の子がいて、その子は僕が弾くピアノに合わせて歌ってくれていた。

 同じクラスの女の子。名前はちづる。髪は短くて、ちづるが笑うと僕の方も自然と笑ってしまうような、そんな子だった。

 その子の歌う声が僕は好きで、その声に合わせてピアノを弾くのは一人で弾いている時よりも楽しかった。

 いつものように一緒に音楽室で練習をしているとき、僕はちづるから、「何か違う曲を弾いてよ」と言われて、僕は「いいよ」と返事をしてお母さんから教わった曲を弾いた。

 暖かな太陽の日差しが大きなピアノを照らしていて、そのピアノに頬杖をつきながらちづるは目を閉じて鼻歌を歌う。

 外から聞こえる声はどんどん小さくなっていって、ピアノから出る音と、ちづるの鼻歌だけが僕の耳に届いてくる。

 弾き終えた後、ちづるはものすごい笑顔で「なんか、すごいきれいだった」と僕の手を握りながら言ってきた。

 僕の手。この手が、彼女がきれいだと思える音を奏でた。

 それがとても嬉しくて、僕はやっぱりちづるの笑顔につられて自然と頬が緩んでしまったのだった。


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「みんなはもう十歳。二十歳の半分を迎えましたね」

 ある日の授業。先生は唐突にそんなことを言い始めた。何のことを言っているのだろうなんて思いつつ、その先の話を聞いていると、先生は「もう君たちは半分大人です。今までと同じ時間を生きれば、大人になります」と続けた。

 そしてその後、「今日は十年後の自分に向けたお手紙を書きましょう」と優しい笑みを浮かべてそう言った。

 先生がそう言った後、周りの友達はひそひそと話し始める。隣の席にいたちづるも僕に「自分にお手紙を出すってことなのかな?」と話しかけてきた。「たぶんそうじゃない?」と返事をすると、ちづるは「なんか変なの」と小さくつぶやいたのだった。

 その後、先生は何も言わずに手紙を配り始める。真っ白な紙に、黒い線が同じ間隔で並んでいる。それを見ると僕はいつもピアノみたいだと思っていた。

「みんな行き渡りましたね。十年後なんて全然想像できないと思いますが、それでかまいません。今みなさんが思っていること、将来の夢だとか、そういうことを書いてみてください」

 僕は何のためにそんなことをするのかわからなかった。だけど、周りの友達の何人かは受け取った手紙に何か書き始めていた。隣にいるちづるは鉛筆を頬に当てながら何か考えているようで、しばらくしてからその頬にあてていた鉛筆を手紙にあてて文字を書き始めた。

 将来の夢。大人なんて僕にはよくわからない。あと半分、同じ時間を過ごしたとしても僕は子供のままであるような気がする。

 でも、多分その時の僕も今と同じようにピアノを弾いているのだと思う。

 だから、別に夢だとかそう言うわけではないのかもしれないけれど、もしこの手紙に書くとしたら、やっぱりこれしかないとそう思った。

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