(9)
喫茶店を出たとき、真白は腰を九十度曲げて、俺にお礼を伝えてきた。
「ありがとうございます。あたし、頑張りますから」と。
俺は微笑だけを返して、軽やかな足取りで去っていく真白を見送った。
役に立てたのなら、それは嬉しい限りだが、結局は責任逃れをしたにすぎない。真白の願いを突っぱねながらも、先輩としてのいい顔を保とうと、助言みたいなことをしたのだから。
どっちつかず。
それが一番的を射て、俺を表している。
「さて、と……」
ポケットから、一枚のメモ紙を取り出す。
そこには、出かける際に母親から託された買い物のリストが書き記されていた。
早く家に帰って休みたいので、足早に馴染みのスーパーへ向かう。店内に入ると、さっきの喫茶店よりも冷え込んだ空気がぶわっと俺を包んできた。
蒸し暑い夏でも、若干の肌寒さを覚える。
俺がその人と鉢合わせたのは、それから間もなくのことだった。
「翔くん?」
振り返ると、真理と顔立ちの似た四十前後ぐらいの女性がいた。
認識するのに数秒を費やして、それが真理の母親だと気付く。
「どうもです」
「久しぶりね。元気にしてた?」
「はい。おかげさまで」
この時間軸では、小学校時代のとき以外で真理の母親と会った記憶は俺にない。
久しくなのは今のでわかったが、ここは適当に相槌を打って、下手な発言をしないように心がけた方がいい。
「真理とはうまくいってる?」
傍にあった棚の商品を手に取り、真理の母親はそう訊ねてきた。
自身の娘の近況を気にするのは、親であれば至って普通のことだ。文字通りにただうまくいってるのかを知りたいのかもしれないが、俺には微妙に異なったニュアンスとして受け取れた。
平然を装っているのかもしれないが、彷徨う視線に落ち着きのない手。
これは、現状どうこうではなく、結論ありきで俺に訊いているのだと理解する。
「う~ん……悩むところですね。悪くはないんですよ。ないですけど……いろいろとあって、万事順調ともまた違いますし」
歯切れが悪く、濁した言い方をしたが、偽りではない確かな事実を俺は述べた。
「そう……」
真理の母親はそれ以上の追求をしてこなかった。
スーパーに流れる、リズミカルな音楽だけが鼓膜を揺らす。
ずっとここで佇んでいても仕方がないし、そろそろお暇すべきか考えていると、真理の母親の一言によって気持ちが一瞬で引き止められる。
「ごめんなさい、変なこと訊いちゃって。真理が家で時々元気なさそうにしてるから、ちょっと気になってね……」
俺が思っている以上に、真理も俺と純との関係に頭を悩ましてるのを思いがけぬところで知る。
「あっ、時間取らせちゃってごめんなさい。じゃあ、またいつでも家に遊びに来てね。待ってるから」
「はい。ありがとうございます」
「でも、真理を強引に連れ出すのだけはやめてよね」
朗らかな口調でそう釘を刺され、俺は引きつった笑いを返していた。
その度は誠に申し訳ありませんでした。
真理の母親と別れ、中断していた買い物を再開する。
しかし、俺は心ここにあらずな状態に陥っていた。
考えるのは、当然のように真理のこと。
真理の望みを叶えるには、純の意思を覆させる必要がある。あるが、あいつは絶対に意思を覆したりはしない。しないと、真理の望みは叶えられない。
かつての関係には戻るなど、最早無理なのだ。
なら、現状に甘んずるの最善なのか。そんなわけがない。
退くのも止まるのも間違っているのなら――真っ直ぐに突き進んでいくしかないだろう。壊れかけているものを完全にぶっ壊し、新しいものを一から築いていく。
それが俺の選ぶべき正しい道だ。
その答えに達すると迷いは消えてなくなり、俺は目指す頂のみを見据えていた。
◇ ◇ ◇
夏祭り当日。
薄っすらと茜色に染まる空を、俺は寺の近くで一人眺めていた。境内で奏でられる祭囃子が、敷地の外にまで聞こえてくる。
「お待たせー」
聞き覚えのある声がして、俺は振り向いた。
「どう? 似合ってる?」
女子の浴衣姿を見たりしたからといって、阿呆面で惚けたりなんかしないと思っていたが、俺は息を呑んで完全に見惚れてしまっていた。
白の生地に、淡いピンクとパープル色の朝顔が咲き誇っている。
「おーい、翔」
「ん? あ、ああ! ごめん、魂が抜けてた」
「ちょっと、せっかく浴衣着てきたのにそれってどうなの。私も傷つくからね」
真理が可愛らしく頬を膨らませた。
「悪かったって。怒らないでくれよ」
そんな彼女を軽くなだめつつ、意識を周りへ移す。
予定ではもう一人、必ず来ることになっているはずだ。
「ふふっ……翔、誰をお探しかな?」
急に不敵な笑みを浮かべたかと思えば、真理が一歩横にずれた。
すると、これまた浴衣を身にまとった麗しい幼子。ではなくて、真白が現れた。
こちらも白地だが、咲いている花は淡い青色の桔梗だ。
いつもポニーテールだった後ろ髪も、お団子のような形にまとめられていた。
「おお、きれいだな」
二人共、普段は純粋無垢に天真爛漫などの印象を持っていたが、着ているものが違うだけでこうも大人びるものなのか。
俺は率直な感想をつい口にしていた。
「……私と反応が違う。ずるい」
されど、その呟きを後輩を見てしたのがこの幼馴染は気に召さなかったらしい。
わかってくれていない。言葉にならないぐらいに、俺は見惚れてしまっていたというのに。
俺と真理のそんなやりとりを隣でおかしそうに笑っていた真白が、助け舟ではないが流れを変える話題を俺に振ってきた。
「これ、真理さんのお母さんがしてくれたんです。せっかくだからって」
「そうなのか」
いい仕事をされる。
「それとね、翔。お母さんがよくわからないんだけど、よろしくねだって」
「ほう、そうか……」
プレッシャーをかけて下さる。
とはいえ、頼まれなくとも俺はやるつもりでいる。
今日には、決着をつけてみせる。
「で、メンバーは以上なのか?」
最低この三人いれば、計画を実行へ移すのに支障はない。
俺は真理だけを誘ったが、真白が誰かを誘っていれば、もう一人ぐらいは来るはずだろう。
「そう、ですね。一応、お誘いはしたんですけど……来ていただけるかはわからないので」
「じゃあ、先に動いてても大丈夫か?」
「はい。お気になさらず、どうぞどうぞ」
そのお言葉に甘えて、早速動き出す。
だからと、すぐに何かをするのではなく、純粋にお祭りを楽しんだ。出店で売られているのを食べたり飲んだり。
空の色が茜色から漆黒に変わりいくと、吊り下げられていた提灯が代わりに光を灯し、石畳が薄っすらと橙色に染まる。
境内に響いていた祭囃子も相まって、日常とは違う空間がそこには造り出されていた。
日頃の鬱憤を忘れ、そのひとときを楽しむも、刻一刻と確実にそのときは迫っていた。
そして、遂にその口火が真白によって切られる。
「あっ、ごめんなさい」
真白がスマホを慌てて取り出す。
誘っていた相手からの連絡だろう。はっきり誰とは聞いていないものの、そうさせるようにけしかけたのは、俺だ。
なので、その人物には大方目星がついている。逆に、違ったら驚きだ。
「先輩……」
真白が目で訴えてくる。
俺は頷き返した。
「真理さん。あたし、少しだけ席を外しますね。すぐに戻ってきますので、では!」
口早にそう告げた真白は、颯爽と人ごみの中を駆けていく。
「う、うん。わかった……」
真理が返事をしたときには、遥か彼方にその姿は消えていた。
さて、俺も人のことを気にしている場合ではない。ここからが本番だ。覚悟して、事にかかっていかなければ。
横にいる真理を見やる。
「とりあえず、また適当にぶらつくか」
「うん。そうだね」
ただうろついている体を装いながら、俺は徐々に人気のない場所へと連れていく。こんな喧騒のど真ん中では、雰囲気もへったくれもない。
しばらくして、真理も違和感に気付き始めていた。
しきりに辺りを見回している。
「翔……?」
疑心がつのりつつあった真理が俺の名を呼ぶ。
それは、俺に説明を求めている感じがした。
そろそろ頃合か。
足を止め、振り返る。
どこか困惑した表情で、真理は俺を見ていた。
真理の抱く気持ち次第で、全ては決する。
個人的な理想というか願望としては、俺と同じ気持ちで是非あって欲しい。うまくいくことに越したことはないのだから。
するしかない。やるだけだ。いい結果が待っていると信じろ。
「真理。大事な話がある」
もう後戻りは出来ないのだ。
俺は今、手にする諸刃の剣を振り上げようとしていた。
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