(8)

 月日は経ち、学生たちを歓喜と悲哀に分かつ、極悪非道の神ならぬ紙を審判者の教師によって渡される。

 学んだことをほとんど忘れていた俺だが、記憶を引っ張り出しながら勉強した甲斐あってか、無事に赤点の科目もなく乗り越えられた。

 真理も難なく。

 純は学年上位の結果を出したらしいが、その真偽のほどは知らない。調べるつもりもさらさらないので、どうでもいいが。

 それよりもだ。

 テストが終わった。

 夏休みに入った。

 つまり、真理との約束が遂行されるときを遂に迎えたのだ。いても立ってもいられない。今すぐにも駆けていかなければ。

 なんてことはなく、俺は町内会の掲示板に張られたチラシを注視していた。

 はやる気持ちはもちろんあるが、俺も紆余曲折はあれど、いろんな経験を積んできているのだ。落ち着き払ったりもする。

 そして、今回も俺はある季節に見合ったイベントを利用しようとしていた。

 以前は、冬の星空に春の桜。

 であれば、夏は――祭りだ。浴衣だ。

 花火、は無理だな。

 だとしても、イベント要素満載でまさに打ってつけの機会。なのだが、ここで問題なのが、真理だけをどうやってそれに誘うかだ。

 二人でそういうのに行く。それは、真理にデートだと捉えられかねない。

 俺は歓迎なのだが、真理が躊躇って来ない可能性がある。


「うーん……」


 悩む俺に、太陽の強い日差しが降り注いでくる。いくつもの汗が頬を伝っては、地面に落ちていった。


「羽馬先輩?」


「ん? ああ、真白か」


 よくよく考えると、掲示板の前でじっとチラシを見つめる男の姿というのも、傍からだと若干怪しかったもしれなかったが、声をかけてきた真白は怪訝な表情をしないで、俺が振り向くとぱっと顔を明るくしてくれた。

 俺を見つけて、そんなに喜んでくれるとは嬉しくなるな。

 真白は学校が休みなのもあって、私服を着ていた。

 英字の書かれた向日葵色の半袖Tシャツに、青色系のデニムだ。


「やっぱり、先輩だったんですね。すごく真剣に見てたみたいですけど、掲示板がどうかしたんですか?」


「これを、な」


 俺が指差すと、真白はそれを前屈みになって覗き込む。


「夏祭りですか」


 視線の先には、盆踊りをしているであろう着物の女性が描かれたチラシ。

 この地域では比較的有名な寺が主催するお祭りだ。

 真白が体を屈めたまま、顔だけを俺に向ける。


「こんなことをお伺いするのは大変失礼かとは思いますが……真理さんと?」


「ずばり訊いてくるな、お前」


「すみません。そういう性分なもので」


 素直なのはいいが、気配りも大事だとこの後輩に説きたくなってくる。


「まあ……誤魔化すだけ無駄か。そうだよ。そのつもりでいる」


 俺はあっさり認めた。

 暑さのせいでだるさ倍増の中、真白を欺くのにまで思考を回す余裕が俺になかった。

 真白は納得したように頷き、上半身を起こす。


「では、もう一つだけ」


「まだ、あるのかよ」


 質問魔か、こいつは。

 結構露骨に俺も嫌な顔をしたつもりでいたが、真白は最初に会ったときとは違い、途中でやめたりはせずに言葉を続けた。


「――羽馬先輩は、真理さんが好きですか」


 いきなり核心を突いてくるとは。

 横を見やれば、真白は真剣な面持ちでこちらを向いていた。あんなに眩しかった明るさはすっかり影を潜めている。


「好きだよ」


 こうもどっ直球に真摯に来られているのに、俺が恥ずかしがったり逸らしたりしたら、男として廃るに廃ってしまうだろう。


「……そうですか!」


 刹那、真白の瞳に憂いが帯びていたように感じられたが、すぐに消え失せてしまった。

 通常運行の、あの真白に戻る。


「それで、真理さんを誘う算段などは?」


「それは……現在進行形で考えている最中だ」


「要はないんですね。ふむ」


 真白は唸って悩み始めたかと思えば、頭上で電球の灯りが点いたかのように目を見開く。

 閃いた。一目でそうわかった。


「先輩は、真理さんと二人で行きたいんですよね?」


「ああ」


「でも、真理さんがその条件で来てくれるか不安でいると。先輩はあのとき、お二人が付き合っているのをあたしが訊こうとして止めてましたもんね」


 言動は突発的で危うかったりする真白だが、やはり察しはいい。


「あたしに、妙案があります」


 俺のために考えてくれていて、ありがたい限りなのに、大してない胸を張って自信満々にしている真白に一抹の不安を覚えてしまう俺がいた。

 とりあえず、聞くだけ聞いてみるべきだな。


「教えてくれ」


「二人が駄目なら、人数を増やせばいいんですよ」


 どや顔でいい放たれたが、俺の瞳からは感情がどんどん失せていった。それでは意味がない。

 すると、慌てて真白が補足する。


「さ、最後まで聞いて下さい! あくまで、誘うときにだけは人数を多めにして、途中から二人っきりにしていけば、真理さんにも断られずに先輩の希望も叶えられませんか?」


「むっ……確かに」


 これなら、真理も都合次第で来てくれる可能性はある。


「真白」


「はい?」


 提供してもらった案に、完全に便乗する形の俺がこうして頼むのも偉そうで申し訳ないが、提案者の真白は実行する上で必要不可欠だ。


「協力して欲しい」


「モチのロンですよ!」


 真白が見せてくれた笑顔は、夏の太陽に負けないぐらいに輝いていた。


 ◇ ◇ ◇


「それで、何人かで行こうかと思ってて。真理はどうだ?」


 帰って間もなく、俺は自分の部屋で電話をかけていた。

 俺と真白で結託したわけだが、まずは最重要人物の真理が誘いに乗ってきてくれないと何も進められない。

 他は、後から探しても問題ない。


「駄目なら駄目で全然構わないから」


 こっちが変に乗り気すぎるのも怪しまれかねないので、無理強いはしない。

 立場としては、都合がよかったら是非に程度だ。


「大丈夫そうか、よかった。あっ、いや、こっちの話だ。じゃあ、その日頼むな。詳細は決まったら連絡するから」


 これで大前提の真理は無事にクリアだ。

 電話を終えた俺は、次にあの後輩に報告しようとした。

 数秒間の呼び出し音の後、真白が出る。


「俺だ。一番の問題はクリア出来……明日? 別にいいけど」


 真白が何故か、明日改めて会って相談させて欲しいと持ちかけてきた。

 トラブルでも生じたのだろうか。

 翌日。待ち合わせ場所として指定された喫茶店で、注文したアイスミルクティーを飲みながら、真白が現れるのを待った。

 俺がいい感じに一息入れられたところで、ドアベルの音が店内に響く。


「お待たせしました」


 真白が小さく頭を下げて、俺の真向かいの席に座る。


「で、どうした?」


 昨日は偶然だったが、今日は必然で顔を合わしている。

 前置きも世間話もすっ飛ばして、単刀直入にそう問うた。

 静かに、真白はその理由を語り始める。


「あの、ですね……。あたし、羽馬先輩に隠してたことがありまして。それをずっと伝えようか悩んでいたんです。……でも、昨日帰った後にやっと決心しました。先輩だけには伝えておこうって。あたし――」


 真白の秘めていた、ある思いを俺はただ黙って聞いていた。

 全てがさらけ出されると、俺はイスの背もたれに体を預け、深く息を吐くとお店の天井を見上げた。

 神様も意地が悪い。

 俺の精神をどこまで追い詰めてくるつもりなのだろう。試しているのか。


「……ご迷惑ですよね。先輩方のお気持ちを知ってて、こんな……」


 視線を下ろす。

 テーブルを見つめる真白とは目が合わない。


「いや、お前が悪いわけじゃない。わかっていても、そうなるのが人の性なんだからな。俺だって……」


 妙に達観したセリフを吐いてしまったが、これは事実だろう。

 本能は、ときに理性では止められなくなる。

 それを求めてしまったことで、さらなる波乱を巻き起こすとわかっていてもだ。それが恋絡みならば、尚更に。

 イスに預けていた体を起こし、言葉を続けた。


「けど、だ。真白にとっていい答えを、俺は出せそうにない。難しい」


 突き放す一言に、真白の顔に影が差す。


「本当にごめん」


「いえ、謝るのはこちらです。不躾なお願いをした、あたしを許してください」


 真白が深々と頭を下げる。

 重い沈黙だけが、後に残された。

 眼鏡を外し、閉ざした瞼の上から目を押さえる。

 正直、話自体は俺にとって悪いものではなかった。捉え方によってはむしろ、舞い込んできた幸運でさえあるかもしれない。

 だが、断った。

 それで得た結果に、俺はどこか虚しさを覚えるに違いない。

 それで心から、あいつに勝ったと誇れるか。

 答えは、否だ。

 けれど、こうして勇気を出して胸の内を明かしてくれた後輩を、いとも簡単に一蹴してしまうのは、先輩として些か器量が乏しいようにも思える。

 せめて、真白にとって救いになる言葉をかけてあげたい。

 だから、これだけは伝えた。


「でもな、真白。俺にお前の気持ちを否定する権利なんてない。これで諦められるなら諦めればいいし、誰も手を差し伸べてくれなくても、最後までやって果てたいならすればいい。決めるのは、俺でも他の奴でもない。真白自身だろ」

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