(6)
「ん~」
「ねえ、翔」
午後の最初の授業が終わり、俺が大きく背伸びをしていると、真理の顔が突然視界に現れる。
「さっき遅れそうになってたけど」
優しいことに、俺が危うく欠席扱いにされそうになったのを心配してくれていた。
「平気平気。純とちょっとな」
「あっ……」
何かを飲み込んだように、真理が意味深に頷く。
「仲がよろしいみたいで、このこの」
にやにやしながら、肘で小突いてもきた。
これは、そっちの意味でからかっているのだと受け取ってよろしいか。
「あのな……。念のためにいっとくが、そういう仲じゃないからな」
本気でそう信じたりなんかはしていないのを承知の上で、一応訂正はしておく。この会話を耳にした他の者に、あらぬ誤解を招きかねないので。
「てへっ」
ちょびっとだけ舌を出して謝る真理の仕草に、思わず口元が緩む。
「そうだ、真理。今夜、空いてたりするか?」
「今日? えーと、特に予定はないかな」
「だったら、純と三人で桜でも見にいかないか? 見頃だし」
「――あそこの?」
真理が何故か声を小さくして、そう尋ねてきた。
俺は通学路にある桜並木のつもりだったのもあり、最初は意味をすぐに汲み取れなかったが、それがどの場所を示すのか理解する。
真理はちゃんと覚えておいてくれたのだ。
俺の感覚は一日そこらだが、真理としては二年経っているのに。あの日のことはやはり無駄にならなかった。
実際にはしないが、心で拳を握る。
「いや、そこじゃない。学校の近くにあるさ、あれ」
あの山の上にある桜は目立つ場所なのもあって有名なのだが、それだけに人も多い。
また、別の理由もあったために避けた。
「違うんだ。そっか……」
真理がどこか残念そうな表情を浮かべる。
それを目にし、いた堪れない気持ちになってしまう。述べざる得ないか。
「あそこは、真理との大事な思い出の場所でもあるからさ。胸に秘めておきたいんだよ」
純のときは男らしく吐いて堂々としていられたが、これはさすがに歯が浮くセリフだなと体がかゆくなる。
とはいえ、一度口にした言葉はどうやったって消せない。
音はあっという間に真理のもとへと届く。
「……うん。わかった。じゃあ、夜にね」
よかった。気持ち悪がられてはいないようだ。
「おう。純には俺から伝えておく」
手を振り、真理は自分の席に戻っていった。
さてと、純を誘わなければ。
ここであいつを放置して、真理と二人だけになるのも一つの案ではあるが、そういった小手先の策は結局読まれて、逆に俺の立場を危うくしてしまう。
舌の根の乾かぬうちに卑怯な手段をとるのも気が引ける。
対等に、正々堂々だ。
放課後を迎えて、俺は急いで純のいるクラスに向かった。
教室を覗き込めば、ちょうど支度を済ませるところだった。
「よかった。間に合った」
傍に近寄ると、純が動かしていた手を止める。
「伝え忘れでも?」
「まあ、そんなとこだ。で、夜は暇か? 真理と三人で桜見物でもするつもりなんだが」
「三人、ね。……いいよ。行くよ」
これで二人の了承は無事に得た。
後は、夜を迎えるのを待つだけだ。
それまでは一旦帰宅し、部屋で時間を潰すことにした。
そこで何気なく開けた勉強机の引き出しに、俺があのとき渡せなかったままの、あれを見つけた。可愛らしい動物のデザインがプリントされた包装紙に入れられていて、確かめずとも当然中身はわかる。
なけなしの財産で買った、子供用の手袋だ。
「もう渡せないだろ、これ……」
サイズが決定的だが、季節が春なのもそうだ。出番がどれだけ早くとも年末ぐらいにならないとない。完全に出番を失している。
けれど、捨てるなどの選択肢は俺になかった。
一種の戒め。
俺は調子に乗って、純に足元をすくわれた。それをしっかりと胸に刻んでおくのに、これは残しておこう。
純と幾分は良好な関係になったとはいえ、油断はならない。
引き出しをそっと閉じ、改めて気を引き締めた。
日が沈み、いよいよそのときを迎える。
事前に決めておいたところに向かい、二人と合流する。
「早いな」
「翔は遅いね」
着いて早々に、爽やかな笑顔で随分と棘の含んだ言葉を発せられた。
こいつ、本当に性格が悪いな。予定していたより早くきていたのも、お前の企みではないのかとの疑念が湧くが、ここでいざこざを起こしても仕方がない。
水面下での俺と純とのやりとりに、真理の頭上には『?』マークが浮かんでいた。
「とりあえず、行くか」
「うん!」
太陽の下で煌びやかに咲く桜も華やかだが、提灯に薄っすらと照らされた夜の桜も幻想的で、まるで別世界に迷い込んだようにも思える。
「きれいだねー」
瞳を輝かせて、真理は広がる夢景色を眺めていた。
その後ろで、俺と純は言葉を交わす。
「こうしてさ、三人で遊んだりするのも久しぶりだよね」
「いつでもどこでも、ずっとはいれないからな。それに、嫌いな奴とは四六時中いたくないだろ?」
「好きな人といたくても、必ず邪魔はしてくるし」
「確かに」
互いに前を向いているのに、見えない火花が散る。
「ん? どうしたの?」
後ろでされる静かな鍔迫り合いを察したのか、振り返った真理が少し前屈み気味になって首を傾げた。
「「いや、別に」」
声が揃ってしまった。
「ぷっ、変なの。あっ、私だけ仲間外れとか嫌だよ」
笑ったり怒ったり、喜怒哀楽が忙しない。
「するわけないだろ。……俺、どっかの店で適当に飲み物買ってくるから、そこら辺で休んだりして待っててくれ」
離れる間際、純に目配せする。
このままでは、本当にただの花見で終わってしまう。ここでなら、小細工も通じない。せっかくの機会だ。
俺の考えを汲んだ純が微かに首を縦に振った。
◇ ◇ ◇
川沿いで営んでいた店で適当に見繕ったのを手にし、俺は来た道を戻っていた。ゆったりとした足取りで、なるべく時間をかけて。
正直、自分でやらせておいてではあるが、恋敵と意中の相手を残すのに後ろ髪を引かれる思いはあった。
何を喋り、何をしているのか、俺にはわからない。不安になる。
それでも、二人でいるのはわかっている。把握している。そこに一定の安心感を得られていた。
純に連れ出されたりしなければ、の話だが。
だが、そんなのも杞憂に終わる。
真理と純は消えずにいた。
すぐにでも駆け寄りたい衝動に襲われるが、理性で制御して踏ん張った。
一度様子を窺い、もとい探って、邪魔にならないベストなタイミングで行くのがいいだろう。
近すぎず遠すぎずの距離をとって覗いてみると、嫉妬に駆られそうになるぐらいに朗らかな――とはお世辞にもいえない曇った顔をして、しんみりとした空気があっちには漂っていた。あくまで、俺の主観でだが。
純がうまくいかなかったのなら、これは俺にとって喜ばしいことだ。
なのに、心がざわめく。そうなる原因に全く見当がつけられない。
ならばと、呼吸を整えて強引に抑えつけた。
方針転換し、タイミングもへったくれもなく距離を縮めていく。
「遅くなった。ほら、これ」
それぞれに買ってきたものを渡す。
受け取ってはもらえたが、空気はやはり重苦しい。純が口数少なくなっているのはまだしも、明るくしていた真理まで視線を落として暗い。
これは、絶対に何かあった。
しかし、この場合はどう立ち振る舞うのが正解なんだ。
やはり道化になって、漂っている淀みを晴らすのが最善の選択だろうか。
俺が口火を切るのを躊躇ってそうこうしている内に、純が不意に歩み出る。
「ごめん、少しだけ席外すね。時間かかりそうだし、ここで待ってなくていいよ。こっちから連絡する」
大人しくしていたのが一転、こちらに有無をいわさない勢いで畳みかけるように告げ、次は君の番だと目配せもし返されて、純は去っていった。
残された俺と真理の視線は最初純に集まっていたが、姿が見えなくなるとそれぞれに向けられる。
「じゃあ……その、お言葉に甘えて行くか」
「う、うん……」
真理とはこの頃でも十年近くの付き合いがあるのに、まるで会ったばかりの人といるときのぎこちない感じになってしまっていた。
これは一度、はっきりと訊いた方がいいな。
触らぬ神に祟りなしだろうけれども、この状態が続くのもまた好まない。
「純と喧嘩でもしたか?」
ぴくりと真理の肩が揺れる。
「……ううん。ちょっと、ね」
表情にも陰りが見られた。
「もし、酷いこととかされたなら――」
「違うの! 違うの……。私が悪いの」
「真理が?」
「私が、はっきりしなかったから……」
いまいち、真意が掴めない。
「なあ、真理」
「えっ……!」
縮こまって小さく映り、どこかに逃げていってしまいそうな真理を掴まえるのに手を握る。
「俺にはいえないのか?」
「……ごめん」
「そうか」
今にも泣き出しそうに震えている。
あいつは一体何をした。
両者に問いただしたい気持ちはあるが、あまり無理強いしすぎるのも真理の精神衛生上よくない。
「わかった。なら、純が戻ってくるまで、俺を存分に楽しませてもらうぞ」
握っていたのを繋ぎ直して、俺は真理の手を引いた。プランなどあるはずもなく、咄嗟に起こした行動。
だとしても、落ち込んでいる真理を看過は出来ない。
こうなったら、為せば成る作戦だ。やるしかない。
「か、翔。恥ずかしいよ」
「何がだ?」
「だって、その……ほら」
繋いでいる手を示す。
それでも、ごめんと謝って離したりはしない。
恥ずかしさを覚えているというのは、逆にそれを嫌がっていないのを意味している。と、俺には思えた。本当に嫌悪感があって生理的に受け付けられないのなら、そうならないはずだ。振り払うだろう。
俺は離すどころか、力をさらに入れる。
「純が来たらやめる。それまでいいだろ?」
真っ直ぐに真理を見つめる。逡巡しているのが瞳の揺らぎでわかる。
だから、純が戻ってくるまでとの逃げ道を作った。
結果、真理は折れてくれた。瞼を閉じ、俯いていると間違えそうになるぐらいに下を向きながら、ほんの僅かに頷いてくれた。
「ありがとう」
俺も肝が大分据わって、随分と格好がつけられるようになった。
変な汗もかかずにいれているし、挙動もそこまで不審になっていない。
前のときには微塵にも叶わなかった、真理とのこの状況だというのに。
傍からは、恋人同士だと見間違うかもしれない。
そんな、ほんのひとときであろう幸せに浸る。
淡い橙色の光を放つ提灯だけが、暗夜に隠れる桜の姿を鮮明に映し出し、木々を吹き抜ける風によって舞い散る花びらは、地面や川面に落ちて自身の色に染めていく。
歩いていく中で移り変わる景色に大した差はないのに、世界がそうやって彩られて一変したかのように、俺には感じられた。
でも、万物は有限だ。必ず終わりが訪れる。
川に架かる橋の上に来たときだった。ポケットに入れていたスマホが鳴ったのは。
そこで、自然と繋いでいた手を互いに離した。
「――ああ、わかった」
通話を終え、あいつがここに来るのを待つ。
しばらくして、純は現れた。
「ごめん、遅くなった」
そこから、また三人揃って歩いていき、ある程度進んだところでお開きとすることになった。
「また明日ね」
手を振る真理を見送り、声がもう届かないであろう距離になって、俺は純に問うた。
「純、お前にはお前のやり方があるのは重々に承知してる。その上で訊かせて欲しい」
「うん。いいよ」
「真理に何をした」
若干、語気を強める。
それに対して、純はどこ吹く風。肩をすくめて、平然とした態度で俺の問いに答えを返した。
「一つ、質問をしただけだよ」
もったいぶらないで、早く教えろ。目でそう促す。
「怖いな。僕は、真理にもう気付いてるんだろといっただけさ」
「気付いてる?」
「そう。君が一番理解していることをね」
隣にいた純が一歩、俺の前に出る。
そこから、饒舌に語り始めた。
「僕は翔が大嫌いだ。翔も僕が大嫌いだ。そうだろ? その要因に、真理絡みな部分がある。なら、当の真理はどうだ。三人が仲良しでありたいと願っている」
抑揚をつけて、まるで独演会みたいに話し方をする。
「だけど、真理だって気付いてるんだよ。……それが無理だってというのを」
純は一拍置いて、最後の言葉を強調させた。
否定したいのに、さっきの真理の様子が脳裏を過ぎる。
「これが僕の正々堂々とした戦い方だよ。後悔はない。これで駄目なら、諦めざる得ないね」
あれを見て、うまくいったなどとは思えない。
だというのに、純には悔しさが偽りなく滲んでいなかった。
「でもね、翔。これは忘れないでくれ。君の勝利は確定していない。戦いに決着はついていない。続いてるんだ」
最後にそういい残して、純は帰っていった。
それを、以前に出し抜かれたときと同様に、俺はただ眺めていた。
◇ ◇ ◇
空いていたクラスメイトの席に腰を下ろす。後ろの席には、真理。
軽く声をかけるも、反応は鈍い。
視線を彷徨わせながら、先日の件を口にしてみた。
「純のを、あんまり真に受けるな」
確かに、俺もずっと仲良しでありたいとは願っていないし、いれるとも思っていない。純と似たようなものだ。
大人気ないかもしれないが、仮に幼馴染の二人がくっついて、余った一人が変わらず共にいるのは気持ちとして難しい。
真理が俺と純以外の他の誰かと付き合った場合も、また然りだ。
だが、ああも無碍にするのは如何なものか。冷たすぎる。
「今すぐに関係が壊れるってわけじゃないんだ。いつかのことで落ち込んでても仕方ないだろ」
俺なりの、出来る範囲での慰めだった。
「翔は優しいね」
真理は微笑むも弱々しい。
「とにかくだ。元気出せ!」
俺はちゃんと笑えているだろうか。
真理に安らぎを与えられただろうか。
「うん。ありがとうね」
心がちくりと痛む。
考えは純と大きく違わないのに、あいつだけを然も悪者にして、真理の味方でいようとしている自分は卑怯者なのかもしれない。
しれないが、純のやり方だけは認められない。
真理にこんな表情をさせるのが、正しいはずがない。
気付けば、俺は純がよくいる踊り場へと足を向けていた。
「やあ、翔」
純は普段と変わらず、そこで優雅にイスに座って読書を楽しんでいた。
俺が睨みつけても、微動だにしない。余裕綽々でいる。
「……何を企んでる」
「企んでるなんて酷いな。僕は僕なりに真っ直ぐ立ち向かったのに」
「だからって、真理を悲しませるのかよ」
「それが真理のためになるなら」
揺らぎはない。明確な意思のもとにやっているのだろう。
「認めない……。お前は間違ってる」
「間違ってるとか、正しいとか、別に僕らが今ここで決めることじゃない。選択した後が大事なんだよ」
純が腰を上げる。
俺の横にまで歩いてくると、肩に手を置いた。
「いずれ、わかるよ。その意味が」
この時代の十年も後から来ているというのに、憤怒で我を失いそうになっている俺と、冷静に落ち着いて我を失わない純とでは、どっちが先を見越している立場の人間なのか不確かになる。
「それを見届けてから、僕をいくらでも責めればいい。君の真理に対する気持ちが、正しかったと証明されたときにね」
肩から手が離された瞬間、過去に戻る前に味わった屈辱が蘇る。
抑えろ。同じ過ちを犯すのは愚の骨頂だ。
「……純」
「ん?」
階段を下りていた純が振り返り、俺を見上げる。
煮えたぎる感情を拳の中に閉じ込め、出来る限り平淡な口調で俺は告げた。
「お前には負けない。絶対に」
必ず、その顔を悔しさで歪ませてやる。心にそう誓う。
すると、窓から差していた光が急に強さを増した。視界が白く染められていき、体が浮いたような感覚を覚える。
それを最後に、俺の意識はまたぷつりと途絶えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます