(4)

 香ばしい匂いに、意識が覚める。

 体を起こし、時計を見やる。僅かばかりの間、寝てしまっていたようだ。そういえば、実家にいた頃はそろそろ夕食の準備が整っていたな。

 ベッドから腰を上げ、場所をリビングに移す。

 テーブルには料理の盛られた皿が置かれ始めていた。


「グッドタイミング。呼ぶ手間が省けた」


 母は忙しなくというより、無駄のない最小限の動きでキッチンとリビングを行き来していた。

 俺も無言で運んだりするのを手伝ったが、途中で手を止めては窓から外を眺めたりした。雨の強く叩きつける音が響いている。

 俺の晴れない憂鬱な胸中そのまんまだ。


「雨、強くなってきてるわね。でも、明日中には一気に快晴になるみたいよ」


 なら、明日には俺も快くなれるのだろうか。季節は冬でも、人の心は夏の空模様みたいに変わりやすいともいうし。


「だと、いいな」


「そうね。まあ、予報だし外れるかもしれないけど。てか、あんたまで外の天気と同じで暗いわね。明日が本番でしょうが」


 バレンタイン自体は明日が本番だが、現時点で俺の出鼻は既に挫かれてしまっている。


「世の中、うまくいかないもんだよ」


 嘆きに等しい独り言をいう。


「ガキのくせいに達観したこと呟いてんじゃないわよ。未来を知ってるわけでもないのに」


 呆れて半笑いする母に、俺も苦笑いする。

 客観的に見れば、義務教育を受けている十年そこらしか生きてない奴が、何を知ってほざいているのだと俺も思う。


「……ん?」


 ふと、あるワードに引っかかりを覚える。

 俺は過去に戻れた事実から、未来を改変しようとばかりした。

 しかし、俺が一度経験した人生の過去にいるというのであれば、後に起こりうる出来事――未来を知っている。

 好意を伝える直接的な術を失ったとしても、それを利用しての間接的な術は残されているのではないか。

 閉ざされていた心に、一筋の光が差す。


「そうだな。俺、ガキだった」


「過去形じゃなくて、現在進行形でそうでしょうが」


「確かに」


 どん底に沈んでいた気持ちが徐々に浮いてくる。

 親は偉大だとよくいうが、その通りだと痛感せざるを得ない。子が敵わない絶対的な存在だ。純のとは違う、心地よい敗北感に胸が満たされる。

 ならば、次なる戦いに備えて、この腹も満たさねば。

 腹が減っては戦は出来ぬと、これまたよくいうのだから。

 そうして食事を終えた俺は、すぐに重さを増した体を部屋のベッドに預けた。

 襲ってくる眠気に負けぬように、薄らいでいた記憶を必死に辿る。俺の周りで何があった。役立つ何かはなかったのか。

 欠片を繋ぎあわしていく。

 降っていた雨は確か、予報から外れずに明日の夜には止んだはずだ。快晴の文字通りに、快いぐらいに雲のない晴れ渡った夜空が広がって。

 クラスメイトの一人に、星がきれいだったと撮った写真を披露していたのがいたのは、時期的に今ぐらいだった記憶もある。


「いや」


 だとしても、星空をただ眺めるのでは印象が弱い。もっと脳裏に焼きつく、美しい景色だと思えられるような場所からとかではないと。

 建物の屋上だと味気ないし、この時期は木々も花をほとんど咲かせておらず、これも雰囲気がいまいち物足りない。

 こういうのもあれだが、校庭にあった桜の木も実際は蕾で些か寂しかったし。


「桜か……」


 こっちの地域には、その名所があった気がする。

 思い出せ。思い出せ。

 呼びかけるか如く繰り返し念じ続けていると、一本の大きな幹をした木の光景が浮かび上がってくる。

 次第に明瞭さを増していき――瞬間、体を跳ねるように起こす。


「思い出した」


 翌日。弱くなりつつも未だに降り注ぐ雨の下、俺は学校に向かっていた。

 着くと教室に入り、席に座る。

 猫を被るではないが、純と一切関わらなかったり無駄に真理に絡んだりといった極端な言動は避け、微妙な距離を二人との間に置いて一日大人しくした。

 放課後は三人一緒に帰り、何事もなく普通に別れる。

 それに純は訝しんでいたかもしれないが、手も耳も届かないところまで離れてしまえば、あいつもすぐにはどうとすることも出来なくなるだろう。

 その後、俺は家でひたすらに外が暗くなるのを待った。

 ソファに腰かけ、目をつぶる。耳を澄ますと、音を立てていた雨も影を潜めていき、辺りは静けさを取り戻していった。

 そして、その音も遂に途絶える。

 俺は座っていたソファから立ち上がり、近くにかけておいたコートを手に取った。


「……こんな時間に、どこに行くの?」


 テーブルで一息ついていた母が訊いてくる。

 夜も更け、家を出ていこうとする息子をそう易々と見逃してくれるほど甘くはなかった。

 長ったらしく説明をしている時間はない。


「男になってくる」


 拳を突き出し、そう簡潔に答えた。

 最初は鋭い目つきをしていた母が、ぶふっと勢いよく吹き出した。


「そ、そう。頑張ってきなさい。そこまで気取れるなら大丈夫よ、きっと。うん」


 変に格好をつけてしまった俺が悪いのだが、こうもこけにされてしまうと急に恥ずかしさが増してくる。いたたまれなくなって、コートを羽織ると足早にリビングを後にした。去り際に、お父さんには適当に誤魔化しておくからとの声が聞こえた。

 あっさりと外出の許可をくれたのもそうだが、母の寛容さと面倒のよさに背中を押されてばかりだ。

 小さい頃や実家を離れてからはわからなかった、親のありがたみを身に染みて知る。

 感謝の念を抱きつつ、俺は風を切って駆けていった。


 ◇ ◇ ◇


 まだ、冬と春の狭間で揺れ動く外の温度は肌寒く、吐く息も白くなる。走り続けているせいで体も温まり、その白さはより濃いものになっていった。額には汗が伝う。

 向かう先はそこまで離れていないはずなのに、ものの数分で肺は悲鳴を上げていた。歩幅も体力も身体機能も、全てが子供サイズで持久力がない。

 呼吸の間隔が不規則に乱れていきながらも、俺はどうにか足を止めずに目的地まで辿り着いた。

 立派な門構えをした一軒家。

 表札には、大空の文字が刻まれている。

 俺は一旦呼吸整えて、最後に大きく息を吐いてからインターホンを鳴らした。暫し待っていると、大人の女性の声が俺の鼓膜を揺らす。


「はい。どちらさまですか」


「あっ、夜分遅くにすみません。翔です、羽馬翔」


「翔くん? ちょっと、待っててね」


 電子音が途切れてすぐに、閉ざされていたドアが開かれた。

 門と僅かな階段を挟んで姿を現したのは、真理。後ろには、真理の母親がいた。


「翔、どうしたの?」


「真理と行きたい場所があるんだ。来てくれないか」


「えっ、今から?」


 当然だが、真理は驚いていた。

 真理の母親も、その誘いにはさすがに難色を示す。


「翔くん。もう時間も時間だし、明日とかじゃ駄目なの?」


「駄目なんです。今このときじゃないと。これを逃したら、もうチャンスはないんです!」


 語気を強めるが、中々承諾はしてくれなさそうだった。

 ここで押し問答していても仕方ない。

 後のことは、またそのときにでも考えればいい。大人のときに磨いた渾身の土下座を披露すれば、真理の母親も許してくれるだろう。

 それからの俺の行動に、一切の躊躇いはなかった。

 門を開け、真理に駆け寄り、その手を取る。踵を返し、制止の暇も与えずに俺は真理を連れ去った。

 これで、もう取り返しはつかない。ただ突っ走るのみだ。

 とはいえ、既に残存する体力は微々たるもの。それに真理も女の子だ。互いにそうそう長持ちはしない。

 案の定、途中で限界を迎え、休憩がてら足を止めた。

 やっと落ち着きを得たところで、ずっと繋いで温もりを感じていた右手がぎゅっと握られる。

 振り返ると、俺同様に息を切らしていた真理が戸惑いの表情を浮かべてながら、目で説明してよと訴えてきていた。


「ごめん。でも、どうしても見せたい景色があるんだ」


 それだけを告げて、部屋着のままだった真理に俺が羽織っていたコートを渡し、再び歩き出した。

 不平不満はもちろんあっただろう。それでも、真理は喚いたりや改めて繋ごうとした手を拒んだりはしないでくれた。最後まで付き合ってくれるみたいだ。

 住宅街の中心を抜け、辺りに自然が多くなる。


「暗いよ? 大丈夫なの……?」


「大丈夫。俺を信じろ」


 さらに住宅街の外れにまで来る。踏み入っていったのは、小さく盛り上がった標高の低い山。街灯の数は一気に減り、暗さはより深くなる。

 真理はもう一方の手で俺の袖を掴み、必死に恐怖心を和らげようとしていた。

 少しでも安心させるために声をかけながら、整備された道を登っていく。


「――真理」


「ん?」


 俺の背中に隠れるようにして寄り添い、俯いていた真理に呼びかける。


「これを真理に見せたかったんだ。……にしても、思ってた以上にすごいな。来させた俺が言うのもおかしいけど」


 さっきまで空を覆い、弱くも雨を降らしていた雲は散り散りとなって、その隙間から眩しいほどに煌く星々が地上を照らし始めていた。

 それでも十分に目を奪われるが、それだけではない。


「ふあ……」


 真理もそれを視界に入れると、沈んでいた表情が空の変わり様を鏡で映すかのように明るくなる。


「きれい……。星の花が咲いてるみたい」


 俺と真理の前には、一本の大きな桜の木があった。

 上にいくにつれて、太い幹は細い枝として四方に広がっていく。もちろん、枝でそのときを待つ蕾は花開いていない。

 その代わりに――無数の星が咲き誇っていた。


「真理」


 真剣な面持ちで、横にいる思い人を見る。

 誰からも邪魔をされない、二人だけの空間。

 ゆっくりと、言葉を紡ぐ。


「これからもさ、仲良くしような。純と三人で」


「うん!」


 これでいい。

 真理の笑顔を、俺は失いたくない。

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