(3)
「おはようございまーす」
「はい、おはよー」
「先生、おはよー」
「ございますを付けなさい。はい、おはよ」
十年以上ぶりにランドセルを背負って、俺は登校していた。
妙に緊張している。
教師でも保護者でもない俺が、小学校の敷地内にこの足を踏み入れようとしているせいだろうか。
少なくとも、やましい考えがよぎるからではない。
そんなくだらない目的で、俺は今ここにいるのではない。
まとわりつく邪念を懸命にふり払い、俺はついに校門をくぐった。
下駄箱で上履きに履き替え、最終学年のクラスに向かう。
教室のドアを開けると、多くの同級生たちが楽しそうに騒いでいた。どいつもこいつも懐かしい奴ばかりだ。
その中を縫うように歩いていく。
自分の席の場所はすっかり忘れてしまっていたが、イスの背もたれの裏側に名前の書かれたシールがあった。
それを頼りにどうにか見つけ出し、ランドセルを机の上に置く。
そして、今度は人を探すのに教室を見回した。相手はもちろん彼女だ。
ななめ後ろの若干離れたところに、真理はいた。
近寄ろうと一歩目を踏み出した瞬間、忌々しいことにあいつも現れた。
「やあ、翔」
「おう、純」
明るく挨拶を交わす。
傍からでは微笑ましい光景にも映る、その些細なやりとりだったが、互いに裏で牽制しあっている気がした。
純の笑みにも鋭さが感じられる。
向けられているであろう警戒心を解くのに、俺は純の肩に腕を回した。嫌な奴に対して、こんな風にはしないと思わせるために。
純は急な衝撃に襲われて驚いていた。
「ん? どうした」
「う、ううん。別に……」
「変わった奴だな。もっとしゃきっとしろよ!」
俺の勢いに押されて、純は抜いた刀をあっさり鞘に収めた。元のまだ仲のいい幼馴染になる。
俺とは違い、こいつは中身も外見も小学生だ。怪しみはしても、深くは考えていなかったのだろう。
とはいえ、油断は出来ない。
「翔はやっぱり翔だね」
「そりゃそうだろ。いよいよお前もおかしくなったか」
この頃の俺らしい振る舞いをした。
図々しい態度が純は気に食わなかったわけだが、この場合はそれでいい。
「ほら、行くぞ」
本心を押し殺し、肩を組んだ状態で一緒に真理へと向かう。さすがにずっとは暑苦しいので、途中で外しはしたが。
「おう、真理」
「おはよう」
「朝から元気だね、二人共」
そうして他愛もない話をしながら、授業前の朝の時間をすごした。
純が近くにいては、真理と大事な話をしようにも出来ない。教室では無理か。
「ほら、HR始めるぞー」
そうこうしている間に、担任の教師が来てしまった。
自分の席に戻らざるえなくなったので、俺はこの時間での目的の遂行は諦めて、踵を返そうとした。
だが、視界の端で純も同様の動きをしているのを捉えて、考えを反転させる。
純の視線が外されたタイミングを狙って、真理に小さい声でも届くよう一気に距離を縮めた。
「後で、二人で話したい」
真理は俺が迫ってきたので、反射的に体を反らすも頷いて了承してくれた。
「ありがとうな」
それだけ言い残し、素早く体を翻す。
HRが終わると午前授業へ突入するが、内容は頭どころか耳にすら全く入ってこなかった。俺の思考回路は既に次のことで占められ、外部の情報はシャットアウトしてしまっていた。
かつてない集中力を、まさか昼休みまで維持出来た自体は褒めてやりたいが、結果として後悔するはめになる。
「あれ、真理は……」
教室に姿がない。
ちょっとした私用でいなくなっただけかもしれないが、妙な胸騒ぎがする。したくもない想像をしてしまう。
それに拍車をかけるように、純までもがいなくなっていた。
不安が次第に膨らんでいく。
事は着実に順調に進んでいたはずだ。どこかで選択を誤ったのか。
「…………!」
用を済ませたであろう純が一人で戻ってきた。隣に真理はいない。
「おう、どこにいたんだよ」
必死に冷静さを装って尋ねた。
「どこって、トイレだよ?」
想像が現実にならず、内心安堵する。
杞憂だった。たまたま同時にいなくなっただけだ。
「そうか。……やべ、俺も何かしたくなってきた。行ってくる」
「うん、わかった」
廊下を適当にぶらつき、他クラスの女子生徒たちと話している真理をようやく見つける。
あそこに俺が遮る形で割り込んでいくのは本当に申し訳なく思うが、こちらもあまり気持ちに余裕がなくなっていた。
しかし、そんな罪悪感もすぐに霧散する。
真理が俺に気付いて、こちらに駆け寄ってきてくれたのだ。
女子生徒たちとはうまく区切りをつけたのか、手を振って笑顔で別れていた。
「ごめん、翔。呼び止められちゃってて。それで、話って?」
「ああ、えっと……」
首を傾げる真理に、俺は用件を伝えた。
まずは、二人で会いたい旨とその日にちだ。あいつを含めて他の奴と被るのを避けるのに、バレンタインより前の日にする。
また、いきなり例の場所だとあからさますぎるので、待ち合わせは別のところにしておいた。
「大丈夫そうか?」
「翔のお願いだもん。大丈夫にするよ、安心して」
それを聞き、口元がにやけてしまいそうなのを堪えた。
真理にとって、俺が特別な存在であるのを感じられたのが嬉しくて仕方なかったからだ。
よく一緒に遊ぶ幼馴染としての関係があったとしても、好きな異性にそういう言葉をもらえるのは胸躍る。
さて、展開もいよいよクライマックスだ。
純を出し抜き、俺と真理との関係が新たな局面を迎えることとなる。
明るい未来が待っていると、このときの俺は信じて疑っていなかった。
◇ ◇ ◇
厚い雲の灰色が、空の青色を隠しつつある。
雪もほとんどが溶け、黒く汚れた塊が道端でしぶとく残っていた。
期待に躍る胸とは対照的に、街中は淀んでいる。すぐにでも、とどめに無数の冷たい雨を見舞われてしまいそうだ。
しかし、それがどうした。関係ない。
むしろ、この俺が切り開いていって照らしてやる。それぐらいの意気込みだ。
「とはいえ、備えあれば憂いなしだ」
片手に傘を握り、俺は昇降口に立っていた。
当然だが、本当に天を切り裂くための下準備をしているわけではない。
雨が降るより先に事は終わらせるつもりだが、もしものときにはこれも役立つだろう。
ちなみに、プレゼントはランドセルの中に入れておいてある。
「真理は、まだ来てないか」
今は放課後。
帰り支度を済ませた生徒たちは学校を去り、クラブ活動をする生徒や委員会活動をする生徒は校内を行き来し始める時間帯。
俺は邪魔にならない位置で、真理を待っていた。
いつもは三人で帰っていたが、今日は理由を並べて解散させた。純もすんなりと俺の嘘を信じてくれた。
万事、順調である。
「ちょっと見てくるかな」
噂の桜の木は、俺のいる昇降口に近い正門とは反対側の裏門寄りに植えられている。
そちらへと向かって歩いていくと、空が曇っていっているせいもあるのか、見晴らしが悪い。それも近づいていけば薄らいでいき、ぼやけていた光景がその輪郭を現し始めた。
木の下で佇む――男女の姿を。
俺は足を止めて、その二人が誰なのかを認識した。
一人は、真理。
もう一人は、純。
あってはならない光景を目にして、俺は呆然と立ち尽くしてしまった。そこに割り込んでいくことも、引き返すこともしないで。
すると、純が体を翻した。
こっちへ来る。焦るも、前にも後ろにも動けず、結局はその場で相見える形になってしまった。
「ああ、翔か。ごめん、先にさせてもらったよ」
俺に気付いた純が、爽やかな笑みでそういった。
主語がなくとも、何をしたのかは理解出来た。
純もあえて、そういう言い回しをしたのだろう。俺のまるで鳩が豆鉄砲を食ったような馬鹿な面を見て、説明しなくともわかるだろと。
「内緒でこそこそやってたみたいだけど、僕だって負けるつもりはないから」
最後にそういい残し、純は俺の横を通りすぎていった。
こいつは十代そこらの小学生なのか。それさえも疑いたくなってくる。
行動も思考も全部見透かされていた。抜け駆けをしていたつもりが、子供の手のひらの上で踊らされていただけだった。
遠ざかっていく小さい背中の奴に、俺は上を行かれたのだ。
「翔?」
後ろで真理が俺の名を呼ぶ。
振り向かずに、俺は声を絞り出して問うた。
「どうして、純が……」
「えっと、お昼休みのときに頼まれたの。翔と二人で会う約束したら、その前でいいから僕とも会って欲しい。翔の邪魔はしたくないからって」
邪魔はしたくない。詭弁も甚だしい。
それでも、男二人の邪な思いなど露知らずに、真理はどちらの頼みも快諾した。俺たち二人を信じてくれているが故に。
その無垢さが憎らしい。
「純は何を……」
真理は手に持っていた物を俺に見せる。それは可愛らしい袋で包装されていた。
「いつも仲良くしてくれてる、そのお礼にって」
「……渡されただけか?」
「うん。これからも三人で仲良くしようねだって。そんなの当たり前なのにね」
純はプレゼントを渡したが、告白まではしていない。それだけなら、俺にとっては朗報だ。先を越されても、チャンスは残っているのだから。
けれど、違う。純は単純でも強固な予防線を張っていった。
真理は、俺と純を信じている。これからも、三人の仲がずっと続いていくものだと信じて疑っていない。
純と仲違いしようとも一向に俺は構わないし、それに関してはあいつにも通ずるところだろう。
でも、真理は望んでいないのだ。
そんな純粋な気持ちを壊してしまう。
俺の中にあった、お情け程度の良心が胸を痛くさせる。
「……真理、ごめん。俺との約束さ、今日はいいや。別のときにまた頼むな」
精一杯に繕った笑顔を見せて、逃げるように俺はその場を後にした。
真っ直ぐに家へと帰り、そのまま一人部屋に篭った。ベッドに飛び込んで、全身をバウンドさせてから仰向きになる。
頭では自分を責める言葉が並んでいた。
後悔をしてもしても、事実が覆ったりはしない。神様が時間をもう一度巻き戻してくれる気配もない。
刻々と時だけが流れていく。
いつしか、街には雨が降り注いでいた。
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