第1章 小学生の冬編

(2)

 屋上から飛んだ後、意識から光と音が次第に遠ざかっていく。

 このまま五感の全てを失って、無様な死を迎えるのだろう――そう思っていた。


「……る! ……ける!」


 すごく遠くで、何かが聞こえてくる。視界を覆う闇にも、薄っすらとだが明かりを感じる。


「「翔!」」


 自分の名前。それを呼ばれたのを認識した瞬間、意識が一気に覚醒した。視界を遮っていたまぶたをばっと開く。

 そこには、白一色の光景があった。

 病院の天井。なら、俺は死に損なってしまったのか。どこまで、俺は運がないのだろう。


「あっ、起きた! よかった~」


「心配したよ、翔」


 おかしい。犯罪者にまで落ちこぼれた屑な人間が目を覚まして、どうして安堵している。

 抱いた疑念を確かめるために視線を横にずらした俺は、さらにわけがわからなくなった。

 いたのは、医師でも警察でも家族でもなかった。


「真理と純、か?」


 大空真理と黒音純。その二人だ。

 そいつらが、この俺を心配しているだけでもありえないが、それを飛び越えて自分の目を疑ったのは、二人の姿形だった。

 あまりにも小柄で、童顔すぎたのだ。小学校に通っていた頃の外見そのものだ。


「そうさ。頭打って、おかしくなった?」


 純であろう少年が訝しげに首を傾げる。


「痛いの? 大丈夫?」


 真理であろう少女は優しく気遣ってくれる。


「ちょ、ちょっと待ってくれ……」


 一旦落ち着いて、状況を整理しよう。

 まずは、場所の把握だ。

 ここは病院。にしては、随分と天井が高く思えた。少しそこらではない、果てしない距離が俺との間にある。肌に伝わる温度もかなり低くかった。雪でも降りそうなぐらいに寒い。


「まさか……!」


 ある結論を導き出す。

 信じられなかったが、仰向けになっていた体を起こして周りを見回し、それが間違いでなく正しかったのを理解して、俺は唖然とした。

 いたのは、雪によって深く銀世界に染められた街の中。天井だと勘違いしたのは、空を埋めつくすぶ厚い雲だ。

 俺が純たちから結婚式の招待状をもらったときにも、街には雪が降り積もってはいたが、ここまではなかった。もっと疎らとでもいうのだろうか。

 改めて、横にいる二人を見つめてみる。

 こいつらはやはり外見からして、小学生のときの真理と純に違いない。見覚えがある。

 また思い返してみれば、小学生の頃には一度、東京が大雪に見舞われた年があった。中学生になる前の、最後の年にだ。

 それらのことが鑑みると、ありえないが俺がいるのは――十三年前の冬なのか。


「ねえ、真理。やっぱり打ちどころ悪かったんじゃないかな?」


「そう、なのかな……」


 丸聞こえのひそひそ話が後ろでされる。これ以上怪しまれると、取り繕うのが難しくなってしまう可能性があるのを、自分が置かれた現状に戸惑いつつも瞬時に悟った。


「ごめんごめん。もう大丈夫だから。ほら、やろう」


 口調は大人になっても、大きくは変わっていなかったはずだ。

 子供のくせに随分と背伸びして格好つけていたなと自分で感じてしまったが、この際は気にしないで続ける。


「本当に?」


 純はなかなか信用せずに疑いの眼差しを向けてきたが、俺は適当な理屈を並べて、どうにか丸め込んだ。

 一方、真理は俺の言葉に胸をなで下ろしてくれていた。隣にいる奴と違い、純粋な心の持ち主なのに何だか嬉しくなる。

 そんなこんなで、俺が気を失う直前までしていたであろう遊びを再開させた。

 断片的な記憶による憶測で雪合戦と踏んだが、二人が抵抗もなく始めたのでその通りだったのだろう。一安心する。

 そうして時間も経ち、十分に遊んだ俺たちは帰路についた。

 その最中、楽しそうに話す二人から一歩下がり、今度は中断していた思考の方を再開させる。

 現状を簡単に受け入れられたかは別として、置かれている状況は徐々に理解してきた。

 にしても、人生をやり直させてほしいと願ったのは自分自身だが、まさか叶うとは思いもよらなかった。普通ならしない。

 しないが、これは神様がせっかく与えてくれたチャンスに変わりはないのだ。

 俺は決心する。

 過去に戻ったという驚愕の事柄を、この馬鹿な頭でいくら考えようとも時間の無駄だ。意味もなく消費していくだけだろう。

 事実だけを受け止め、犯した過ちを繰り返さないための思案に暮れるべきだ。

 俺は視線を、前を歩く――真理に向けた。

 そこには誰のものでもない、きれいな彼女がいた。

 髪は大人のときよりも少し短めで、ショートに近い。横から覗く顔つきは、当たり前だが子供らしい丸みがあり、とても可愛らしかった。

 高校を卒業してから、ずっと消そうとしていた好きな気持ちが次第に湧いてくる。


「ん、何? 翔」


 真理が見つめられていたのに気付き、こちらを振り向く。


「あっ、いや……可愛くて、ちょっと見惚れてた」


 とっさに誤魔化そうとして、つい本音がこぼれてしまった。すぐに後悔をする。恥ずかしい言葉を口にしてしまったのだ。嘲笑でもされて終わりだ。

 しかし、返ってきたのは全く異なる反応だった。


「えっ……あ、うう」


 真理は頬や耳を真っ赤に染めていた。やけに初々しい反応をする。

 それもそうだった。この時代の彼女は小学生だ。大人の女性ではない。経験の少なさから、ストレートな物言いにはあまり慣れていないはずだろう。


「か、翔。急に何を言ってるのさ。冗談はやめなよ」


 純が間に割り込んでくる。

 かつての俺であれば、これを助け舟とでも受け取って、その場を取り繕うとした。

 好きなのを当の本人に悟られてしまうなんて、男としてのプライドがまあまあ高かった当時の俺が許容できるわけもない。

 しかし、今は違う。体は子供になっているようだが、精神までは戻っていない。くだらない自尊心など、すでに崩れ落とされていた。

 それに、冷静さをどうにか保ってはいるようだが、不意に発した俺の言葉に純がどこか焦っていたのを見逃さなかった。

 こいつには裏の顔、本性がある。トイレでの一件で、それを思い知らされた。

 俺が真理に好意を抱いているのを、純はこの時点でもう気付いている可能性もある。男として最高に無様な敗北を味わわせたいと考え始めていたかもしれない。

 仮に俺が好きな気持ちを伝えて断られたとしても、純が望む最高の結果にはならないだろう。もっと惨めでないといけないはずだ。

 見せた焦りは、そこから生じた純の心の揺らぎだ。

 これは好機。攻めあるのみ。

 プライドがない奴に恐れはない。


「真理は可愛いだろ。純は違うのか? けど、確かに急に言われたら困るか。悪い」


 発言の否定、撤回はしない。可愛いという部分はしっかり事実だと告げ、純の面目も一応保たせる。これぞ、大人の余裕。

 効果はあった。

 謝られたことで真理は落ち着きを取り戻し、大丈夫だよと優しい笑みを見せた。俺の主観ではだが、少なくとも好意を示されたのに対して嫌そうなそぶりはない。

 純にとっては不本意であれど、事が一定の収まりを見せたために打つ手を失って大人しくなった。

 ざまあみろと心の中で叫び、すぐ後にだから俺は駄目なのだと自責の念にかられたのは、俺と神様だけの秘密にしておく。


 ◇ ◇ ◇


 帰宅し、俺はリビングにあったソファーに体を沈めた。

 テレビの電源をつけて、ニュースを見る。流れてくる音声から、ここがやはり十三年前なのを改めて知る。

 さて、ここからが問題だ。

 神様のご慈悲により奇跡的に得られた、このチャンス。

 これで俺がやるのはもちろん――人生のやり直しだ。真理を純から奪い返してやる。


「てか、俺のでもないか……」


 訂正。気持ちをちゃんと伝えるに。

 それで、だ。

 恐れのなくなった俺には、直球勝負で好きですと告げる勇気もあるにはあるが、多少なりとも確実性があることに越したことはない。

 例えば、真理が俺に好意があるという情報を耳にする。または、好意を抱いてもらえるようなきっかけがあっての告白。

 現時点では、その両方ともに欠けている。

 さっきは嫌そうなそぶりはなかったが、それが異性として好いてくれている根拠にはならない。

 そもそも、きっかけも記憶の限りない。

 だったら、作ればいい。答えは簡潔だ。


「…………」


 思考が停止する。

 何故なら、その方法につまづいてしまった。

 俺の自慢に、恋愛経験の少なさがある。以前に、一人の女性と付き合ったがすぐに別れてしまった。女心は未知の世界である。

 うまく進めるにはどうすればいい。


「ん、ん、あああ~!」


「うるさい! 黙れ!」


 煮詰まった俺がうなり声を上げると、間髪いれずに怒声が返ってきた。

 予期しない出来事に体がびくつく。


「ぶつぶつ呟いて、耳障りなのよ。頭でも打って、おかしくなった?」


 声のする方を見やると――若かりし頃の母親がいた。若いといっても、十三年分だが。ややふくよかな体型にエプロンをしている。


「お、お母さん……何で?」


「はあ? あんた、冗談抜きで病院に診てきてもらいなさい。家なんだから、あたしがいるのは当たり前でしょ」


 失念していた。普通に帰ってこられていたが、ここは俺が一人暮らしをしているアパートではない。母に父もいる、実家だ。


「だ、だよな! ぼーとした」


 苦笑いをする息子に、母は呆れた表情をする。


「悩みがあるなら聞くわよ」


 だが、そこは母親。お節介をやいてきた。隣に座って、俺の言葉を待つ。

 親に訊くのもいかがなものかだが、手段を選り好みしている場合ではない。親だって結婚までした立派な経験者だ


「真理といい感じになりたいんだけど……そのアドバイスが欲しい」


 子供の戯言としてではなく、本気であるのを理解してもらうのに真剣な面持ちでいった。

 母は俺をじっと見つめる。

 瞳というよりも、その奥にある真意をさぐってくるような迫力があった。今までに感じたことのない、中身が入れ替わっているのまで悟られてしまいそうな母親の雰囲気に圧倒されるが、決して目は逸らさなかった。


「あんた……」


 汗が頬を伝う。


「親によく恥ずかしげもなく、好きな子の相談できるわね」


 一気に力が抜けて、ソファーから落ちそうになった。


「いや~、男になったんだね。えらいえらい」


「な、なでるな! 教える気ないなら、もういい!」


「これは恥ずかしいんだ。まだまだ子供かな。じゃあ、耳寄りな情報を一つ教えてあげる。ママ友から聞いたんだけど――」


 初耳だった。

 通っていた小学校に、まさかロマンチックな恋の伝説があったとは。どこぞの恋愛ゲームだとつっこみたくなった。

 母曰く、学校の校庭にある最も大きな桜の木の下で告白をし、結ばれた男女には永遠の幸せが訪れるらしい。


「もうすぐバレンタインも近いしさ。チョコをもらえるのを待つだけじゃなくて、あんたからプレゼントでもあげてみなさいよ。真理ちゃんみたいないい子なら絶対に喜んでくれる」


 そういって、母は俺の頭を優しくなでた。


「当たって砕けてきなさい。お母さん、応援してる」


「……ありがとう。でも、砕けたら駄目だろ」


 助力してもらったのに、素直に感謝する。

 母が去った後、俺はソファーに体を預けたまま天井を仰いだ。

 バレンタイン。確かに、このシチュエーションを逃す手はない。年に一度は必ずある恋愛イベントだが、神様がこの時期に俺を戻したのには意味があるはずだ。

 純がここで何かしらの行動を起こしていたとか。

 俺がそれよりも先に動けば、歴史は変わる。


「ここが正念場だな。うしっ!」


 ずっと流れ続けていたニュースからは、美人なお姉さんの天候が不安定なので注意しましょうという声が聞こえてきた。

 雨が降っている最中でしては、いい答えももらえなくなりそうだ。そうなる前にやらないと。

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