竜の呪(ドラゴンズカース)編
プロローグ「照ノとエリス」
「ひ……は……は……」
真駒エリスは走っていた。
元より、運動は得意でない。
されど、今回に限って云えば、精神が肉体を支配し、足を止めることを、しなかった。
むしろ、させなかった。
「何処よ此処!」
赤い月に漆黒の夜空。
星はなく、人もおらず。
一人で、エリスは、誰も居ない不気味な夜を、横断していた。
「――――――――」
不吉な唸り声が聞こえる。
まるで破滅と悪徳と人外をブレンドしたような……不吉極まる……ソレは咆吼であったのだった。
「ひ――」
背筋を悪寒が支配する。
エリスは学生だ。
一般人と少し違うが、重なる部分が多いだろう。
信心深い家に育ったため、神秘主義には理解はあるも、それにしても今夜のことは、あまりに無惨だ。
赤鬼。
角を生やし、皮膚のない露出した筋肉肌。
「――――――――」
虚ろな瞳は何を見ているのか?
とても理性は期待できない。
そもそもコミュニケーションがとれるのか。
「何なのよぅ」
体力も限界だ。
呪われた身では、たしかに不安な毎日ではあった。
されども「鬼に襲われる」は、覚悟の範疇を余裕で飛び越えている。
セルゲイ・ブブカもビックリだ。
「――――――――」
粘性の高い涎が、赤鬼の口から零れた。
食べられる。
本当にそうなのかは、検証の必要はあれど、現実とは乖離した意識の部分が、確信していた。
南無三。
――殺される。
それは確かだ。
「なるほどで」
そこに第三者の声が響いた。
エリスでも、赤鬼でも無い声。
どこから現われたのか?
それすら明瞭ではない。
男だが……少年だ。
また奇抜だった。
金田一耕助を思わせるボサボサの鳥の巣頭。
服装は喪服で、ジャケットの代わりに紅の羽織を纏っている。
成人には見えないのに、宇羅キセルをくわえ、しかも火が付いており、ゆらゆらとタバコの煙が立ちのぼっている。
真駒エリスは、その少年を知っていた。
「おやま、被害者さんで」
いつの間にか、自分の背後に立っていた……知り合いは、こちらをあまり認識もしていないらしい。
被害者Aとでも言ったところか。
問題は、その黒眼が、挑戦的な光を帯びているところだ。
「鬼にも鬼の事情はありやしょうが……」
紫煙を吐く。
「成敗されるが定めならば、まこと真摯に受け止めて欲しいでやんす」
――何を言っているのか?
エリスには分からなかった。
まるで、
「今から鬼を退治する」
かのように聞こえたのだ。
聞こえたも何も、少年は、そのつもりだ。
「とざい、とーざい」
少年の手から、ボッと炎が点った。
「え?」
エリスが困惑する。
「灼火」
炎は膨張し、赤鬼に襲いかかる。
曼珠沙華の意匠をあしらった、紅の羽織がはためく。
炎の奔流が、鬼を襲う。
粘着性があるかのように、消えず、燃やし、鬼を焼き付くさんと、燃え続ける。
「――――――――」
獣の遠吠えが聞こえた。
鬼の口からだ。
「鬼よ鬼よ。蒙昧から覚めよ」
パチンとフィンガースナップ。
澄み切った音が、灼火をさらに増大させた。
「ルォォォォ!」
悲鳴があがる。
「灼火灼熱」
さらに炎の勢いが広まる。
鬼は、瞬く間に酸化し、劣化し、炭クズとなって、消え失せる。
同時に、結界が途切れた。
それを、音で、エリスは知った。
車のエンジン音やクラクション……人のざわめきと、風の声。
月は赤色から黄金に戻っており、既に一人では有り得なかった。
「さて御少女」
鬼を焼き滅ぼした少年が、エリスを見やった。
「今宵のことは、ここで黙秘ということで」
人差し指を唇に当てて、軽やかなウィンク。
そしてフツリと、少年は消えた。
「え……と……」
実感と記憶の齟齬が、エリスを困惑させる。
赤鬼が本当にいたのか。
自分は少年に助けられたのか。
それとも全てが悪い夢だったのか。
「……………………」
どうにもこうにもとの様子だった。
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