Days Number

 立石夏夫は、或る言葉をひしひしと噛み締めていた。それは、彼が高校生の時の話だ。担任は三年間とも松平健三という国語の教師だった。であるからといって、当然のことながら彼はサンバを歌わない。などと冗談はさておいて。年齢は五十半ばだったと思う。いつも膝の抜けたズボンと、刑事コロンボ並のよれたスーツを着ているのだが、凄く美人の奥さんが居る。

 普通ならば妻子持ちの先生が、よれよれのスーツなんて奥さんの立場からすると、許しがたいバンカラな雰囲気ではないのかと思うのだが、夏夫は彼の家に一度だけ訪問したことがあり、その時にハッキリと理由を理解した。彼の家には本収集家とでも呼べるのではないかと言うくらい蔵書が有ったのだ。

「先生、こんなに沢山の本。一体何冊位あるんですか?」

「うーん、そうだね。学校の図書館に預けてあるのも含めると、二千冊は下らないんじゃないかな・・・」

「に、二千ですか・・・。それ、全て読んだんですか?」

「全て読んだわけじゃないが、一通り目は通したよ」

 夏夫は、驚きのあまり声が出ない。それもそのはずだ。部屋の中に積まれていたのは一般の人が読むような文庫本やハードカバーだけではない。一冊数千頁に及ぶのではないかと思われるような、専門書や○○全集といった分厚い本までもが、所狭しと積まれているのだから。

「驚いたかい。これは僕の一番の道楽なんだ。この大量の本はイコールではないが僕の知識の量に限りなく近い、いや、僕の知識がこの本の量に限りなく近いだな。兎に角、棺桶に入るまでに可能な限り知識を高めたいんだ」

「でも、これだけの本を買うのに月幾らくらい掛かるんですか?」

「ハハハ。月平均五万円位かな」

 書籍の購入費に月五万円・・・。これではスーツを新調などできるはずがない。奥さんだって、きっと彼の本道楽にはあきれているに違いない。

「ま、普通ならば離婚されてもおかしくはないだろうな。しかし、彼女は僕のこんな姿を好きになってくれたのだから仕方ないさ」

 確かに彼の授業を受けていると、随所に国語だけではなく、英文学の話だとか、時には科学の分野の話が出てきたりと、知識の深さには脱帽させられる。だから、夏夫は彼の授業は嫌いではなかった。ただ、残念なことは夏夫の得意分野は数物系であり、本を読むのがあまり好きでなかったせいもあって、現国の成績は思わしいものではなかった。結局、松平の授業の中で彼の頭の中に残るのは雑学、即ち話が脱線したときの内容ばかりだったのだ。

 その中でも何故かずっと一つの言葉が、心の奥深くに突き刺さっているのだ。その言葉を初めて松平が口にしたのは、彼が高校一年の最初の現国の時間だった。松平は教科書を開く前に徐に黒板に『Days Number』という言葉を書いたのだ。クラスの全員が恐らく内心「おい、現国の時間だぜ」と思ったに違いない。

「立石、この意味を言ってみなさい」

「日々の番号ですか?」

 松平はニッコリと笑い「残念だね」と言い、言葉を続けた。

「簡潔に言うならば、日数だ。人間の寿命は凡そ八十年。一年三百六十五日とすれば、十年で三千六百五十日。八十年ならば、その八倍だから二万九千二百日。そのうちの十五年をもう通り過ぎてるとすれば、五千四百七十五日は無いわけだ。だとすれば、残された時間は二万三千七百二十五日が君たちの『Days Number』ということになる。僕の場合は残り三十年としても、一万九百五十日しかないわけだ。一日一日を大切にしないと、後で後悔が残ってしまうだろ。だから、残された日数を無駄にするようなことだけは無いようにしないといけないんだ。では、授業を始める。教科書を開いて・・・」

 その時は何気なく聞き流していた言葉。それが、社会人になった今になって夏夫の中にどんどんと迫ってくるのだ。何故なら社会生活に於いては常に期限を切って仕事をしなければならない。つまり、どのような局面においても『Days Number』が付き纏ってくるのだ。

「先生は人生の残り日数という形であの言葉を述べていたけど、上司から仕事の期限を切られるのもそうなんだよな。それも、時には重複して期限を切られる。これじゃあ『Days Numbers』だな」

 彼は一人呟きながら、グラスに注いだスコッチウィスキーを口に運んだ。テレビでは今日の出来事を女性キャスターと男性の解説者が、内容に応じて顔を怒らせたり、笑顔を作ったりしながら話している。

「彼らは良いよなあ。その日のうちに画面の中で間違えなく原稿を読めば良いのだから。でも、常にその時間が締め切りだと考えれば、スタッフの人たちは常にタイムリミットに縛られているのだから、俺たちよりハードなのかもしれない・・・」

 彼は現在、小さな広告代理店に勤めている。元々は大手に居たのだが、先輩が独立する時に手伝ってほしいと頼まれ、先輩を社長に十人のメンバーでスタートしたのだ。それでも各々がそれなりに顧客を持っていたので、順調なスタートが切れた。特にスーパーやドラッグストアの顧客は定期的に売り出し広告を打ってくれる。安定的な利益を確保できるので、そのような顧客を逃がさないようにするためには、かなりの気を使う。期日までに仕上げるためには、スケジュール管理がきっちりとできてなければならない。

 そんな仕事を扱っている時、彼はあの『Days Number』という言葉を思い出すのだ。恐らく先生は仕事の事を含めて、その言葉を吐いたのではないだろう。限られた人生を如何に充実させるか。何かに夢中になって真剣に取り組めるか。そのためには一日の無駄も惜しむくらいでなければいけない。

 しかし、果たして毎日時間に追いまくられ、締め切りに間に合わせても、また次の締め切りに追いまくられる。全く心が休まる暇さえ無いのだ。

 そんな、或る日の事。疲れ切った体を休めるために、その日は同僚と酒も飲まずに帰宅した。すると、部屋の郵便受けに一通の往復葉書きが入っているのに気が付いた。

「誰からだろう・・・?」

 部屋に入り、内容を見ると・・・。クラス会のお誘いと書かれている。差出人は当時の委員長の名前だ。

「懐かしいなあ。五月三日午後六時か。今日は・・・!あと二週間じゃないか。てことは送付日が・・・四月一日って二週間も前に来てたのか・・・。全然気付かなかった・・・。返信期日は・・・今日。アッチャァ。ん、待てよ、携帯番号が書いてある」

 夏夫はその番号に電話した。返信の期日がその日では、今から出したって間に合わない。取り敢えず電話で話せばなんとかなるだろう。

《もしもし》

 電話の向こうから、落ち着き払った男の声が聞こえてきた。それもそうだ、高校を卒業してから、かれこれ八年の月日が流れているのだから。

「あ、波多野君ですか?俺、立石です。ご無沙汰してます」

《ああ、立石君ですね。こちらこそご無沙汰してます》

「実は、仕事が忙しくて、今さっきクラス会の葉書きに気付いたんです。それで、返信葉書きを出してたんじゃ間に合わないかと思って、急遽電話してしまったわけで」

《それで、出席してくださるんですか?》

「はい、是非出席させてください」

《わかりました。では出席者のリストに入れておきますね。でも慌てなくても葉書きで良かったんですよ。どのみち何通かは遅れてくるだろうと、二、三日余裕を持って締め切り日を設定してましたから》

 電話の向こうで波多野が微笑んでいるのが、夏夫にははっきりと感じ取れた。

「確かにそうかもしれませんが、逆に期日を過ぎてしまうと諦めが先に立ってしまいそうな気がしたので」

 そう言って笑うと、電話の向こうでも《そりゃそうだ》と言って笑ってる。その会話だけでも何となく懐かしさがこみ上げてくるような気がした。

 夏夫はクラス会までの二週間、これまでには無いくらいの集中力で仕事に精を出した。その姿は周囲の仲間たちも驚くほどだったが、クラス会に出席するために五月三日を完全なオフにできるよう、仕事を早めに終わらせておきたいというと、みんな納得したようだ。その頑張りをしっかり見ていたのだろう、社長から三、四、五と三日間のオフを貰えた。

 そして、クラス会当日。夏夫は会場に着くと迷いなく松平の隣に座った。そう、答えが欲しかったのだ。

「先生。高校の時によく言われていた言葉『Days Number』ですが、僕には社会生活のあらゆる場面で日数が区切られており、いつも『あと何日』という観念が付いて回ってるような気がします」

「ハハハ、君は時流に流されてるんだね」

「え、時流にですか」

「確かに、常に『あと何日』という締め切りに人は追われている。でもそれに流されてしまい、気が付いたら定年を迎え、果たして自分はいったい何をしてきたんだろうということになったんじゃ、人生になんの意味も持たなくなってしまう。『Days Number』と私が言ったのは、人生の終わりに自分がこれで良かったんだと思い返せるように、充実した生き方をしなさいという意味だったんだよ。だから時には立ち止まって自分を見つめなおすのも必要なんだ。これでいいのかってね。そこに費やす時間は無駄ではない。自分が時流に流されていないかを確認する作業は、今後の自分にとって必ず意義の有ることになる。ま、よく考えてごらん」

 夏夫は帰ってから、自分の人生とは一体何なのだろうと考えてみた。そして、一つの結論を導き出した。


 あれから十年経った夏の日。夏夫は故郷に戻り、実家の畑仕事を手伝っていた。そして、そこには妻と子供の姿も。そう、彼が導き出した結論。それは、大自然の時間を感じ乍ら生きていこうということだった。そして、子供たちに美味しい作物の採れる畑を残してあげたい。その為に自分の残りの時間を使おうと心に決めたのだった。

                               -完ー

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万里小路 掌編集 万里小路 頼光 @madenokouji

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