十年前



 鮮明に、十年前のことを思い出す。

 六歳だった僕は、その頃から猫と沢山の会話を交わしていた。その頻度はきっと人間と大差ないように思う。

 人目なんて気にしたことのない当時の僕は、両親の前でも路上の猫に喋りかけていた。僕が幼かったからこそ、それは微笑ましいものとして両親に眺められていたが、後々、これは大きな問題になる。

 僕は、物覚えがついた頃には猫と会話をしていた。

 子供の頃の価値観なんてものは人それぞれだが、高校生になった僕が十年前を振り返ると、六歳だった僕の価値観というものは多分、特殊だ。

 猫と人間の立場が平等だった。

 だから、幼い頃から理不尽というものを感じていたのだ。

 猫が短命である理由が、僕には分からなかった。

 だからこそ、猫の命が、僕の目には尊いものに映る。

 だから、六歳だった桐山 優斗が、車に轢かれそうになっていた仔猫を放っておくなんて真似は、できなかった。

 それは休日の出来事。

 生後、一週間か、二週間か。二車線の道路の真ん中を歩む小さな小さな黒猫は、車が通っても反応というものを見せない。寧ろ車が仔猫を避けている始末だ。車が危険だということを認知できていないのか、仔猫はその場から動かない。

 僕は車が通らないことを目で確認してから、仔猫のもとへと直ぐ様、駆け寄った。首輪がない仔猫は僕が近付いても逃げたりしない。無垢な丸い瞳がただ僕を見上げていた。

 危機感が、あまりにもない。

「こんなところにいると危ないよ」

『みゃあ』

 仔猫は僕の言葉に、鳴き声で返事をした。

 生後一週間か二週間の仔猫は、人間でいえばまだ一歳にも満たない赤児だ。猫と会話ができる力があったとしても、この仔猫と意志疎通をとることはできない。

 仔猫を抱きかかえて、歩道に向かう。白線の内側に踏み込み、取り敢えず車に轢かれないように仔猫と共に移動した。

 とても軽い。

 なんて小さな命だろう。お母さんも、お父さんも、僕が産まれた時にそんな感想を懐いたのだろうか。

 黒い仔猫は頻りに『みゃあ』と鳴いていた。嫌がっているようには見えないけれど、どうなんだろう。言葉が通じないから、分からない。

 ただ散歩をしていた僕に目的というものはなかった。そんな僕の腕に収まった黒猫を、どうすればいいのか。

 一先ず家に帰ろう。そう思った僕はその道を引き返すことにした。

 その日は休日。

 家に帰れば、父さんと母さんが待っていたから。



 仔猫を腕に抱えて帰ってきた僕に両親は驚いていた。幾ら僕が野良猫と戯れているからといって、まさか連れて帰ってくるとは思わなかったのだろう。

「子猫、車にひかれそうだったから、拾ってきた」

 拙い言葉で事情を説明する。その間も僕の腕の中にいた子猫はみゃあ、みゃあ、と鳴いていた。その子猫をどうするのか、という話になって僕は「飼いたい」と口にした。家族として迎えたい、と。

「駄目だ、優斗」

 お父さんは僕の前ではっきりとそう口にした。お父さんの判断を六歳の僕は不満に思ったけれども、いまにして思えば、猫を飼うのは駄目だというお父さんの考えはよく理解できる。

 猫一匹を育てるのにかかる費用というものは結構な額だ。ここで僕の腕に収まった子猫を飼うとしよう。幼い僕はこれを切っ掛けにまた野良猫を拾ってしまうのかもしれない。

 お父さんはそのことが分かっていたんだ。お父さんだって、こんなこと言いたくて言いたいわけじゃない。それでも、懇懇と説明するお父さんに、六歳の僕はただただ不満を感じていた。

 どうして見捨てるのだろう。

 どうして飼っては駄目なんだろう。

 お金だったら、大人になったら僕が責任をもって払う。面倒も僕が見る。それなのに、どうして家族としてこの子を迎えては駄目なんだろう。

 みゃあ、と、腕の中にいる仔猫が鳴いた。僕は「大丈夫だよ」と静かに声をかける。

 仔猫を飼うのは反対だというお父さんの声は覆らない。なら、仔猫はどうすればいいのだろう。

 お父さんは、警察に預けようと僕に提案をした。その仔猫はもしかしたら既に誰かが飼っているのかもしれない、と。飼い主は仔猫を捜している可能性があるとお父さんは言う。お母さんもその意見に賛成した。

 僕は渋々頷いては、お父さんに同意を示す。

 そこで仔猫が、みゃあと一鳴き。

 自分のことなのに、のんきだな、と僕は思った。



 交番まで早速、車で向かうことになった。お母さんが運転席で、僕は助手席に腰をかけている。僕の腕の中には勿論、みゃあと鳴き声をあげた仔猫が一匹。

 車が二台しか停まることのできないスペースの一つにパトカーが停まっていた。空いたもう一つのスペースにお母さんが駐車をする。

「優斗はここで待ってて。お母さん、見てくるから」

「うん」

『にゃあ』

 交番の中に入るお母さんの背中を僕と仔猫は見送る。

 腕の中にいる仔猫の頭を指先で撫でる。少しだけ、くすぐったそうにしていた。

「大丈夫。何とかなるよ」

『みゃあ』

「心配しなくていいよ」

『みゃあ』

「大丈夫」

『みゃあ』

 猫にかけている言葉は、まるで自分に言い聞かせているみたいだった。やがて、お母さんが交番から出てきた。若い警察官と共に。

 運転席の扉を開けたお母さんが「猫ちゃんと一緒に出てきて」と言う。促されるがままに、僕は仔猫を片腕で抱きながら車の外に出た。

「この仔猫ですね」

 警察官が仔猫を見てから、お母さんに確認をした。

「はい、そうです」

「分かりました。本日は預かってから、後日、保健所に送ります。飼い主、若しくは飼ってくれる方をこちらで探しますね。先程も話していた通り、一時預り書の記入をお願いします」

「はい、分かりました。ありがとうございます」

「いえ、こちらこそわざわざお越しいただきありがとうございます」

 警察官が僕に向かって両腕を差し出す。口元に微笑みを浮かべながら「猫はこちらで大切に扱うよ」と言う。

 みゃあ、と、僕の腕の中にいる仔猫は、これで何度目になるかも分からない鳴き声をまたあげた。僕は柔和な顔でいる、若い警察官にそっと仔猫を差し出す。暴れることはなく、けれども頻りに鳴き声をあげる仔猫はしっかりと警察官の腕の中に収まっていた。警察官に差し出したことに、少しだけ、罪悪感を覚える。

「保健所に送ると言ってましたよね」

 お母さんが仔猫を抱えた警察官に何かを訊いていた。

「……その、保健所って、あまり良いイメージがないんですけど。処分、とかって、保健所に送られたらすぐにやるものですか?」

 しょぶん。

 お母さんが言ったその言葉には、不穏なものが漂っていた。

 どういう意味だろう。

 保健所に送られたら、しょぶんする。

 意味は分からないけれど、何故だろう。

 嫌な予感しか、しないのは。

「最低一週間ですね。保健所に預けてすぐに殺処分を行うというのはないと思います」

「その、飼い主とかは、すぐに見つかるものでしょうか」

 お母さんが不安な面持ちで訊くものだから、途端、僕も不安になる。やめてよ、お母さん。そんな顔しないて。僕まで不安になるから。

 大丈夫。

 何とかなるよ。

 心配ない。

 心の中で、何度も言い聞かせる。

 不安を拭うために。

 何度も、何度も。

「……難しいでしょうね」

 なんで。

 なんで、そんな不安を煽るようなことを言うのだろう。安心したいのに、どうしてそんな残酷な言葉を口にするのか。

 離せよ。

 返せよ。

 その仔猫を。

 そう言葉にしたかったのに、六歳の僕にはできなかった。僕の家では引き取ることができないと分かっていたから。だから、僕には何もできなかった。

 ただ、自己嫌悪。

「生後まだ間もない仔猫を引き取るという方は、どうでしょう、あまりいないかと思います。何せ費用がかかりますから」

「……そうですか。あの、申し訳ないんですけど、飼い主が見付かったら私に連絡をくれませんか? それと、もし飼い主が見付からずにその子を処分するとしたら、処分を行う前に連絡を……」

「はい、分かりました。そちらに連絡しますね」

 そこから話は円滑に進む。

 まず交番の中に足を踏み込んだ僕とお母さん。

 警察官は、出入り口と対称になっている奥の廊下に足を運び、猫を部屋に置いてきたようだ。案内された交番の中は、正方形を象った室内だった。長方形のテーブルが室内の真ん中に一つ置かれ、そのテーブルを挟んでお母さんと警察官は話し合っていた。

 お母さんが紙に何かを書き込んでいる間、警察官の背にある薄暗い廊下を僕は見詰めていた。

 闇の奥から、みゃあ、という鳴き声が、僕には聞こえていた。



 警察官に猫を預けてから、僕の胸の内に蟠る不安は消えることがなかった。部屋の壁時計の針が進む度に、不安は増していく一方。

 僕は、しょぶん、という言葉を辞書で調べた。

 処分。

 いらないものを、始末すること。

 いらないもの。

 なに、それ。

 ──お母さんと警察官の話は、当時の僕には難しかったけれど、話の流れなら大抵は理解していたように思う。

 飼い主が見付からなかったら、しょぶんされる。

 いらないものとして。

 僕は部屋を飛び出して階段を降りる。

 何だよ。

 いらないもの、って。

 あの仔猫が何をしたというのだろう。何にもしてない。ただ、みゃあ、って、鳴いてただけじゃないか。

 僕はお母さんに詰め寄る。その場にいたお父さんにも言う。やっぱり、家で飼おう、と。僕はそうお願いをした。

 それは、わがままだ。でも、何とかしたかった。だって、胸の内に渦巻く不安が消えないんだ。

 なんでこんなに六歳の僕は焦っていたのか。

 怖かったんだ。

 僕の価値観は、幼い頃から特殊だった。人間と猫との会話の回数が等しかった上に、その存在の価値もまた等しいものだ。

 しょぶん。

 その言葉を前に、僕は恐怖したのだ。簡単な話、自分のせいで人が死んだら嫌な思いをするだろう。その心理と同じだ。

 僕は、僕のせいで猫が死ぬことを怖れた。

 なんて身勝手な考え。

 僕という人間は、とても、醜い。

 みゃあ、という鳴き声が耳の中で木霊する。まだ、猫は生まれて間もない仔猫だった。あの子を見殺すことは即ち、僕にとって人殺しと何ら変わりないんだ。その責任から、重圧から僕は逃れたくて仕方なかったんだ。

 お父さんは、駄目だと、僕の願いをやはり受け容れない。

 お母さんは僕と目線が合うように屈み、優しさを帯びた瞳で僕を見詰めながら、諭すように語る。

「大丈夫よ、優斗」

 僕のからだを、そっと抱き締めるお母さん。

「一週間も時間があるわ。大丈夫よ。お母さんの親戚や、お父さんの仕事場の人にも、あの猫ちゃんを飼ってくれるか話してみるわ。だから、そんなに心配しなくても大丈夫」

「……うん」

 お母さんの優しさに、いまは甘える。

 不安はまだ消えないけれど、お母さんの言葉には安心感があった。

 一週間。

 その間に、飼い主が見付かれば。

 大丈夫、大丈夫。

 自分に、何度も言い聞かせる。

 その日、眠りにつくのに少し時間がかかったことを、十年後の僕ははっきりと覚えていた。



 猫を交番に預けてから、翌日の日曜日。お父さんは仕事が休み、お母さんは家事、僕は遊びに出掛けていた。まだ飼い主は見付かっていない。

 当然だ。お父さんは仕事が休みで、仕事場の人に尋ねることができなかったのだから。

 お母さんに友達や親戚が多かったとしても、一日で色好い返事がくるとは思わなかった。

 でも、焦ることはない。

 まだ一日目だ。

 飼い主は見付かる。

 警察も協力している。

 お母さんも。

 お父さんも。

 力に、なってくれる。

 だがら大丈夫。

 何も心配なんて、いらないんだ。

 ──もはや自己暗示に近いそれは、僕にとっての現実逃避に違いなかった。そうでもしなければ、眠ることすら僕にはできなかったから。こうして遊びに出掛けているのも、延々と付き纏う不安から逃れるため。

 けれども、忘れることだけはできない。忘れるつもりなんて、僕にはなかった。

 いまごろあの仔猫は何をしているのだろうか。優しくされているのか、健やかに眠っているのか、それどもまだ、みゃあ、と頻りに鳴いているのか。

 結局、その日もなかなか眠りにつけなかった。



 翌日の朝、もしお母さんが僕を起こしに二階に来てなかったら、僕は確実に遅刻をしていた。そんな、月曜日。

 寝不足なためか、その日、どんな授業をして、クラスメイトとどのような会話をしたか僕には記憶がない。ただ、眠たかったことだけは覚えている。

 猫を預けてから二日目。学校の授業を終えて、寄り道をせずに真っ直ぐ帰宅した僕はお母さんに言う。

「どうだった?」と。

 お母さんは僕の問いにかぶりを振る。

 期待は容易に裏切られた。ごめんね、とお母さんは言ってから、微かに笑う。僕の不安を拭うための、優しい笑み。

「でも、お母さんの友達も他の人に掛け合ってみるって言ってたから。大丈夫よ優斗。だから、そんな顔しないで」

 お母さんが僕の頭を撫でる。

 まだ二日目だ。まだ大丈夫と自分に言い聞かせても、自分の言葉が信用できない。

 やがてお父さんが帰ってきて、僕はお母さんと同じ問いを投げた。お父さんも、お母さんと同じようにかぶりを振る。

 まだ、二日目。

 頭の中ではそう分かっている筈なのに、不安は募るばかり。

 怖い。

 何が。

 しょぶんされるのが、怖いんだ。

 みゃあ、と、鳴き声が聞こえた。

 幻聴だ。そう理解していても、後ろを振り向き、猫の姿を捜した。いるわけない。仔猫は、保健所という場所にいるのだから。

 あの仔猫があれだけ頻りに鳴き声をあげていたのは、僕に対する必死な呼び掛けだったのかもしれない。

 助けて、と。

 誰でもない僕に、救いを求めていたのかもしれない。

 ──六歳の僕は、六歳らしからぬ考えを持ち合わせていたように思う。しかし、当時の不安や恐怖を否定することはできない。定められた一週間という期間。警察からの連絡はなし。お父さんとお母さんの伝も色好い返事がない。

 この頃の僕は何をするでもなく、ただ傍観していた。ここにきて漸く事態を重いものとして受け止めた僕は、翌日の火曜日、行動を起こす。

 仔猫の飼い主を、見付けるために。



 三日目。

 学校では、茜やクラスメイト、担任の先生などに、これまた拙い説明で猫の飼い主を見付けてほしいとお願いをした。もしかしたら、家に帰る頃には忘れてしまう話題かもしれない。それでも僕は、行動を起こさずにはいられなかった。胸の内の不安を早々に消したいという、自分勝手な考えだったろう。

 安心したかった。

 恐怖から解放されたかったんだ、僕は。

 その日、学校の授業を終えてから僕は家に真っ直ぐ帰宅するのではなく、道行く人に猫の飼い主をさがしています、と声を掛けることにした。

 夕暮れ。沈み行く日を背に、僕に声をかけられた大抵の人が、困った反応を見せた。

 早く見つかるといいね、と見知らぬお婆さんは僕に告げ、

 きっと見つかるよ、と見知らぬおじさんが僕に言って、

 なかなか見付からないと思うよ、と高校生の男の子は言葉を残し、

 もう遅いから早く帰りなさい、と同級生のお母さんは口にした。

 僕が望んでいた返事はない。

 分かりきった結果、これは仕方のないことだ。自分が動き出してからまだ一日も経っていない。

 あと、四日。

 期間を意識すれば意識する程に、鼓動が早まる。心臓を誰かに握られているのではないかと疑う程に、胸が苦しい。

 呼吸さえ忘れてしまいそうな時に、僕は、あの体温を思い出す。この腕の中に収まった小さな命。頻りに鳴き声をあげるあの仔猫を、僕が助けなきゃ、駄目なんだ。

 僕は、僕の横を通り過ぎる人に再び声をかけ始めた。もしかしたら僕がやっていることは報われないかもしれない。けれど、立ち止まっても誰も助けてはくれないんだ。自分から動き出さなきゃ、きっと何も始まらない。

 いつの間にか日は沈んでいた。とうに門限の時間は過ぎている。帰ったら、お母さんやお父さんに怒られるだろう。

 でも、いまはそんなこと、どうでもよかった。無心に通り行く人びとに声をかけていたら、一人の女性が、真剣な表情で、僕の話に耳を傾けてくれた。

 六歳だった僕の説明不足な話を、その人が理解したのかどうかは分からない。

 こちらの情報は、何とか女性に伝わったようだ。

 仔猫。

 黒猫。

 生後一週間か、二週間か。

 みゃあ、みゃあ、といっぱい鳴き声をあげる。

 いまは保健所にいる。

 処分まで一週間。

 現在、保健所に預けてから三日目。

 その仔猫をどうしても助けたい、と、僕は必死に女性に訴えた。僕の話に耳を傾けてくれた女性は、僅かに考えてから笑顔で頷き、

「良かったら、私が引き取るわ。優斗君」

 胸にさげられた僕の名札を見ながら、そう、口にしたのだった。



 女性の名前は鈴木さん。

 後日、僕が保健所から受け取った仔猫を、そのまま鈴木さんに引き渡す約束をした。鈴木さんからは氏名、住所、電話番号が記された紙を貰っている。

 鈴木さんとの間に取り付けた約束をお父さんとお母さんに話そうとしたら、母さんが笑顔で、

「優斗、お父さんがあの仔猫を飼っていいって!」

 嬉しそうに、そう言ったのだ。

 なんて、今更。

 最初はそう思った。でも、徐徐に喜びは胸の奥から込み上げてきた。

 どうしてお父さんが許可を出したのか。十年後の僕には父の心情が分かる。幼い頃の僕の表情には、仔猫の飼い主が見付からない不安が、思い切り顔に出ていたのだろう。

 お父さんは優しい。お母さんも、僕の様子を心配して、猫を飼うことにしようとお父さんに提案したに違いなかった。

 本当に。迷惑な息子で、ごめんなさい。

 とても感謝してます。言葉では、言い表せない程に。

 ありがとう、お父さん、お母さん。

 家族として迎えていいという話を聞き終えてから、僕は鈴木さんの話を持ち出した。鈴木さんには申し訳ないけれど、こちらで飼うことにしたので大丈夫です、と断っておこう。いま思えば本当に失礼な話だ。鈴木さんには申し訳なかったが、僕の決意は堅い。

 やっと、安心できた。

 処分を行う前日に、警察官は、こちらに連絡を寄越すと約束したのだから、大丈夫。まだ期間はあるし、何の心配もいらない。

 良かった、本当に。家族としてあの仔猫を迎えたら、ぎゅっと、抱き締めてあげよう。この腕でしっかりと、仔猫に安心感を与えるんだ。もう大丈夫、怖がらなくていいよ、と。言葉にして、伝えてあげるんだ。

 その日は、しっかりと睡眠がとれた。不安から解放された体は、とても重かった。

 やっと、君に逢える。

 そうして僕は、翌日。

 涙を、流す。



 早朝。

 その日は曇り。学校に出掛ける前に、僕は浮き立つ気持ちを抑えきれずに母さんを急かして、交番に連絡をさせた。

 母の通話を、はっきりと、僕は覚えている。

「はい、そうですか。分かりました、はい。そちらに連絡をします。はい、番号は、」

 お母さんは片手に子機、片手にボールペンをとっては、すらすらとテーブルに置かれた紙片にどこかの番号を記す。幼い僕でも察しがついていた。きっとあの仔猫が預けられている保健所という場所の連絡先だろう、と。お母さんは通話を終えてから、保健所に連絡をした。

 なんてもどかしいんだろう。あと少ししたら学校に出掛けなければならない。そのことが余計、僕を焦らせていた。

「はい、警察の方からこちらに連絡をするようにと言われたので、はい、はい、……四日前に警察に預けたので、保健所に預けられたのは三日前ですね、はい。仔猫の特徴は、」

 通話が長い。

 それでも僕は、遅刻してもいいからここに留まっていようと思った。この通話が終わったら、次に連絡するのは、仔猫を飼ってくれると口にした鈴木さんだ。一言でもいいから、鈴木さんに謝りたかった。

「……すいません。おっしゃってることが、よく、……」

 僅かな、異変。

 お母さんの表情に、戸惑いの色。

 声色も、どこか、いつもと違う。

「あのですね、警察官は私に処分を行う前に一度、連絡をこちらに寄越すようにと、そう約束したんです。……ええ、そうです。そういった話は耳にしてないですか? ……はい、……はい。……分かりました、一度、警察の方に連絡をしてみます」

「お母さん……? どうしたの?」

 お母さんを呼んだら、どうしてだろう、泣きそうな顔をしていた。

 何故、そんな顔をするのか僕には分からない。お母さんは僕の頭を撫でてから、子機に番号を入力していた。

 不穏な、空気。

「……はい、この前はどうも。すいません、処分を行う前に必ず連絡をとると約束してましたよね? はい、そうです。先程、保健所に連絡をしました。貴方は、処分が行われるまでに最低一週間はあるって、……ごめんなさい? ……だから、保健所の方はそういった話は一切なかった、って言ってますけど。処分が行われる前に一度、連絡をとるようにって貴方は…………もう、いいです。ようは忘れてた、って話ですよね。ごめんなさい、って、ねぇ貴方──」

 お母さんが、机を思い切り叩いた。

 お母さんが、いつの間にか、涙をこぼしていた。

「謝ったら済む話ではないでしょう!」

 お母さんが、通話を切った。

 時計は、見るまでもない。

 学校は、遅刻だ。

「お母さん」

 駄目だ。

 悪い方に、考えては駄目だ。

 心が、折れてしまうから。

「お母さん、仔猫は──」

 言いかけた言葉は、お母さんの抱擁で途切れてしまった。悪い想像は膨らむどころか、もう、決定付けられたようなものだ。

 間に合わなかった。

 処分、されてしまったんだ。

 救えなかった。

 助けられなかった。

 二度と、逢えない。

 なんて酷い話。どうして、家族として迎えようとしていたのに、こんな悲報が僕とお母さんの耳に届いたのだろう。

 お母さんが泣きそうだったから、僕は、涙を我慢した。僕が泣いてしまったらきっと、お母さんが自分を責めてしまうと、六歳の僕はわかっていたから。

「鈴木さんに、でんわしなきゃ」

 自分の声は、震えていた。

 駄目だ、泣いてしまっては。

 泣いたら、自分が壊れてしまう気がした。心に罅が入っては亀裂が走って、ばらばらに割れてしまう。お母さんの抱擁から解放された僕は、テーブルに置かれた子機を手に取り、そしてポケットから一枚の紙片を取り出す。

 鈴木さんに貰った紙片。そこに記入された電話番号を入力して、耳に子機をあてた。

『もしもし』

 間もなくして、鈴木さんの声が聞こえた。

 こみあげる。

 でも、言葉にしなければいけない。

 せめて、お礼の一言を。

 鈴木さんに伝えなきゃ。

「……な、さい」

 声が、詰まる。

 視界が、滲む。

『え?』

「……ごめん、なさい……っ」

 ──お礼を言うつもりだった。

 でも、先に謝ってしまった。

 泣いてしまった。

 初めて、人間に殺意を懐いた。

 あの警察官が代わりに死ぬばいい。

 あの仔猫を捨てたかもしれない飼い主が死ねばよかったのに。

 そして何より、傍観していた自分が一番に憎かった。

 みゃあ、と、まだあの鳴き声を僕は覚えている。黒い仔猫、生後一週間か二週間か。人間の年でいえば、まだ一歳にも満たない赤児。危機感がなくて、とても軽くて、温かくて、みゃあ、みゃあ、と、頻りに鳴き声をあげていた。

 ──家族として迎えたら、ぎゅっと、抱き締めてあげようと思った。この腕でしっかりと、仔猫に安心感を与えて、もう大丈夫、怖がらなくていいよ、と。言葉にして、伝えて……

「ごめん、なさい……」

 ごめんなさい。

 謝っても、言葉はもう、仔猫には届かないんだ。

 だって、処分されてしまったから。いらないものとして、始末されたから。

 僕のせいで。

 僕のせいで、死んでしまった。なら、あの時、拾わなければ良かったんだ。仔猫の存在を無視していれば良かった。そうすれば猫は独りで生き抜いたかもしれない。誰か優しい人に拾われたかもしれない。僕の知らないところで、幸せに、暮らしていたかもしれない。

 もう、嫌だ。

 嫌だ、何もかも。

 嫌いだ。

 人間が嫌い。

 自分が嫌い。

 僕が、殺してしまった。

 僕が、あの仔猫を、──

『優斗君、だよね? よかった、連絡待ってたんだよ』

 場違いな程に明るい声を、鈴木さんは電話越しで発していた。

 この人の善意を、僕はいまから踏み躙る。しかし、鈴木さんは僕の反応に構わず話を続けてきた。

 耳を澄まさずとも、鈴木さんは息をきらしていることが、分かる。

『私の連絡先は渡してたけど、優斗君の連絡先はほら、私、貰ってなかったから。だから、待ってることしかできなかったの』

 通話を切ってしまいたかった僕に、それでね、と鈴木さんは言う。

『昨日ね、友達と話してたんだけど、保健所って決まった曜日に、一斉に処分を行うらしいの。優斗君は処分までに何日かあるって言ってたけど、もしかしたら勘違いしてるかも、って思ってね。おばさん、ダッシュで保健所に向かったわ。──本当に良かった、ぎりぎり間に合った。ほら、聞こえる?』

 雑音。

 電話の向こうから、慌ただしい音が聞こえて、沈黙。

 その静寂を切り裂くように、

『みゃあ』

 と、猫の、鳴き声。

 すぐにそれは、鈴木さんの声に切り替わった。

『ほら、優斗君が猫の特徴を細かく話してくれたから、すぐに分かったわ。もしかして、保健所からもうそっちに連絡いってたかな?』

「聞こえました」

『ん?』

「聞こえました、……みゃあ、って」

『そう。なら、良かった』

 みゃあ、と、また鳴き声が聞こえた。僕はいつの間にか膝から崩れて、通話中にも構わず、声をあげて泣いた。

 僕のせいで殺してしまったと思った仔猫。鈴木さんの機転で仔猫は処分から逃れた。それは仔猫を救っただけではない。僕の心を、鈴木さんは救ってくれたのだ。

 泣き終わったら、鈴木さんに言いたいことがあった。ごめんなさいではなく、ありがとう、って口にしたい。でも、声が詰まって言葉にできなかった。言いたいことは、まだあるのに。

『みゃあ』

 仔猫の鳴き声が聞こえる度に、こみあげるものがあった。

 僕の言いたいこと。それは、とても身勝手な理由だけど、きっと誰にも譲れない、強い想い。

 君を迎えたら、したいことがあるんだ。まずは、ぎゅっと、抱き締めてあげよう。この腕でしっかりと、君に安心感を与えるんだ。もう大丈夫、怖がらなくていいよ、と。言葉にして、伝えてあげるんだ。

 そして僕は、家族として、こう言うんだよ。

 おかえりなさい、って。



 警察官の不手際が目立ったこの一件をお母さんは仕方ないと言っていた。警察と保健所にそもそも、そういった関連性がないことを気付けなかった自分も悪かったとお母さんは言う。当然、警察側にも非はあったので、そこだけは注意をしたお母さん。警察側の弁解は、今後はそういった誤った情報を与えないよう、全体に伝えるとのこと。

 保健所に連絡をした時に、仔猫が処分扱いになっていたのは、鈴木さんの言っていた通り、その日の午前は一斉に処分している最中だったのかもしれない。母さんが電話した相手は、早朝に引き渡しが行われていたことを知らなかったようだ。なら、そう判断しても無理はない。

 入学してから学校を初めて休んだその日、わざわざ尋ねてきてくれた鈴木さんに僕はありがとうの言葉を伝えた。

 僕と仔猫の恩人だ。感謝してもしきれない。

 そして鈴木さんの腕の中に収まった仔猫が、僕の腕に収まる。仔猫はこちら側で飼うことを、鈴木さんは、快く了承してくれた。本当に、申し訳ない話だ。仔猫は相変わらずとても軽くて、みゃあ、と頻りに鳴いていた。僕は優しく、ぎゅっと、愛情が伝わるように、君を抱き締める。

 おかえりなさい。



 もう、十年前のことだ。とても懐かしい記憶。学校からの帰り道に鈴木さんと何回か擦れ違うことがあるから、こうして思い返してしまうのかもしれない。自室の扉の前に立ち、ノブに手を掛けた。

 扉を開けて、目に飛び込むは、ベッドの上に座る一匹の黒猫。

『おかえり、ユウ』

 黒い尻尾を揺らしながら、クロは言う。

 僕はそれに、いつも通りの笑顔で、応えた。

「うん。ただいま、クロ」



 



 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

猫と桐山くんと不機嫌な山本さん 麻倉 ミツル @asakura214

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ