第6話


 山本さんと僕は、五匹の猫に先導されながら、二人並んで歩き出す。事の経緯を猫達との会話で理解した僕は、山本さんに事情を話し、事実を確認するためにこうして五匹の猫に案内を受けていた。

 山本さんの言う通り、僕がキィだと思っていた三毛猫は、双子のミケだった。正確には、昨日からミケに入れ替わっていたのだ。それはキィの意志でもある。キィの想いを尊重しようと、スコちゃんは、メイちゃんは、グランは、レオは、キィがミケだということを僕に黙っていた。僕の隣りで歩く山本さんの瞳は不安の色に揺れている。覚悟していてほしい、と、僕は山本さんに言った。山本さんは頑なに僕が言った言葉を否定しようとしていたが、いまは何も言わない。

 それもそうだろう。視線を前に向ける。この、五匹の猫に導かれているという体験が、山本さんを沈黙させた。沈みつつある夕陽を背に、猫と僕と山本さんは歩む。

 やがて五匹の猫達が立ち止まる。僕達が辿り着いた場所は、正方形の、とても平らな土地。あの公園よりも寂れた場所だった。一本だけ植えられた樹が、塀を背に立っている。猫達と、僕と、山本さんの視線はその樹に集まった。

 夕暮れ。

 春の風で木の葉が揺れる中、樹の根元にキィは眠っていた。

 もう、キィが目を醒ますことはない。

「……ぁ」

 山本さんが小さな呻きを洩らしてから、ただ、その場に立ち尽くす。土地に踏み込んですらいない山本さん。やがて、目尻にたまった雫を手の甲で拭っては、俯いた山本さんはそれでも、静かに、キィのもとへと近寄る。

 キィは、

 僕と山本さんを、悲しませないために。

 わん、という語尾を多用していたのは、普段通りに喋ったら、キィではないことがバレてしまうから。キィは自身の想いを双子のミケに託したのだ。それは猫の声が聴こえる僕にしか通用しない、キィの優しい嘘だった。

 キィは、もう自分が長くはないことを悟っていたという。普段は遊びに出掛けているミケが家に居続けることで、山本さんを誤魔化そうとした。けれども、家族にそんな演技が通用する筈もない。きっとキィは、それがバレても良かったのだ。自分が死ぬ姿を見られたくなかったというだけで。

 山本さんに続き、ある程度の距離を保って見知らぬ土地に踏み込む。樹の根元に、山本さんは屈んだ。この場所は、僕の家からも、山本さんの家からも遠く離れていた。

「見付けたよ、キィ」

 掠れた、山本さんの声。

「いっぱい、いっぱい、捜したんだから。私ね、学校、ずる休みしちゃった」

 愛情が、籠められた言葉。

「キィ、からだ弱いのに、帰って……こないから、心配しちゃっ、たの。……でも、見付けたよ、キィ。ちゃんと、ちゃんと……」

 家族だから。

 そういって、山本さんは泣いた。

 僕と五匹の猫は黙ってその様子を眺めている。

 世界は猫に対してとても冷たい。神様は人間と猫の寿命を対等にする前に死んでしまったのだ。猫は、飼い主の前で死ぬようなことはあまりないと言う。もしかしたら猫自身、短命だということを理解しているから、家族を悲しませないために自身の死を隠すのかもしれない。つい最近、十年も経てば僕の周りにいる猫が寿命を迎えて死ぬことを想像した。けれども、死は、こんなにも身近だ。

 寝ていることが多かったキィ。僕がそう気付いた頃には、既にキィは自身の死を悟っていたのだろう。事前にミケや、仲間の猫達に相談をして、キィは自身の死を隠すように手配した。

 でもね、キィ。

 それは失敗に終わったんだ。

 失敗に終わって、良かったんだよ。

「…………桐山 優斗」

 涙声で、山本さんは僕の名前を呼んだ。僕は、冷静なふりを装って「どうしたの」と、山本さんに返事をした。

「あんた、猫と会話、できるんでしょ」

 あれだけ猫と会話ができる僕を否定していた山本さんが、まるでそうあってほしいと願っているかのような声色で僕に問い掛けた。「そうだね」と僕は、素直にそう返事をする。

「……キィ、私のこと、なんか言ってた?」

 山本さんは目元を手の甲で拭いながら、僕に背中を向けて、横たわったキィを見詰めて問う。

「私のこと、駄目な飼い主、とか、そんなこと、」

「キィは、」

 山本さんの弱々しい言葉を遮ってから、僕は思い返す。

「キィは、山本さんが学校でうまくやっているのか、僕に訊いたんだ」

「…………」

「山本さんは、嫌なことがあったらそれを上手に隠せないって、言ってたよ。感情のコントロールが上手にできてないから、周囲に勘違いされやすいって、そう口にしたんだ」

「……そう」

「だから、山本さんのことを嫌わないでほしい、ってキィは言ってた。キィは、最期の最期まで、山本さんのことを心配してた」

「…………うん」

「そんなキィのことを、メイちゃんは言ったんだ。キィは優しい、って。そうしたらキィは、誇らしげにこう言うんだ」




『ゆっきーは家族にゃ。家族を心配するのは、家族として当然にゃ』




「……ぅ、」

 嗚咽。

 泣き声をあげなから、涙を流しながら、山本さんがキィの小さなからだを抱き締めていた。僕と猫達は沈黙を尊ぶ。

 さよなら、キィ。

 僕は祈った。この愛情が、天国にいる優しい君に届けばいいと。君はこんなにも愛されてた。人にも、猫にも。愛されていたんだ。

 ありがとう、キィ。

「……なんで、あんたも泣いてるのよ」

 いつの間にか振り向いていた山本さんが、僕の顔を見てそんなことを言う。「多分、山本さんと同じ理由」と、そう口にしたら、山本さんは「馬鹿じゃないの」と呟き、微かに笑った。

 そんな山本さんのもとへと、僕の足元にいたミケが歩き出す。山本さんと悲しみを、分かち合うために。

 にゃあ、と。

 ミケは、ないた。



 樹の根元にまだ残ると口にした山本さんとミケとは別れ、僕と猫四匹は帰路を辿ることにした。夕日は沈み、辺りは暗い。街灯の光に照らされた道路を歩みながら、先頭を歩いていたスコちゃんが言う。

『ごめんなさいにゃ、優斗』

「謝る必要はないよ、スコちゃん」

『でも、メイたちはユウニャンを騙してたにゃ』

 メイちゃんが落ち込んだ声で言う。この猫達は本当に、どうしてこんなに優しいのだろうか。

「でも、それは僕のためでしょ。メイちゃん、ありがとう」

『優斗。俺たちのこと、怒ってないにゃ……?』

「怒るわけないよ、グラン」

『優斗』

 レオが僕の名前を呼ぶ。

 いつの間にか、僕と猫達は立ち止まっていた。スコちゃん、メイちゃん、グランの三匹を背に、レオは言う。

『猫は、人間よりも命が短いにゃ』

「……知ってるよ、レオ」

『もしかしたら、ここにいる仲間がまた一匹、明日には死ぬかもしれない。会話できる分、優斗は沢山の猫と仲が良いにゃ。だからその分、これから先、辛い思いも沢山する。それでも、優斗。優斗には、笑っていてほしいにゃ』

 それは、キィも望んだことだから、とレオは付け加えた。その優しさに、また僕は泣いてしまいそうだったけれど、そこは我慢して、レオに微笑みかける。

「うん、分かった。ありがとう、みんな。心配してくれて」

『礼なんていらないにゃ』

『ユウニャンだから当然にゃ』

『そうだぜ、優斗。さあ、みんなで走ろうぜ! あの夕陽に向かって、って、沈んでたにゃ。しょぼんにゃ』

『こいつ馬鹿にゃ』

 猫達の遣り取りを見て、僕は自然と笑う。

 猫の短命を理解しているが故に、猫と親しむことをやめる──仲が深い分だけ、訪れる悲しみもまた深いのだ。それでも僕は猫と仲良く日々を過ごそう。

 猫の死を、受け容れようと思う。

 それは真正面から受けきれるものではない。死を受けきれないから、行き場のない感情を誰かに押し付けてしまった結果、もしかしたらまだ世界の何処かで息をしている神様の存在を、心の中で何度も繰り返し否定してしまうかもしれない。でも、僕は決して目だけは逸らさないよう、現実を見詰めようと思うのだ。

 それは、とても単純な理由。

 僕は、猫が好きだから。

 だから、また明日、と。

 笑って、猫達に別れを告げよう。

 最期まで、笑顔を忘れないために。

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