第2話


 一人と、四匹。

 夕方。寂れた公園のベンチに、僕と四匹の猫が座っていた。

『本日も夕陽が綺麗だにゃ』

 そう言ったのは如月さん家の猫、スコティッシュフォールド。名前はスコちゃん。ちゃん付けだけど性別は雄。僕の膝に座るスコちゃんは、クリーム色の少し大柄な猫で、前方に折れ曲がった垂れ耳が特長。幼馴染みの茜が飼っている猫でもあった。

 僕の膝に座っているスコちゃんはまるで人間のように、お腹を見せてはお尻を膝につき、足を前に投げ出して座っている。

『こんな日はビールが欲しいにゃ』

 少年の声で、スコちゃんがそんなことを言う。

 声は少年。でも中身も外見もおっさんだった。

「猫はビールなんて飲みません」

 スコちゃんにそう言うと『もう大人にゃのに』と言われた。それは関係ない。

『見ろよ優斗』

 凄い渋い声で右横に座っていた猫から声を掛けられた。

『まるであの夕陽は俺の心を映しているかのようだ。そう、真っ赤に燃え上がる俺の心にゃ』

 そんな意味の分からないことを、とても渋い声で発したのは長谷部さん家の猫、キジトラ。名前はグラン。髭がだらりと垂れ下がっている茶縞の猫は、尻尾をゆっくりと左右に振っては遠い目をしていた。

『赤は情熱の色、この魂もまた赤色に染まっているにゃ。俺は、情熱に身を焦がした最期を遂げたい』

 相も変わらず渋い声で意味不明なことを言うグラン。長谷部さんが大事に飼っているキジトラは、理解し難い言葉を滔滔と僕に伝える。大抵が理解不能だ。いまもグランが何を言いたいのか正直分からない。

 昼食の時に、長谷部さんがにぼしの話をしていたことをここで思い出す。

「そういえばグラン。長谷部さんがおやつのにぼしを控えるって言ってたよ」

『にゃん……だと……?』

 グランの左右に振っていた尻尾がだらんと垂れ下がる。

『絶望したにゃ。太陽よ、俺を燃やすにゃ』

 ベンチにごろーん、と腹を向けて夕陽を浴びるグラン。そんなことをしても燃えません。

『ユウニャン、ユウニャン』

 甲高い女の子の声。

 僕を呼んだのは、グランとは反対の左側に座る鈴木さん家の猫、メインクーン。名前はメイちゃん。スコちゃんも大柄だけれども、メイちゃんの方が断然大きい。メインクーンは猫の中では大型だ。毛の色は黒と白。黒の毛色は目元から八割れしており、鼻や口元は白に覆われている。特徴的な大きい耳がピンと立っているメイちゃんが、楕円形の瞳で僕を見詰めていた。

「どうしたの?」

『学校はどうだったにゃ?』

「学校? うん、特に何もなかったよ」

『何だか最近のユウニャンは、楽しそうに見えるにゃ』

「そう?」

『そうにゃ。そうしてユウニャンも猫離れして、私を置いていくのね……』

 罪な男、と、メイちゃんが囁くように言った。

『所詮、私とはお遊び。それでも私はユウニャンのことが……! ああ、太陽よ、私を燃やして! 忘れたい人を忘れられない愚かな私を! ごろーん』

 そういって仰向けになったメイちゃんがお腹を晒す。何これ、流行ってるのだろうか。

「そんなことしても燃えないよ。ん?」

 足元にいた猫──本日、不機嫌だった山本さん家の三毛猫、双子のキィちゃんが前足で僕をつついていた。

「どうしたの、キィ」

『わん』

 キィの性別は雌。

 その声もまた、女の子の声だ。

「……わん?」

『いまの猫は語尾に、にゃん、が当たり前わん。だから、ここは時代を先取りして、語尾にわんを付けることにしたにゃ。あ、間違えた』

 山本さん家の三毛猫、双子の内、姉にあたるのがキィだ。小さな躯には黒、白、茶色の三色の毛色。他の三匹よりもあまり活発な方ではない。いつもはベンチの日陰で俯せに寝ていることが多いキィ。

 そういえば、と、山本さんの言葉をいまさら思い返す。うちの猫に近寄らないで、と彼女は言っていた。あの時、返事を忘れていた。それは無理なお願いだと。

 山本さんとは付き合いがないけれども、キィとの付き合いは結構なものだ。無論、他の猫たちともそれなりに付き合いがある。幼い頃から猫たちとはこうして会話を交わしていた。

 僕は猫と会話ができる。

 猫たちの声は他の人には聞こえない。他の人からしてみれば、猫が鳴き声をあげているようにしか聞こえないそれは、僕にははっきりと言葉で伝わる。幼少の頃から人目を憚らずに猫と会話していた僕は、同年代から気味悪がられていた。

 猫は喋らない。

 だから、会話ができるなんてのは真っ赤な嘘。

 幼い頃の僕は、周囲のその言葉に対し過敏に反応した。信じてほしかったのだ。自分は猫と喋ることができる、そのことを、みんなに自慢したかった。それでも猫の声が聞こえる、という僕の訴えを子どもは嘲笑い、先生や大人達は笑って流す。

 お母さんから幻聴の可能性を疑われたこともあった。それが原因で病院に足を運んだこともある。いまにして思えばそれは仕方のないことだ。いつまで経っても自分の息子が『猫と会話ができる』なんてことを訴えていたら、お母さんの行動は道理だ。

『ゆーと』

「ん?」

 足元にいるキィが、小さな声をあげた。

『ゆっきー、学校でうまくやってるかにゃ? ……わん』

 キィが言うゆっきーとは山本さんのことを指す。

 山本 雪。

 それが山本さんの本名だ。

「どうしてそんなことを訊くの?」

 山本さんが友達に八つ当たりして一人になっていることをキィは知っている。そんな気がした。

『ゆっきー、ああ見えて繊細だから、いろいろと心配だわん』

 敢えてその語尾には触れない。キィの言葉に、相槌の意を含んだ頷きを僕は返す。

『嫌なことがあったら、それを隠すことができない子にゃん、わん。感情のコントロールが上手にできないから、周囲に勘違いされやすいわん』

 不機嫌な山本さん。

 山本さんはここ最近、不機嫌だ。それは彼女の表情や態度から直ぐに察知できる。山本さんはその感情を胸の内に秘めようとしていても、キィの言う通り、それが上手にできないかもしれない。

『ゆーと。ゆっきーのこと、嫌いにならないでほしいわん』

 キィは言う。

『ここ最近、ちょっと家庭の事情で不機嫌にゃん。不機嫌わん。だから、ゆっきーを嫌わないでほしいわん。できるなら、このことを他のクラスメイトたちにも伝えてほしいわん』

「ん、分かった」

 この言葉は僕にしか伝わらない。キィの言葉は、飼い主の山本さんには届かないのだ。だからこそ、キィは僕に頼んだのだろう。

『キィニャン、優しいにゃ』

 仰向けになっていたメイちゃんはいつの間にか躯を起こし、僕の膝に躯を寄せていた。

 メイちゃんの言う通りだ。キィは優しい。キィが山本さんに優しいように、山本さんもキィに優しいのだろう。愛情は、きちんと猫に届くものだ。

『ゆっきーは家族にゃ。家族を心配するのは、家族として当然にゃ』

 誇らしげに、キィはそう言葉にした。キィの愛情もまた、山本さんに届けばいいと僕は願う。

『にぼし……』

 グランは仰向けのままだ。しばらく放置しよう。

『優斗、茜とはうまくやってるかにゃん?』

 スコちゃんが相変わらず人間らしい姿勢のまま、そんなことを訊いてきた。

「いつも通りだよ。今日も一緒にお昼ごはんを食べた」

『それはうまくやっていると言えないにゃ』

 スコちゃんが呆れたような声で言う。果たしてそうだろうか。小、中、高、幼馴染みの茜と僕は同じ学校を通っているが、茜との距離はいまと大して変わらない。

 幼い頃、茜は、僕から距離をとらなかった唯一の同級生だ。茜が猫と会話ができる、なんて僕の訴えを信じていたかどうかは未だ分からない。いまさら訊いてみようとも思わなかった。

 関係性の変化は、高校で同じクラスになってから、共に昼食を摂るようになったくらいだろう。

『優斗は、茜のことをどう思ってるにゃ』

「どうっていうと?」

『そのままの意味にゃ』

「茜は、優しいよ」

 スコちゃんが頭を僕のお腹に委ね、『もういいにゃん』とふてくされたように言った。一体どうしたのだろう。スコちゃんの様子を眺めていると、静かな足音がこちらに近付いていた。

 足音をたてた人物の、夕陽によって生じた影が僕の足元に及ぶ。顔をあげれば其処には悠然と佇む犬山いぬやまさんがいた。

「こんばんは、優斗」

「こんばんは、犬山さん」

 犬山さん。

 僕よりも年齢が二つ上で、いまは高校三年生。紺色のブレザーを着ている犬山さんは、僕とは違う学校を通っている。

 そして、きっと僕は、犬山さんのことが好きだ。

 異性として、犬山さんが好き。

「隣り、いいかい」

「どうぞ」

 犬山さんがメイちゃんを挟んで、僕の左隣りに腰をかけた。端正な顔立ち、背中まで届いている長い黒髪。夕陽に照らされた犬山さんは、思わず見惚れてしまう程に綺麗だ。

「相変わらずだね、優斗。猫との関係は」

 透き通った声。犬山さんは僕が猫と会話ができることを、この世で唯一信じてくれた人間だ。

 魔法使いが魔法で蝋燭に火を灯しても、それを魔法だと信じる人はいない。魔法を信じられるのは同じ魔法使いだけだ。

 犬山さんは、猫と会話ができない。

 犬山さんは、犬と会話ができる。

「学校からの帰り?」

「そうだよ。帰りに、優斗を見掛けたから此処に寄った」

 犬山さんの横にいたメイちゃんが、犬山さんの膝の上に移動した。犬山さんはそれを微笑ましそうに眺める。

「優斗も学校の帰りに、この公園に寄ったのかい」

「そうですよ」

「勉強の方は捗ってるのかな」

「それなりに」

「友達はできたかい」

「それは、まだ」

「素直だね、優斗は」

「僕はあまり人間が好きじゃないから」

「私も人間だよ」

「犬山さんは、特別です」

「私は君の特別か」

「はい」

 僕は犬山さんが好きだ。犬山さんと些細な話をしているだけでも心が妙に落ち着く。

『若いっていいにゃー』

『ユウニャンもこうして大人になっていく。メイは寂しいにゃん』

『にぼ……し』

『わん』

 鳴き声をあげるキャッツに、犬山さんが笑う。犬山さんには、犬の声しか聞こえない筈なのに、まるで猫の声も聞こえているみたいだった。

「特別か。君にそう思ってもらえるのは素直に嬉しいよ。ありがとう、優斗」

 その口元に浮かぶ、どこか儚げな笑みを僕に向けた犬山さん。それを直視したいま、僕の頬は赤みをさしていないだろうか。もし頬に赤みが差していたとしたら、それは夕陽で誤魔化せているだろうか。

 犬山さんは、僕にとっての魔法使いだ。

 世界にたった一人の、素敵な魔法使い。

「優斗」

「はい、犬山さん」

「特別は、沢山作った方がいい」

「それはどうして?」

「それは、どうしてだろうね。また答えが分かったら、私に教えてほしい」

「分かりました。でも、犬山さん」

「ん?」

「僕には既に、特別が沢山いますよ」

 スコちゃんの頭を撫でると『くすぐったいにゃー』と声をあげた。

 犬山さんは、僕の言葉に笑う。

「そうだった。確かに君には、特別が沢山いたな」

 犬山さんが「さて」と呟いてから、膝の上に座っていたメイちゃんをゆっくりと降ろす。

「私は帰るよ。またね、優斗」

「はい、犬山さん。また孰れ」

『じれったいにゃ』

 スコちゃんが言う。

『いい雰囲気だったんだからもっと攻めるにゃ。そうすればあの女も掌の上にゃ』

『ユウニャン意気地無しにゃ。だがそこがいい』

『わん』

「僕はいまのままでいいよ」

 犬山さんの背中を見送りながら僕は言う。下手に自分の気持ちを告げたら、あの心地よい空間に亀裂が走ってしまうかもしれない。それだけは避けたかった。

 突然、右隣で仰向けになっていた長谷部さん家の猫、キジトラのグランが躯を起こす。長谷部さんの『にぼしを控える』という旨を伝えてからというもの、グランはその身を焦がそうと夕陽にお腹を晒け出していたのだが、どうしたのだろう。

 僕に近寄るグラン。何故か尻尾は、垂直にぴんと立っていた。

『もっと熱くなれよ!』

 とても渋い声で叫ばれた。

 急にどうしたんだ。

『優斗! 貴様はあのお嬢ちゃんに嫌われたくないから、いつまでもうじうじしている臆病者だ! 貴様は男だろう! もっと魂を燃やせよ! あの夕陽のように!』

 とても渋い声で猫に説教を受けている男子高校生は、多分、この世に僕一人しかいないだろう。

「そうはいってもね。やっぱり言えないものは言えないよ」

『にゃさけにゃい! にゃさけにゃいぞ、優斗! 男はいつ如何にゃる時にでも、毅然たる態度を保ち、常に魂を燃やす生き物だ!』

 なら、にぼしを控えることにショックを受けていたグランは、一体なんだったんだろう。魂を燃やすどころか、この子は自分を燃やしてほしいと言っていた気がするけれども、そこには触れない方がいいのかな。とりあえずこれ以上、グランがヒートアップしないように脇に置いていた学生鞄から猫専用のグッズをこっそりと取り出す。

『この俺を見よ、優斗! この真っ赤に燃える魂がお前にも見える筈だ! 優斗よ。貴様の曇りなき両の瞳をしっかりと見開き、しかと、俺の姿を目に焼き付けろぉぉおお!』

「はい、ねこじゃらし」

『わーい、ねこじゃらしにゃー!』

 仰向けになって、前足でおもちゃのねこじゃらしを掴もうとするグラン。

 それはとてもにゃさけにゃい姿だった。

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