猫と桐山くんと不機嫌な山本さん
麻倉 ミツル
第1話
田舎として有名なこの町。黛のように連なった幾つもの山は、其処が音木町であれば何処からでも見える。
学校に向かうために歩む道の両脇には広大な田畑。春の風に揺れる穂は、夕方になれば一面金色に輝いて時折、目を奪われては立ち尽くしてしまうほどに綺麗だ。
そんな道を通った先に見えるのが、僕が通う
校舎全体を見渡せる中庭だ。当然ながら、教室の窓からでもその様相は窺える。窓際にある幼馴染みの
「
不意に茜が僕の名前を呼んだ。
「たまごやき、食べる?」
「いらないの?」
茜が頷く。
少しだけ茶色に染まった茜の髪が、開け放たれた窓から流れ込む風に揺れる。
「少しお腹いっぱいかも」
「じゃあ、うん。ありがとう。いただきます」
茜の弁当箱からたまごやきを箸で摘まみ、そのまま口に運ぶ。
そのたまごやきは少しだけ甘い。
「おいしい」
「ほんと?」
「うん。本当に」
「よかった」
そう言って茜は笑う。
茜の弁当はお母さんに作ってもらっている筈だけど、もしかしたらいまのたまごやきは茜が作ったのかもしれない。この前、料理の練習をやっと始めたと、茜が言っていたことを僕は思い出していた。
意味もなく辺りを見渡す。一年A組のクラスにおける男女の比率は圧倒的に女子の方が多い。そのためか、1─Aの男子は他のクラス、若しくは食堂に足を運んで男友達と一緒に食事を摂っている。
生憎、僕にそのような友達はいない。そんな僕を見兼ねてか、偶然にも同じクラスになった幼馴染みの茜が僕を昼食に誘ってきた。それは、同情かもしれない。それでも、茜の優しさには違いなかった。
「桐山君」
箸を止めた長谷部さんが僕を呼ぶ。茜を通じて知り合った長谷部さんはこのクラス、1─A前期の委員長だ。茜の友人である長谷部さんは、同じ中学校ではあったが同じクラスになったことない。こうして顔を合わせて話すようになったのは高校生になってからだ。それまで彼女と言葉を交わしたことはなかった。
赤い縁の眼鏡をかけた長谷部さんと目が合う。「訊きたいことがあるんだけど」と、前置きした長谷部さん。
「どうしたの?」
「うん。グラン──私の家で飼ってる猫の、おやつのことなんだけど」
「おやつ?」
「そう、おやつ。ついこの間まで、猫用の煮干しを毎日のように与えてたんだけど。あまり与え過ぎるのはよくないってお爺さんに言われたの」
「一概に悪いとは言えないけれど。青魚は健康にも良いし。でも、過剰な摂取は確かに良くないかも」
「どうして良くないの? にぼしって、猫の大好物っていうイメージがあるけど」
茜の言葉に僕は頷く。
「にぼしは塩分、マグネシウムを多く含むからね。にぼしを食べ続けると、病気にかかる猫もいる。お爺さんはそのことを心配して言ったんじゃないのかな」
なるほど、と、茜が僕の言葉に呟いた。
勿論、にぼしだけではない。鰹節や海苔もまた同じだ。猫用と記載されていても、その食品の過度な摂取で病気になってしまった猫はいる。
猫は繊細な生き物だ。猫に与えてはいけない食べ物は結構な数になる。だから注意しなければならない。生き物を飼う以上、飼い主には責任というものがあるのだから。飼い主の愛情一つで、きっと猫は幸せになれる。
それでも、そんな愛情を踏み躙るかのように、神様は猫に残酷だ。年に十万以上の猫が寿命を迎えることなくこの世から去るという事実。それは殺処分、或いは事故、若しくは虐待、殺害。幾らなんでも、こんなのってない。
あまりにも、救いがないのではないか。
だからきっと、神様は寿命で死んでしまったんだ。
神様がいないから、世界は猫に残酷なんだ。
一体いつになったら、神様の後釜は現れるのだろう。
「これからはにぼしを控えようと思ってるんだけど、おやつをねだる時の猫って、何て言うんだろう、卑怯よね」
長谷部さんが真顔でそんなことを云う。その言葉につい笑ってしまった。
三人で食事を摂る時に、飼っている猫の話を長谷部さんが持ち出すようになったのはつい最近のことだ。
いつだったか、『優斗は人間に興味がない』と、犬山さんに言われたことを思い出す。僕としてはそんなつもりがないけれども、傍目からすればそう見えたのかもしれない。
勘繰ってしまう。
長谷部さんがこうして頻繁に猫の話題を持ち出すようになったのは、僕に気を遣っている証拠なのではないかと。そうだとしたら、長谷部さんには申し訳なかった。
別に僕は人間が嫌いではない。
ただ、あまり好きでもなかった。
「桐山 優斗」
不意に、頭上から声が降りかかってきた。見上げれば、席を座る僕を見下すかのような、鋭い目で睨んでくる女子が其処にはいた。
僕の名前を呼んだのは、山本さんだ。
声と表情から察するに、どうやら彼女は今日も不機嫌らしい。
「また猫の話をしてるの? 好きだもんね、猫。人間よりも」
山本さんが僕を嘲笑する。茜がそんな山本さんを睨みつけ、長谷部さんが無表情になった。僕は反論しない。しない、というよりも、返事が思い付かなかっただけ。
山本さんも僕と同じ中学校を卒業して、この高校に入学していた。山本さんは過去の僕を知っている。桐山 優斗に纏わる噂を、山本さんは知っていた。
「それよりも、うちの猫に近寄るの、やめてくれないかしら。まさか、私の猫ともお喋りしているつもり? これだから構ってちゃんは」
「山本さん、言い過ぎだよ」
茜の言葉に対し、鼻で笑う山本さん。
「如月さんも、こんな奴に構うと省かれるよ。──猫と会話ができるなんて馬鹿みたい。そんなのは妄想よ。あんたはみんなに構ってもらいたくて、そんなことを口にしてただけだわ」
「山本さん」
窘めるように長谷部さんが山本さんに呼びかける。
「貴女もどうして毎日のように桐山君にそうつっかかるのかしら。それこそ、貴女が構ってもらいたいように見えるけど」
「やめてよ長谷部さん。私はこいつが気に入らないだけ。猫と会話ができるなんて法螺を吹いているやつが、私の猫に近付いているのが嫌なだけなの」
忌ま忌ましそうに僕を睨み続ける山本さん。その態度は昨日と変わりない。似たような遣り取りを山本さんとは何回交わしただろうか。
「ごめん、山本さん」
山本さんに、頭をさげてみた。
それも昨日、口にしたことだ。
「白白しい」
山本さんは言う。
不機嫌を顕に、僕を睨む。
「とにかく、私の猫に近寄らないで」
そんな言葉を言い残して、山本さんは自分の机に戻っては、一人、時間を過ごしていた。
山本さんと僕達は同じクラスだ。「なんなのもう」と山本さんには聞こえないくらいの小さな声で茜が不満を口にした。
「なんで最近あんなに不機嫌なの? どう考えても八つ当たりじゃない」
その言葉に同意するかのように、長谷部さんが頷きを返す。
「そうね。でも、どうやらその八つ当たりは桐山君にだけじゃないみたい」
山本さんを横目で観察する長谷部さん。山本さんが不機嫌な態度を露骨に出さかった頃は、山本さんを中心に女の子の友達が数人囲んでいた筈だ。
そんな山本さんは、いま、一人だった。
「優斗も黙ってないで何か言い返しなよ」
茜の言葉に僕は微笑む。
「口喧嘩には自信がないから」
何を言っても言い返されるだけ。だったら、最初から何も言わなければいい。
──猫と会話ができるなんて馬鹿みたい。
そう山本さんは言っていた。妄想、だとも。同じような言葉を幼い頃から何度も聞いた。小さい頃の僕は認めてもらおうと行動に移したが、それも失敗した。
魔法使いが魔法で蝋燭に火を灯しても、それを魔法だと信じる人はいない。だから、諦めた。他人に信じてもらう必要はない。自分と猫が、魔法だということを知っていればそれで良かった。
僕は、独りではないのだから。
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