マイウェイ

 登下校には電車が欠かせない。今日も、私は電車に乗る。電車の乗降は一日のサイクルに組み込まれてしまっていた。起床、朝食、電車。授業を受け、放課後、電車。

 行きだけでなく、帰りに乗る時刻も大体決まっている。今日乗った電車は十八時三十六分発の電車。私が降りる駅は、普通電車に乗らなければ通過されてしまうような小さな駅だ。座るのは、空いていれば乗った車両の一番端の席と決めている。端っこは体重を乗せることができるからだろうか、ガラス越しに隣の車両が見えるからだろうか。まあ、なんとなくだ。

 ある駅に着くと、電車は後から来る急行だか特急だかに追い越しされるので、しばらく停車する。

 開きっぱなしの扉から、生温い外気がぶわっと吹き込んでくる。空気と共に人が出入りし、車体が浮き沈みする。私には、それが船を連想させて嫌だった。酔いやすいたちなので、ちょっとの揺れでも気分が悪くなってしまうのだ。


 どこか遠くで、救急車のサイレンが聞こえる。それなのにどこか近くで、楽しそうに話す人々の声が聞こえる。なんだか不思議だなあと、私はぼんやり考えていた。

 正面には誰もいないので、向かいの線路を勢いよく電車が駆け抜けていくのが窓越しに見えた。


 ブウウウ――ゥゥンン……。


 私は目を閉じた。激しい揺れに、めまいがした。

 その音が耳を突き抜けた後、ふと向かいの席に誰かが座っているのに気づいた。

 一人の少女が、お行儀よく座っている――いや、ここは少女が一人で、と言うべきだ。時刻はもう午後七時……そんな時刻に一人で電車というのは珍しいと思った。年齢は小学生、低学年かそれ以下だ。黒髪は二つにふり分けられ、短い前髪は少女のどことなく嬉しそうな表情だけでなく、爛々と輝く瞳までよく見せてくれた。彼女は私をじっと見つめていた。じっと。


「――まもなく発車いたします」

 車内アナウンスがそう告げている。私は相手に気づかれないようにゆっくり目を逸らし、今更ながらこの車両に自分と少女しかいないことを知った。だったらわざわざ正面に座らなくてもいいのに、と思う。目のやり場に困る。今も、目線を感じる。私の顔に何かついているのだろうか。顔に手を伸ばしかけて、やめた。何だか落ち着かない。

 扉が閉まると同時、幼い声が言った。


「どうしてそんな顔をしているの」

 私は仕方なく正面を向いた。小首を傾げた少女が視界に入る。いきなりそのような質問をされてもどう答えればよいのやら分からない。そんな顔とはどんな顔だろう。相手はそれから何も言わない。しばらく、聞こえるのは規則正しい電車の独特な音だけになった。

 私は首を捻って窓の方を見る。ガラスに映る自分の顔は、いつもと何ら変わりない、別に普通だと思う。どうして、と言われても困る。これが私なのだから。この小さな乗客には、私は一体どんな風に見えたのだろう。……かと言って何も答えないのも無愛想すぎる。たとえ相手が見知らぬ他人でも、そんな印象を持たれるのは嫌だった。だから私はまた正面を向く。が、そこに彼女はいなかった。向かいの窓越しに夜景が、町並みが通り過ぎていくのが見えるだけだった。

 ぐらり、と車体が揺れた気がした。電車の音色が途絶える。アナウンスが聞こえるが、場違いなその平坦な声は、何と言っているか分からなかった。

 また、ぐらり。そこで私は街の灯りが揺らめいていることに気がついた。どうやら車体が浮き沈みしているようだ。さながら船のように。そうして外の灯りは見えたり見えなくなったりを繰り返し始めた――なんと、電車は底なし沼にでもはまったかのようにずぶずぶと沈んでいるではないか。沈みながらも、前進している。既に、窓の半分は暗闇になっていた。黒は、波のようにたぷたぷと揺れながら、電車を包み込む。


「うん、その顔の方がいいよ」

 隣で声がしたので、私は跳び上がってしまった。先程の少女が、隣に腰掛け私を見上げていた。にっ、と笑う彼女の目は、夜に光る猫の目を思い起こさせた。


「生きているんだから」

 そう不思議な言葉を呟いた。この猫のような少女は、一体何者なんだろう。


「私がだれか知りたいの?」

 口に出していないのに、相手はそう聞いてきた。私は返事をすることも、頷くこともできなかった。


「私も、知らないよ」

 これから、知るんだ――と、その時が待ち遠しいというように彼女は目を細める。


「一緒の電車なのも、なにかの縁だね」

 そうして急に大きな目を私に向けて、問うてくる。


「あなたはだれなの?」

「……私は、」

 名前を言おうとしたが、その言葉を紡ぐ前に何かが私を止めた。妙な引っかかりを感じた。もやもやとして苛立ちすら覚える、霧のようなそれは私が何者であるかを覆い隠してしまっていた。

 口をつぐんでしまった私を見て相手はおかしそうに笑った。


「はじめからそれを知ってる人はめったにいないよ」

 私は納得がいかなかったが、うなだれるように頷いた。自分が何者なのか分からない今、隣の少女の正体はどうでもよくなってしまった。そうして顔を上げて正面を向くと、避けていた怪奇が私を迎えた。

 窓の外は既に、真っ暗闇になってしまっていた。地下鉄と違って灯りは一つもない。揺れはもう収まり、あの規則正しい音も戻ってきていたが、電車は線路の上ではなく深海を泳いでいるようだった。闇は、深く、暗い。一切の光を通さない、その余りの濃さと重さに私は寒気がした。気分が悪い。それは酔いのせいではないだろう。


「これ、どうぞ」

 少女がにこにこしながら何か手渡してきた。何かと思う間もなく受け取って見ると、それは飴玉だった。私は落ち着こうと口に入れて転がした。酸っぱかった。


「レモンだからね」

 相手は前代未聞の珍事に全く動揺していないようで、むしろ楽しんでいるようだった。地面に届かない足をぶらぶらさせながら私に笑いかける。それに相反して、私は焦り始めていた。何か手掛かりが欲しくて外を見たが、その景色のように絶望的な気持ちになっただけだった。


「どうしよう」

 思わず呟くと、少女はまた首を傾げた。「なにが、」と聞く。私は説明も億劫になって、彼女を無視して立ち上がってしまった。とりあえず運転席へ――


「ちょっと、どこ行くの」

 少女は目を瞬かせて呼び止めた。私はぶっきらぼうに答える。


「一番前の車両」

 すると彼女は驚いたように言った。


「なに言ってるの、そんなとこに着くまえに終点まで行っちゃうよ」

 何言ってるのはこっちの台詞だった。どうなってるんだ。苛立つ私の耳に、アナウンスの声が届いた。


「なお、終点までこの列車は停車いたしません……が、ご自由に下車されて結構です」

「え……? 終点って……?」

 意味の分からない言葉に私が突っ立ったままでいると、少女が口を開いた。


「終点は終点。みんな知ってて、知らないところ」

「どこ――」

 そう言いかけ、相手を見た私は絶句した。少女の姿はどこにもなく、代わりに見た目中学生位の女子がいた。否、成長した少女がいた。


「知らないの?」

 彼女は笑う。にっと笑う。その悪戯っぽい笑顔は、前にも増して猫――まるでおとぎ話に登場するチェシャ猫――に似ていた。


「知らない……私は、ただ、家に帰る電車に乗っただけなのに」

 随分と子供っぽい物言いになってしまった。混乱して頭が痛い。口の中の飴が唯一の精神安定剤だった。


「ふうん。途中下車はできるけど、おすすめしないな」

「どうして?」

「降りたら最後、次の電車には乗れなくなるし、どこにも行けなくなるよ。一方通行だからね。たまに、病気の人とか自暴自棄な人とかが降りたりするけど」

 ふいに私の頭の中で、救急車のサイレン音が響く。

 ぐらりと電車が揺れ、私はそのまま倒れるように腰を落とした。その時、車内の灯りが消えた。何も見えない私の隣で、少女は愉快そうに笑う。猫目が光っているような気がした。


「旅に障害は付き物だよねー」

 がたがたと小刻みに車体は揺れる。怖い。私はぐっと唾を飲み込んだ。レモンの味にむせそうになる。

 また突然、何事もなかったかのように灯りは戻り、電車は走行を続けた。冷や汗を拭う。隣を見ると、今度はそこに成人した女性がいた。


「はあ、面白かった」

 玉が転がるような声で彼女は言う。思い切り満喫しているようで、羨ましい。


「こんな電車の切符、買った憶えないけどなー」

 少し力を抜いて、私は戯れで言ってみた。これはきっと夢だ。何も驚くことはないし、怖がることもない。端麗な女性は口元を緩ませた。


「何言ってるの、そんなものいらないでしょ。強いて言うなら、自分自身、自分がいることが切符よ。終点に着くまでに、なくさないようにしなきゃね」

 しかし、まだ私という名の切符は行方知れずで、霧がかったままだった。ただ、もう焦れったさは消えている。もう少しで晴れそうだ……そんな気がした。

 私は先程から引っかかっていたことを尋ねた。


「終点って、いったいどこ」

「終点は終点。みんな知ってて、知らないところ」

 同じことを言う。だが彼女は今度は続けて言った。


「あっという間に着くよ」

 そう言う彼女の顔はだんだん老けていく。私は思わずこう訊いていた。


「終点が怖くない?」

「どうして」

 中年の女性は幾分か穏やかさをまとった、それでも変わらない笑みをたたえて言う。


「何人もの数えきれない人が乗るこの列車。終点が怖いならみんな乗るはずはないし、そもそも列車だって存在してないでしょ」

 私は還暦を迎えたであろう女性の銀白色の髪を見て、はっとした。

 また首を捻って、ガラスに映る自分を見る。

 どこか見憶えのある、白髪の老人の驚いた顔。

 私は自分の顔に触れる。指を離して目に近づけてみると、やはり老人のものだった。

 しかし私はそれほど驚きはしなかった。なぜかすんなり受け入れられた。実際、私は笑っていた。自分の中の霧が消えてゆき、すっきりとした晴れ間が見えてくる。これが、私だ。


「そうか」

 正面に向き直り、闇に映る二人の老人を見つめた。私たちは、同じ車両に居合わせた。ただそれだけの偶然が、私にはとても素晴らしいものに思えた。私は思わず呟いていた。


「みんな、この電車に乗るんだ」

 自然と、口がきゅっと引き締まる。隣の老婆が大きく頷いた。そして、言う。


「もうすぐ終点よ」

 だんだんと、車内は暗くなってゆく。外と同じ色なのに、もう私は怖くなかった。私は小さく唾を飲み込んだ。もう飴は溶けていたが、酸っぱいレモンの味が広がる。


「楽しかったね」

 相手の声だったか、自分の声だったか。憶えていないが、確かに聞いた。


 ブウウウ――ゥゥンン……。


 私は目を開けた。向かいの線路を電車が走り抜けたせいで、ふわりと髪が持ち上がっていた。

 間もなく、満員電車は発車しようとしていた。私は背筋を伸ばす。

 口の中の酸っぱい味は、まだ残っていた。

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