ラボ・ラブ
―First phase―
名も知らぬ人に命を救われた。多分、だけれど。
曖昧なのは、記憶がないからだ。思い出そうとしても頭痛が酷くて、無理だった。クルマに撥ねられて頭を強く打ったからと彼は言っていた。脳震盪とかいう奴だな、これが。そんな怪我をした私は、彼に助けられた。
通りがかり、命の恩人、学者、医者免許取得者。こんな偶然があるのだろうか。ただでさえベタドラマっぽいのに、それだけじゃなくて。
私は今、小さな白い部屋の、白いベッドの上に寝ている。頭に巻かれている包帯も白いに違いないから、ここは白だらけだ。上半身をゆっくり起こして、鈍い頭に活を入れながら周囲を観察する。
部屋、ベッド、丸テーブル、その上に乗った花の花瓶。何もかも白。清潔な病室か、保健室のようだ。
軽いノック音がして、正面の壁のドアが開いた。現れた人物に、思わず溜め息を漏らしてしまう。
背の高い若い男性。白衣に身を包み――やはり白だ――柔らかい笑みを浮かべたその顔は、一瞬遠目に見るだけでも私の体温を上げるのに充分だった。とても直視できない。眼鏡越しに輝いている、唯一黒い、相手の瞳には何らかの魔力があった。
「大丈夫なようだね」
彼は何事も自分で分析して、発言する。そして自分の言うことは絶対で、他は受け付けないというのが特徴的。
「私……えっと、ありがとうございます」
もごもごと言う。相手は笑い声を上げる――心底面白そうに。それを見て私の心臓が跳ね上がる。
「本当によかった。じゃあ、家まで送ってあげようか」
「え……? もう大丈夫なんですか。病院とか、行かなくても――?」
彼はあんなものどうでもいいよ、という風に手を振った。悪戯っぽい笑顔も素敵だった。って何を思ってるんだ私。
「御両親が心配するだろう。見ず知らずの男の所に置いておきたくないはずだ」
「あ……私一人暮らしですから、それは大丈夫……」
だと思います、は口の中で呟いた。そうか、と彼は言って歩を進め、私の腰に手をまわして、立てるか、と言ってきた。もちろん立てるけれど、これでは私の心臓が目覚まし時計のベルのように鳴っていること、猛スピードで血液を送っていること諸々がバレてしまう! 恥ずかしくなって、益々鼓動は速くなる。こんな速度で打ち続けたら、そのうち貧血になるんじゃないか。
裸足の足が、ひんやりとした床に触れる。ちょっと落ち着いた。私は病院で着るような、清潔な服を着ていた。彼と同じ、白。私が事故に遭ってから、この男性が色々としてくれたらしい――って、え?
頭や体の手当てはもちろんだけど、着替えも? 全部?
私はバランスを崩して倒れそうになってしまった。慌てて彼に支えられる。近い。
「あ、危ないな……まだ当分無理だな」
その通りだ。この人の傍にいたら、心臓がいくつあっても足りない。血圧も上がりっぱなしだ。結局私を座らせて、すぐに水を持ってきてくれた。飲みなさい、ということらしい。体温温暖化現象に悩まされている私には、冷たい水はとても美味しかった。
「まったく、きみは変わった人だな。見ず知らずの男から、見ず知らずのものを警戒もしないで飲んだら駄目だろう」
自分で渡してきたくせに。でも、これは彼なりの注意なのだろう。急に抑揚のない口調になったから、これが彼が人に指摘する時の特徴なのかも。叱っている、とも言える。
でも、私はこの男性のほうが断然変わった人だと思う。見ず知らずの女に、こんなに優しくしてくれて……勘違いしますよ?
―Second phase―
目が覚めた。ということは、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。はあ……と溜め息をつく。恥ずかしい。白いシーツを頭まで引き上げて、顔を覆う。馬鹿だな、私は。何を一人で興奮して。彼は善意で助けてくれただけだ。長居はするべきじゃない。早く良くならなくては。素敵な紳士のことを、さっさと忘れられるように。
「寒いのか?」
声がして、心臓が気持ち悪いくらいねじれた。いたの? まさかずっと? 声はすぐ上からした。近くにいる気配もある。どうしよう……。顔を出すのも恥ずかしいし、かと言ってこのままなのもどうかと思うし。
「さっき溜め息をついていたな。何か不満があるか? 欲しいものがあったら遠慮なく言うんだ」
遠慮なく言えたらどんなにいいことか。再び溜め息をつきそうになって、こらえた。一目惚れなんて絶対にしないと思っていたのに、齢二十一にしてこんな経験をするとは。吊り橋効果か何かかな、とも考えたけど、毎回彼の顔を見るたびに心臓がおかしくなるものではないと思う。本当、どうかしてる。
「な、なんでもないです、大丈夫です」
嘘つけ。自分で突っ込んだ。相手もそう思ってるかもしれない。私は熱気でむんむんするシーツから顔を出して、横を向いた。声の主の逆方向を向くつもりだったのに、見事に顔が合ってしまった。彼は白い椅子に座って私を見ている。
「熱があるんじゃないのか」
あります。あなたのせいで。
彼はまた水を持ってきてくれた。飲み干して、ほっと息をついた。落ち着いた。
「やはり病院で看てもらった方がよかったか。そうだよな、こんな所にいるより――」
「いえ、そんなんじゃありません!」
びっくりするくらい大声が出た。相手も目を丸くしている。
「その、私。迷惑をお掛けしているんじゃないかと思って、ここに、ずっといるのが、あなたにとって……その」
最後は尻切れとんぼになった。ああ、この赤面地獄からは抜け出せないのだろうか。
「……そうか」
相手も動揺しているようだった。心配そうな目で、私を見ている。精神不安定だと思われたかも。
「それは私が思っていたことだった。きみは、私がその、助けた、ことに対して迷惑ではないんだな」
「あ、貴方も、私がここにいることに、迷惑してないんですね」
私の言葉に、彼の瞳がきらりと、一段と輝いたように見えたが、次の瞬間には元に戻っていた。光の反射だろう。
「きみが望むなら、一週間でも、一ヶ月でも、居てくれて構わない」
あれ? 今、何て言った?
一ヶ月でも? ここに居ていい?
それに……何だかいい匂いがする。水の匂い? いや、これは、この香りは――彼から漂ってくる香りだ。
「ん、ん……?」
意識が遠のいていく。まだ、回復してないみたいだ。
私の勘違いは、勘違いでも妄想でもなく、本当で現実かもしれない。
―Third phase―
それから、一週間が経った。私はまだ、居候生活を続けている。頭はもう大丈夫だけれど、心はどんどん病気になっていくようだった。思えば、私の私物は財布しかなく(あとは事故に遭ったとき着ていた服)、他は全部彼のものを使わせてもらっているけれど、この生活に満足していた。満ち足りていた。でも、戸惑う様子も無く私の近くに来て看病してくれる彼を前にするたび、酸素不足になって心配させてしまうのは何とかしたかった。私ばっかりおどおどして、がっついて、恥ずかしい。そんな彼でも、最近、不思議な表情を見せることがあった。
たとえば食事をするとき(今は二人で別の部屋で食べる)、たとえば私の体調管理をしているとき、彼は眼鏡越しに、不思議な目つきをした。何かを探っているようにも見えたし、嬉しそうにも、そして不安そうにも見えた。そして私も、そんな彼を見るたびに益々自分が『変』になっていくのに気づいていた。
彼の近くに居るときに感じる、花のような香りは強くなるばかりだった。それに比例して、私は酔っ払ってしまう。本当、どうしちゃったんだろう。そんなに、私はこの人のことが――
彼は色々と無自覚で、でも的確に私の心を引き寄せていた。いつも食事をつくってくれ、掃除洗濯なんでもこなす彼を前に、「私は何もすることがないなあ……」と思っていると、それが顔に出ていたらしく、
「そんな顔をするな。自分に必要なこと以外はするな」
そうして続けて、
「きみは迷惑じゃないし、何もしていないなんてことはない。ここに居てくれることだけで充分きみは私のためになっているんだよ」
なんて言ってきた。堅苦しい喋り方ももう慣れた。「きみ」と呼ばれるのも、始めはびっくりしたけれど今はそれが彼らしいと思ってしまう。むしろ、この口調が合う人はこの人しかいないんじゃないか。全然二十代前半の男性らしくないけれど、似合っている。
恥ずかしいエピソードをひとつ挙げると、この間、私は初めて彼の名前を口にした。名字ではなく、下の名前を。もちろんさん付けだけれど、無意識で呼んでしまった。彼は心底驚いていた。私もその声が自分らしくなかったのにひどく赤面した。ああ、もう嫌だ。
私も名前を呼ばれたいからって、何を馬鹿なことを。
―Final phase―
彼の家にはいくつもの部屋があった。初めてあの病室のような寝室から出たときは、あまりの広さと清潔さに息を呑んだものだ。誰か雇っているのだろうか。でも、ここには私以外いないって言ってたもんなあ……。
その日、居候して一ヶ月が経とうとしていたにも関わらず、迷ってしまった。夕食後トイレを借りようと思って廊下に出たはいいものの、歩くうちにどこだか分からなくなってしまった。
言い訳をさせてもらうと、先ほど一緒に食事をしているときに彼はまたあの謎の、色めいた視線で私を見つめてきたのだ。これは私の妄想かもしれないと思っていたけれど、そんなことはなかったようで、食べ終わった後に、彼は、その、私に。
あまりの急発展に夢じゃないかと思った。
ふらふらと、千鳥足で部屋を出て、そのまま道に迷ってしまったというわけだ。知らない部屋がいくつもある。仕方なくそのまま歩いていくと、行き止まりになった。突き当たりにもドアがある。ドアノブに小さい木の看板が掛かっていた。
【LABO・LOVE】
「……らぼ――ラブ?」
何だろう、どういう意味だろう?
ちょっと興味を持って、私は取っ手を回してしまった――開いた。
「……?」
部屋に明かりはついていないけれど、何かもくもくしたものでいっぱいだった。
部屋の中は、あの匂いで充満していた。
私が酔ってしまう、彼の、匂いだ。
清潔な部屋にある卓上に、実験器具だと思われるフラスコがたくさん置いてあった。そのうちのいくつかはピンクの煙をあげて、もくもくゆらゆらと立ち込め、部屋中を満たしている。それが、匂いの正体だった。
私はそれのひとつにそっと近寄って、嫌というほど知っているくせに、匂いを嗅いだ。気持ちのいい陶酔感。
そしてそのとき、背筋がぞくりとした。
振り返ると、そこには、彼がいた。
「鍵をかけ忘れたな」
感情のない声で言うけれど、私には分かる。
彼は、怒っている。
明かりをつけ、後ろ手で扉を閉めた彼は、私の目をじっと見て言った。何かを確かめるかのような、あの不思議な目つきで……。
「ここが何の実験室か分かるか」
私はすぐに首を横に振った。それが正しい行為だと思って……。LOVE、と書いてあったから、――愛、に関係してる?
「LABO・LOVE――Laboratory Loveの略だ。訳は一々しなくても分かるだろう」
愛――愛の、実験?
なぜか、震えが止まらない。私の中にある大きなものが、否定された気がして――
彼は、そんな私をみて微笑んだ。こちらが溶けてしまいそうな、そんな笑顔で。
「ふ、ふふ……ここを見られてしまったからには、きみを我が家に置いておくことはできないな」
「そ、そんなっ」
今まで聞いたことのない笑い声だった。なんで、突然そんなことを言うの……さっきまでは……。
「言ったはずだ。自分に必要なこと以外はするな、と。いや、ここを知ることはきみに必要なのか……全てが、ここにあるのだから」
「え……?」
「私は昔からずっと研究していることがある。時に人間を魅了し、惑わし、狂わせ、壊してしまう力。その大きな力に私は虜になってしまってね。自由自在に創り出すことを試みた」
この場から急いで逃げ出したかった。彼の傍を離れたくはないけれど、でも、ここから先の彼の話は聞いてはいけないと脳が警告していた。
「数年前、マウス同士の実験が成功した。効き目は抜群。定期的に薬を与え続けることで、二匹とも無意識にお互いを意識し合った。だから、私は」
そうして彼は、私をじっと見た。私はなぜか目を逸らすことができなかった。
「実験を重ねながら、他の実験台を探した。無論、きみがそうだ」
彼は私の両手をとった。おとぎ話の中でしか知らない、滑らかで自然な動作で私に口づける。体中が、陶酔感に満たされて何もかもがどうでもよくなってしまう。
「私はきみを街中で見かけてから、このひとだ、と思った。後をつけて、誰も居ないところで軽く気絶させた。持っていた物を見る限り、一人暮らしで恋人もいない。私はきみは大怪我をしたと偽った。医者であることも。そうして私は、きみを手に入れた。毎日少量だが、薬を混ぜた飲み物を食事に出した。効き目は、この通りだ」
彼は私の手を見つめながら、今までと変わらぬ口調で、私に告げた。
「きみはモルモットに過ぎないんだよ」
その言葉は、私のすべてを否定するのに充分だった。声にならない声が、自分のものとは思えない音が口から漏れる。顔中が濡れて、それらは私と彼の手に落ちる。
「私は知りたい」
濡れるのもお構いなしで、彼は私の手の甲を撫でる。それでも私は、諦めきれない用だった。ずっとこのまま彼に触れていてもらいたかった。私の中のこの感情が、創り出されたものだと言われても。
私は、彼が好きなのだ。好きだから。
「愛を。その全てを。愛とは、なんと不可思議なものか。貴女の中、どれくらい私を占めているのか。貴女の中、満ち溢れている感情は、如何なるものなのか。貴女の中で鼓動するその心臓を、より速く力強く打たせているのは何か。
ああ、愛! 愛こそがすべての力! 私も味わいたい、感じてみたい! 貴女と共に、愛の享楽に満たされ溺れてしまいたい、ああ、すぐに私も薬を飲もう。貴女と永久を生き、一層愛すると誓いたい」
だから、彼がこれまで見たこともない歪んだ笑顔をしても、私は見蕩れてしまう。
この気持ちは、嘘なんかじゃない。
絶対に。
彼は私を引き寄せて、広い胸の中に閉じこめた。逃がさないよ、とでも言うように……。
「この力があれば、それだけで……あのひとを、私のものに」
彼は、私の耳元で呟いた。
「は、はははは!」
笑い出す彼の、私を抱く力が強い。強すぎて、体温がサッと引いていくのが自分でも分かった。いや、強すぎるからじゃない。彼が笑ってるからでもない。
彼の目は、私を見ていない。
「今まで、薬を投与した動物たちは皆私の虜だった。マウスも、ブタも、イヌも、ヒトも……モルモットはもう必要ない。私は、私はあのひとと! ずっと、ずっと……」
――、と彼は私の知らない名前を狂ったように呟き始めた。
私は彼の中から逃げた。どうやってあそこから抜け出せたか憶えていない。私は一度も振り返らなかった。
振り返れなかった。
私のこの気持ちは、薬の力なんかじゃない。夜の闇を私は走り続ける。
私は、貴方を愛しているのに。
本当に。絶対に。
冷めた体を否定したくて、自分自身を抱くようにして、私はそう強く繰り返した。どこにいるのか、どこへ行くのかなんてどうでもよかった。走り続けて、足がふらつく。私はブロック塀に寄りかかって座り込み、遠くに見える町の明かりを見つめた。あっちへ行かないと。でも私は動けなかった。
「どうしちゃったのよ、私……」
彼との最後の食事の時、彼は私を誘ってくれたのに。あれも嘘だったというのだろうか。実験だったというのだろうか?
もう私の中に、あの暖かいものはどこにもない。
隣に誰も居ないことに、何も感じない。
あのひとを頭に浮かべても、心臓は高鳴ったりはしない。どころか、彼の顔すら、今の私には思い出すことが出来なかった。さっきまで、あんなに魅力的に見えていたはずなのに、記憶の中にある彼の姿は、私の心を動かすことはなかった。
「い、嫌……!」
この気持ちは、嘘じゃないはずなのに。
私は、あなたを。
「お願い……」
そういえば。
彼は一度も、私の名前を呼ばなかったなあ。
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