畜生

 オヤ……この臭いは、人間だな。またどうしてこうやって寄ってたかって俺を見るのだ。人間と言うものは。

 ム……新顔だな、またどうして若い男がやってきたものだ。暇人にも程がある。

 お前はどうしてここに来た。

 通りすがりか、それとも俺に何か用か?


 ……まあいい、ここはどうだろう、俺の話を訊かないか。ナニ、すぐに終わる。心配するな。

 ン? ハハ、そうか。俺を怖がっているのだな。心配はいらないさ。俺はお前を取って喰ったりはしない。ほら見ろ、俺はこうして手足を鎖で繋がれているし、俺とお前の間にはこうして鉄格子がはめてあるだろう。若い人間は美味いが……冗談だ。

 さあ、そこに座れ。話を聞け。汚いところで申し訳ない、椅子も無いが、我慢してくれ。 


 俺は見ての通り、獅子だ。

 百獣の王、ライオンだ。

 ところがマア、今はこんな有様だよ。こんな狭いところにぶち込まれて、暗い薄汚い、そして不味まずい飯しか喰えない所に放り込まれ、牙と爪はがれ、尾は千切れ、目も悪くなれば鼻も利かなくなった。そんな有様だ。だがまだ俺の誇りと、このたてがみは昔と変わらず残っているぞ(そうして相手は自分の毛を撫でた)。

 ところで俺がどうしてお前を呼び止めたかと言うと、俺の昔の話をしたくてな。思い出だ、遠い過去だ。何故かって? そうでないと俺が俺であるのを忘れてしまうからさ。俺は歳を取った。だんだんだんだん、俺は俺が何だったのか分からなくなるときが増えてきた。こうして自分について語っていないと、俺はいつか自分のことを忘れてしまうのではとそら恐ろしくて、だからこうして通るものがいる度に話をするのさ。



 俺は草原で暮らしていた。広い広い、見渡す限り草しかない、そんな土地だ。乾いた地面は燃えるように熱く、日は照らすし、上も下も大火事だったが、今思えばあそこほどいい場所はなかったと思う。

 俺には家族がいた。親父は頑固者で、そして怠け者だった。こいつは俺が生まれて間もなく群れを出て行ったがな。母は立派なひとで、狩りがとても上手だったし、それを俺達に分けてくれる優しい獅子だった。妹は俺と二歳差で、父親は別の群れの獅子だ。だが俺と彼女は血が繋がっていることは変わりない、当然可愛がってやったし妹も俺に良く甘えてきた。

 俺は狩りが下手だったよ。妹に先を越されたときは悔しくて恥ずかしくて、しばらく表に顔を出せなかったね。俺の長所が、短所を作ってしまったんだ――足の速さだ。そう、俺は走るのがとても速かった。それは鳥のよう、風のよう、もの凄いスピードで走るものだから、獲物を捕らえようとしても勢いアマってつんのめってしまうわけだ。これはお笑い種にされた。だが俺は気にしなかった。母がいつも慰めてくれたし、「その足はいつかきっと役に立つよ」と言ってくれた(彼は家族構成、それぞれの性格や特徴などを細かに述べてくれた)。

 あれは雨季だったな、大雨の中俺は雌を見つけた。

 美しい女のひとだった。俺を見据える黒い目は、太陽よりも月よりも眩しく見えた。俺は彼女の周りをぐるぐる廻って気をいたよ。自慢の脚力で、魅了しようとしたのだ。だがマア相手は戸惑っているふうだった。不審者を見る目つきで俺を見ていた。俺はちょっとおどかしてやろうと前足の鍵爪でちょいと相手を引っ掻く真似をしたりして、今思えば滑稽な姿で彼女を誘惑したわけだ。癖で前につんのめって顔が泥だらけになったところで、ようやっと彼女は笑ってくれたのだがな。ふたりで子供をつくろうと、所謂いわゆる甘い夜を過ごしたりして、俺はとても幸せだったよ(ここから話はわき道に逸れていったので、私は自分の膝の上に置いていた書類を眺めていた)。

 だがそれを引き裂く出来事があったわけだ。人間どもの襲来だ。なぜか奴らは俺達を捕らえたがるのだ。彼らは俺を追った。俺は走った。自慢の足で。だがふと後ろを振り返ると、我が妻が狙われているではないか。俺は急いで引き返し、人間どもに突進していった。お陰で彼女は助かったが、俺はひどく頭をぶたれたような気がして、気を失ってしまった。そうして目が覚めたとき、俺はここにいたわけだ。ここが一体どこだか分からないまま、一体何年のときが流れたのだろう。妻や子供はどうしているのだろうか、俺は不安で心配で仕方が無い。向こうもそうなのだろうか。だとしたら伝えてほしいものだ、俺はもう死んだのだと。今までに何人もの人々にこの伝言を頼んでは見たのだが、果たしてそれは届いているのだろうか。


 ム、うむウ……頭が痛いな……。最近は激しくなってきた。吐き気がする。目から火が出そうだ、ちかちかして何も見えない。



「ウワアアアアアアアアアッ!」

 目の前にいるけだものは頭を抑えて身を縮めた。私はそれを見ていた。

 ぼうぼうに伸びた髪と髭が、男の顔を覆い隠すようで、そして獅子のようであった。血走った目、垢だらけの爪、汚れた身体……あまりに痩せ細っていて、死屍ししのようであった。私は男から目を逸らし、再び膝の上に置いていた書類を眺めた。


「男。年齢は四十五」

「痛い痛いイタイイタイ――」

「母子家庭。妹とは父親が異なる」

「頼むここから、俺はナゼ――」

「何らかの麻薬を服用していた恐れが」

「俺は人を殺した殺した殺したコロシタ――」

「殺人、強姦、人食、他多数の罪を犯し」

「もっと、もっともっとモットモット――!」

「己が獅子であると思い込み、」

「イタイ誰か俺に助けて――」

「己の罪について、過去について決して話そうとしない。時たま我に返ったように人間であることを思い出す。また、ただ獅子であるという記憶は、人間の記憶と合致しているものと思われる、か」

「頼む!」

 男が吼えた。

 地面に伏せ、顔だけをくいと上げて、私を見ていた。

 目の焦点が合っていない。


「俺をここから出してくれ、早く早く早く! 俺の妻はどこだ、どこにいる、なぜ引き剥がした何がいけない、どうして俺はここに――!」

 吐き気がして、私は背を向けて足早に監獄を後にした。周りの罪人が哀れに思えてくるほどだ。

 私は一度も振り返らなかった。


「頼む、お願いだ! こうして俺が頼んでいるんだぞ、俺の牙や爪が生えたらすぐにでも力づくでここを出てやるんだからな! すぐにお前らなど喰ってやる、だから早く出せ、出せえエエエエエエエエエエッ――! ウワアアアアアア――ッ!!」 

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