花屋店員
朝六時。アラームが鳴るよりも先に、ぱちりと目が覚める。体内時計は正確だ。
朝は、自分と娘、二人分の朝食をつくるところから始まる。ご飯は夜のうちに炊いて保温にしておいて、時間を節約。手際よく味噌汁をつくり、その横でフライパンで丸い目玉焼きを焼く。
出来上がったものが冷めないように、蓋をしたら夜じゅう干してあった洗濯物を取り込んで、七時には娘のすみれを起こす。
出来立ての朝食を、母子で一緒に食べる。ご飯が終われば、すみれの着替えを手伝って、ランドセルの中を見て忘れ物がないかをチェックしてあげる。
八時の少し前にはすみれをアパートの登校班へ送り出す。
それから、ようやく自分の出勤準備を始める。化粧をして髪をまとめる。服はカジュアルなものだけれど、あまり、派手すぎないように気をつける。派手な外見はクレームの原因になりやすい。化粧も濃くならないように、地味目に抑えた。
「うん。よし」
出勤時間ぴったりだ、と時計を見やる。
駅までは家から自転車で十分。いつも通りの電車に乗り込む。この時間はみんな都心へ向かうから、一番混んでいる。ぎゅうぎゅうと押し押され、目的の駅に着くと周囲の人たちもどっと降りていく。
私の職場は駅ナカの一角にある花屋だ。スタンド花や祝花などの法人向けのフラワーギフトがメインで、ご進物用などの個人客は少ない……とは言っても、都会の駅ナカというだけあって、一般のお客もそれなりに訪れる。私は主に、そうした個人客への接客を担当していた。
「おはようございます」
事務所には既に数人の同僚や上司がばたばたとせわしなく動いていた。
私は何人かと挨拶を交わし、更衣室へ向かう。ロッカーに自分の荷物をしまい、エプロンを身につけると、売場へ出た。
「あ、紺野さん。おはようございます」
「あら、多田くん、おはよう、相変わらず早いわね」
多田くんは今年の春に入った新人社員だ。私と同じく店頭販売の担当だけれど、私とは一回りも年が離れていて、若さに溢れている。朝は誰よりも早くに出勤して、お花の手入れをしてくれている。
「コスモスが綺麗だったので。悪くならないように、水を移し替えようかと思って来たんです」
将来的には実家の花屋を継ぐらしい。その武者修行のためにわざわざ上京してきたのだというから、すごい、と私は感心していた。
「多田くんって、コスモス好きよねえ」
「はい。姉が実家でよく、コスモスを育てていたんですけど。それがとても綺麗で、好きだったので。コスモスを見ると、姉を思い出します」
多田くんには少し年の離れたお姉さんがいる。そのお姉さんの育てた花はどれも綺麗で素敵なのだと、自分もそれに負けないような花屋になるのだと、多田くんはよく言っていた。
若くて夢のある青年は、不思議ときらきら輝いているように見える。
「私も、負けてられないわ」
私だって、若い頃の夢を、叶えた一人だった。
彼に負けじと私も開店前の店内の準備にかかる。そろそろハロウィンの季節が近いから、店内の飾り付けをハロウィン用に変えなければいけなかった。
「ああそうだ、多田くん。ハロウィン用のフラワーギフト、考えてきたから、あとで見てもらえない?」
はい、見せてください! と若い元気な声が返ってくる。夏用の飾りを取り外しながら、ああ仕事が楽しいなと、思った。
カランカラン、と扉の開く音がして、私と多田くんは「いらっしゃいませ」と声をそろえた。
来店したのはかっちりとしたスーツを着た男性だった。初めて見る顔だな、と思った。
男の人は店内をぐるっと一周見渡して、それから迷うことなく私の方へ向かってきた。
「いらっしゃいませ、いかがいたしましたか?」
「すみません。お花を見繕っていただきたいのですが」
僕は花のことには疎いので、と彼は小さくつけたした。私はにっこりと笑う。
「はい。どなたかにプレゼントですか?」
「ええ。ちょっと、女の子に、あげたくて」
男性の視線がすっと下がる。
「女の子、ですか? 娘さんとか、姪っ子さんですか?」
男性は三十代の前半くらいに見えた。
その年代の人であれば恋人や奥さん、あるいは両親に贈り物として、という方が多い。娘がいるとしても中学にすら上がっていない年だろうし、女の子へのプレゼントに花束を、というお客は珍しかった。
「あ、ええ、はい。姪っ子なんです。高校生なんですが、この間、推薦で大学が決まったようで。そのお祝いに、お花でも送ろうかと思いまして」
「なるほど、そうでしたか。おめでとうございます。それでしたら、花束ではなく、こういったバスケットタイプのアレンジメントがおすすめですよ。可愛らしいですし、場所を取らないので、飾りやすくて贈り物としてとても評判が良いんです」
私が薦めたのは、木製や金属製のバスケットに色とりどりの生花が飾られたものだった。贈る相手の家に花瓶がなくても飾ってもらえるので、ちょっとしたプレゼントとしての人気が高いのだ。
男性客は見たことがなかったようで、いくつかのアレンジメントをまじまじと眺めていた。
「へえ、これはいいですね。可愛くて、彼女にも喜んでもらえそうです。バスケットに入れる花は、選べるんですか?」
「はい、もちろん、お選びいただけますよ。姪っ子さんの好きなお花などはございますか?」
私の問いに、彼は俯いてうんうんと考え込んでしまった。男性に花の種類を聞くのは、少し難しい質問だったかなと反省する。
「もしあれでしたら、姪っ子さんの好きなお色や服の趣味など、なにかしら分かるものがありましたら、そこからイメージのお花をお探ししますよ」
「ああ、好きな色。なるほど、それでしたら、桃色……ピンクが、好きだと思います」
好きな色、と聞いて男性の返答は早かった。
「ピンクですね。それでは、いくつかピンク色のお花の候補を出しますね。あ、よろしければこちらで掛けてお待ちください」
店の隅にあるデスクに彼を誘導し、私はレジの棚から取り扱っているお花が全種類載っているカタログブックを取ってきた。
「ピンクのお花っていうとお花の中でも特に種類が多いんですけども、そうですねえ、バラ、トルコキキョウ、ガーベラなど、この辺りがアレンジメントとしては定番のものになりますね」
男性は私の説明を耳で聞きながらカタログをぱらぱらとめくり、ピンクの花を見つけてはじいっと見、そしてぱらぱらとめくり、と繰り返した。
ふと男性の手が止まった。私は「なにかご希望のものがありましたか?」と尋ねると、男性はもごもごとなにか言いづらそうな素振りを見せた。
「あの、無理を承知で尋ねるんですけれども」
しばしの沈黙の後、男性はやっとそれだけを言った。「はい、お聞きしますよ」と私が促すと、彼は視線を落としたまま、言葉を続けた。
「桃の花は、この季節は、アレンジメントで使えないですよね?」
「そう、ですねえ。ううん。今の時期、となると……桃、ですか」
私は言葉に詰まった。
桃の花の、季節は春だ。ひな祭りの季節になると、桃の花のアレンジメントは需要が高くなる。けれど今は秋で、当然、桃の花は入荷していない。彼もそれを十分承知の上で問うたのだろう。
「申し訳ございませんが、生花で桃の花は入手が難しいかと思います。造花か、あるいはプリザーブドフラワー……生花を特殊液で脱水して、長期保存の可能なものですが、そちらでよろしければ、取り寄せることができるかと思いますが」
「そうですよね。無理言って、すみません。ううん、そうですね。それって、どんなものか見せていただくことはできますか?」
「はい、何点か見本をご用意してますよ。プリザーブドフラワーにするのでしたら、バスケットのアレンジメントよりはボックスタイプのものが良いかもしれません。そちらの見本もいくつか持ってきますね」
それからいくつもの見本を見たり、デザインを紙に書き起こしたりと相談を重ね、気づけば二時間近くが経っていて、閉店の時間に近かった。男性は随分と熱心に話を聞いて、花を選んだ。
シンプルな白のスクエアボックスに、桃のプリザーブドフラワーをメインとしたピンク基調の可愛らしいフラワーアレンジ、そして桃の花と同色の薄ピンクのリボンでラッピングをする、ということで話はまとまり、商品が出来次第、受け取りのためにまた来店してもらうこととなった。
「長時間相談に乗っていただいて、ありがとうございました。高校生に、なにをあげたら喜んでもらえるか、分からなくて。とても助かりました」
「いえいえ、こちらこそ、お時間を取らせてしまって。姪っ子さんへのプレゼント、無事に決まって良かったです。商品ができましたら連絡させていただきますね」
深々と頭を下げ、店を後にしようとした男性が、あ、そうだ、と一度だけ振り返る。
「店員さん。そのブローチ、大変お似合いですよ」
それだけを言って、男性は帰っていった。
「紺野さん、お疲れさまです」
閉店のプレートを持った多田くんが店から出てきて、労いの言葉をかけてくれた。
「多田くん。ありがとう。店番一人で任せちゃって、ごめんなさいね」
「いえ。お客さんのためですから」
扉にプレートを掛けて、店に戻る。私は幸せな気持ちでいっぱいだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます