第8話お嬢様と老人8

 それは冬も半ばを過ぎ、狩というものにも大分慣れた時の事だ。

「奥様、魔獣のものと思われる足跡を発見しました」

 斥候担当の騎士が緊迫した表情で報告する。周囲に気を配りながらもヘーリアンティアを連れて和やかに歩いていた第二婦人と兄が動きを止める。

「種の特定は出来たの?」

「『雪男』の類です。最悪の場合、『冬狂鬼』の可能性が有ります」

 周囲の騎士達に緊張が満ちる。第二婦人が真剣な表情になる。

「案内して」

 その足跡は、強いて言うなら二足歩行する猿の類のものに似ている。非常に大きく、足の指が異様に発達し長く太い事が窺える。足跡の大きさから体躯を推測すると、長身な兄の更に二倍程の大きさが有るかも知れない。人間のものでは有り得ない。大きさもさる事ながら、こんな雪原を裸足で徘徊する人間がいる筈がない。明らかに魔獣だ。

「ヘーリ、『魔力視』で見てみろ」

 兄に促されて方術を発動させる。ヘーリアンティアの瞳が青い光を帯び、周囲の魔力を視認出来るようになる。水の力が満ちる冬だけあって、辺り一面に青い水の要素が漂っている。見渡す限りが青い。常時この状態が続けば精神に変調を来たしそうな光景だ。嫌な考えを振り払って足跡を見る。

「これは……。

 周囲と比較しても、足跡の部分に強い水と風の要素が残っています」

「『雪男』らは水の加護を持ち冷気を使う。その残滓ね。風の要素が有るという事は吹雪を操る種という事。危険な魔獣の公算が高いわ。

 この足跡の鮮度は?」

「雪の積もり方や風に弄られた具合からして古くはありません。

 かなり近くに潜むおそれもあります」

 第二婦人の問いに斥候担当騎士が答える。晴れた日を選んで狩りに出ているのだから当然だが、現在雪は止んでいる。だからこそ足跡を発見出来た訳だが、天候の具合によっては痕跡が消えて奇襲を受けていた可能性も有る。魔獣に奇襲を受ける事は死に直結する。幸運だったとしか言い様がない。

「『鑑定』をしてみて」

 太陽方術を使える騎士が頷いて膝を着き、足跡に騎士用の短杖をかざして方陣を描く。

『三層太陽術 鑑定』

 物質の情報を読み取る方術だ。高い精度でこの方術を使える者は、貴族や商人など貴重な物品を扱う者に極めて尊重される。ただし、読み取った情報を己の知識と照らし合わせて形にしなければならない為、知識の量が問われる方術でもある。極端に言えば、犬を見た事がない者が犬の足跡を『鑑定』しても、精度の高い情報は読み取れない。

「相当に大きい。風と水の魔力に満ちている。

 直立して歩く。重心が安定していない?

 身体を揺らしているのか?

 生物というよりは、精霊種か。抜け毛も、汗をかいた様子もない」

「『冬狂鬼』の可能性が高いわね」

 断片的な言葉を聞いた第二夫人が腕を組む。

「追うか、一旦引くかが問題ね。

 どう思うかしら?」

 下の兄も思案顔で腕を組む。

「戦力的には不足はない。魔導器の準備も十分、属性も調和が取れている。晴れている内に撃破するべきだろう。

 ここから街までそう距離がない。人里に紛れ込めば相当な死人が出る。仮に吹雪の中街を襲撃されれば防衛戦でも厄介だ」

 今回の構成は第二夫人が指揮を取り、兄とへーリアンティアがその下に就く。構成員として騎士が六人参加しており、近衛騎士エクエスを筆頭に斥候担当が一人、猟犬を使役する動物使いの技能持ちが一人、術を得意とする方術騎士が一人に標準的な騎士が二人居る。

「自分は一旦引くべきだと考えます。

 構成員に不満はないが、いたずらにお嬢様を危険に晒す必要は有りますまい?」

 近衛騎士エクエスが口を開く。彼は秋の終わりにお遣いに同行して以来、何かとヘーリアンティアの事を気に掛けてくれていた。今回も余暇を費やして参加してくれたのだ。

 第二夫人が今度はヘーリアンティアを見据える。

「貴女はどう考えるの?」

 問われて思考を巡らせる。

 魔獣の習性は千差万別で一概には言えないが、肉食性の魔獣は大体において人間を捕食する事を好む。これは人間が体内に蓄える魔力を摂取する為だと云われている。人間は動物よりも魔力に優れる為、魔獣に取っても格好の獲物であるのだ。この事から考えても強力な魔獣が街を襲撃する可能性は否定出来ない。名にし負うゲルマニカの騎士団が半端な魔獣に後れを取る事など有り得ないが、先制攻撃を許せば犠牲が出るかもしれない。防衛戦では市井の者を守らねばならない。どうしたって動きは制限される。

 翻ってこのまま追跡するのはどうか?

 兄の言う様に、皆、有事に備えて装備を固め魔導器を準備して来ている。対魔獣戦で重要となる属性も一通り揃っている。水と風の魔獣には火か地の先天属性か後天属性で攻撃する事が望ましい。今回の主力では第二夫人、近衛騎士エクエス、方術騎士が地で、兄が火だ。後天属性を発現している者も居る。他の騎士達も皆方術を修めている為、柔軟かつ破壊力のある戦法が可能だろう。このまま追跡して奇襲をかければ勝算は十分有る。

 唯一の懸念は自分が足を引っ張る事だろう。冒険者に成ると決めてから戦闘訓練はこなしているが、経験不足は否めない。何せ実戦の場に立った事は一度もないのだ。

「追跡しましょう。領民を危険に晒す事が有ってはなりません。

 おそらく私が足手まといになるでしょうが、邪魔をしないよう努力します」

 エクエスの顔が曇る。反対に第二夫人と兄は満足気に頷く。

「良く言った。

 良い機会ね、これを以って貴女の初陣としましょう。

 これより魔獣を追跡する。準備を」

「おうっ」 

 鋭い言葉に答えて騎士達が各々の武器を抜き放つ。雄々しい騎士達を横目に、へーリアンティアはエクエスに声を掛ける。

「案じて下さってありがとう御座います」

 へーリアンティアが微笑むと、エクエスは曖昧な表情で笑う。

「全く、淑やかな外見に似合わずお転婆な方だ。だが、自分が参加していてよかったとも言えるか。

 この身が砕けても貴女の盾となりましょう」

 金属製の盾を持った手を胸にやる。貴女を守る、という騎士流の礼法の一つだ。近衛騎士はゲルマニカ最強の戦闘能力者である。これ程心強い存在もない。

「ありがとう御座います。でも危なくなったら私を切り捨てる決断をして下さいね。

 私だって貴族です。それ位の分別は持っているつもりです」

 へーリアンティアが真面目な表情でそう言うと、

「良い覚悟ですが、それには及びません。

 自分はゲルマニカに全てを与えられた。生きる糧も、誇りも、名誉も、主も、友も、全てを。

 その自分がどうしてお嬢様を切り捨てられましょうか?

 敵の刃は自分が止めます。だからお嬢様も、蒙昧なる我らに道を照らして下さい。

 さすれば我ら、万象斬り払ってご覧に入れましょう」

 エクエスは力強く言い切った。

 

「さて、これから追跡に入るのだけれど、敵に捕捉されずに進むには準備が必要よ。

 貴女の事だから、書物で知識を溜め込んで説明は不要かも知れないけれど、まあ聞いておいて。

 魔獣は視覚、聴覚、嗅覚の他にも様々な方法で周囲を感知しているわ。大気や大地の振動、熱や魔力は奴らの感知網に触れる可能性が有る。これらは如何な隠れ身の達人でも完全には消せない。そこで方術を用いる。

 ――補助方術を掛けなさい」

『四層月術 消姿壁』

『四層月術 魔力隠蔽壁』

『三層風術 消音壁』

『三層風術 消臭壁』 

『三層風術 風除壁』

 騎士達が次々に方陣を展開する。小隊を取り巻く様に魔力で構成された様々な壁が現れる。中からは多層の壁が確認出来るが、壁の効果で外からは視認も魔力感知も出来ない筈だ。こういった持続性の方陣は発動した後空間に留まり、術者の意思で動かす事も出来る。安全に行軍出来るという訳だ。

「補助方術は魔力が低い者が使っても実用に耐える効果を発揮し得る。持続時間や効果は方術士に及ばなくとも、目的を達するに不足なければ問題ないわ。専業方術士でない戦士はこういった方術を学んだ方が実用性は高い筈よ。

 今回は奇襲を狙う為に臭い、音を外に漏れないようにし、姿と魔力を隠蔽して風を避ける。

 水の要素を操る魔獣の多くは魔力視に優れ、風を操る魔獣は風の感知網を布いている。今回重要なのは魔力を感知されず、極力風に触れない事よ。聴覚や嗅覚も人より優れた魔獣が多い。隠蔽はしているけれども気を付けてね」

 第二夫人の言葉に頷く。物事を理解するに当たって実践に勝るものはない。

「では足跡を追うわ。

 猟犬を帰して伝令としなさい。ここからは敵に発見されない事を第一に進むわよ」

 動物を使役する騎士が一頭の猟犬の首輪に状況をしたためた書簡を挟む。猟犬達は優秀だ。不測の事態が起こらない限り、無事城に戻って増援を呼ぶだろう。猟犬達を見送って先に進む。

 見渡せば、この一帯は疎らに木が生えている他は遮蔽物が少ない。敵から発見されやすい危険な地形だ。雪が積もっているせいで地面の様子が分からないが、暖かくなれば一面草原になるのかもしれない。

 先行する斥候担当の合図に従い慎重に進んで行く。途中何度か効果の切れた方術を掛け直す。斥候担当は方術の効果範囲から外れてしまっているが問題ないらしい。斥候の専門家は食事を工夫する事で体臭を消し、体術によって音と気配を絶つ様だ。彼が身に着ける白い外套は視覚的に雪に溶け込む効果と共に、魔力を隠蔽する方陣が刻まれた魔導器らしい。風や熱の感知から逃れる訓練も積んでいるらしく、先頭を任せるのにこれ以上に人物は居ない。何事も練達の専門家というのは凄まじいものだ。

 そのまま進んでいると雪に大量の血痕が残る場所に出くわす。周囲に水と風の要素が強く残っている事から、おそらく魔力を操り獲物を仕留め、捕食した跡だろう。夥しい血の量からして鹿などの大型の獣だ。しかし、その割には食べ残しが殆どない。持ち去ったにしては血の滴りが落ちた跡もない。まさか全て平らげたのだろうか?

 動物の生態に関する文献によれば、例えば大型の虎が鹿を仕留めても一日で数分の一程度の量しか食べられないらしい。足跡の大きさからして、追跡する魔獣が大型の虎の数倍の体躯を持つ事は考えられない。

「常識外れの食事量に見えますね。

 これ程の量が入る胃を持つ大きさだとは、とても思えません」

 へーリアンティアが濃密な鉄の臭いに顔を顰めながら言う。兄が膝をついて痕跡を探りながら答える。

「魔獣は驚く程に多様だ。全く食事を摂らない種もいれば、限度を超えて食べる種もいる」

「排泄した跡も有りませんし、どうなっているのでしょうね?

 物の本によれば、食べた物を魔力に変換する効率がとても高いのではないか、と推測されていましたが」

「食べた物がそのまま魔力になるのであれば、奴らの馬鹿げた力にも納得がゆくが な。

 奴らに関しては分からない事だらけだ」

「血の臭いからして、敵が食事をしてからそう時間は経っていません。

 油断めされぬよう」

 斥候担当騎士の言葉に頷いて追跡を再開する。

 足跡は平原を抜け針葉樹が立ち並ぶ林の中に続いている。背が高い木が多い為、枝が高い位置に有り視界はそう悪くない。だが、足場が悪い。注意しないと足を滑らせそうだ。時折薙ぎ倒された木を見つける。恐るべき力だ。これは、樹木が遮蔽物として機能しないかもしれない。むしろ、こちらにとってのみ障害物となる可能性が有る。

 斥候担当の男はまるで平地を歩くかの様に滑らかな動きで進んで行く。第二婦人も兄も騎士達も足場を苦にした様子もない。転ばずに着いて行くのがやっとのヘーリアンティアとは大違いだ。流石はゲルマニカの精鋭騎士という事だろう。

 歩き進むと、次第に雪混じりの風が出てきた。『風除け』の方陣によって風が当たる事はないが、人の怨嗟のような怖気を催す風の音に汗が滲む。ヘーリアンティアは幼い頃から魔力に優れていた為、勘がよかった。その第六感が告げている。この先には相当な危険が待つ。ただでは済まないかもしれない。

「嫌な空気だ」

 兄も厳しい表情をする。

「これは敵の索敵の風ですか?」

「いえ、違うようね。敵の強大な魔力に大気が反応しているだけよ。

 言葉を変えればそれだけの力を持つという事ね。此処からは気を抜いたら死ぬわ」

 第二夫人が緊張した素振りもなく、さらりと言う。先ほどから胃の辺りが痛んでいるヘーリアンティアとは対照的だ。だが、その平然とした態度に幾分緊張を和らげる事が出来た。指揮官が落ち着いて居さえすれば部下達が浮足立つ事はないとよく言うが、全くその通りだと実感する。


 足場に気を付けながらどれ程歩いたのか、雪混じりの風は次第に強くなり、視界を遮り始める。方術と魔導器の効果により凍える事はないが、はぐれたら一巻の終わりだ。

 ヘーリアンティアの息がそろそろ上がり始めた頃、不意に斥候が手を上げる。その瞬間に皆の動きが止まる。

「敵に追いついたわ」

 第二婦人が低い声を出す。ヘーリアンティアの顔に緊張が浮かぶ。確かに、風の質が何かしら違う。敵の索敵の風だ。

 斥候が指を小刻みに動かす。符丁で状況を伝えているのだ。貴族として当然教育を受けている為、ヘーリアンティアにも読み取れる。『危険な敵、判断願う』

 第二夫人と兄が慎重に進む。騎士達とヘーリアンティアも続く。

 

 それは林の中にある開けた空間に居た。

 濁った白色の、歪に捩れた体毛の無い猿の様な『何か』が、ゆらりゆらりと体を揺すっている。地に付く程に頭を垂れる。背が折れる程に後ろに仰け反る。動きに合わせて地に垂れ落ちた長い白髪が舞う。乱れた白髪のせいで顔は見えない。

 白く捩くれた細い体は、動物というよりも乾いた枯れ木の幹を連想させる。細いが大きい。屈んだ状態で成人した蜥蜴族の男性程の高さがある。か細い体に比べて手と足は異様に大きく、鹿の胴体を握り潰した指が根元まで食い込んでいる。その鹿は最早凍りついて死んでいる。

 思い出したように血塗れのまま凍りついた鹿に齧り付く。肉を食むような生易しい食べ方ではない。頭から丸ごと齧り付いている。ヘラのような形の巨大な角も頓着せずに貪り食う。骨と凍りついた肉を噛み砕く寒気を催す音が響く。

「『冬狂鬼』よ。

 対水結界、対風結界、対呪結界を張りなさい」

 第二婦人が落ち着いた声を出す。だが、その表情は些か厳しい。『冬狂鬼』はこの地方で遭遇する可能性の有る魔獣の中でも最上位の危険性を持つ。駆け出しの冒険者の小隊が出くわせば確実に全滅し、中堅でも不意の遭遇戦では勝ち目がない。準備が不足すれば騎士団でも不覚を取りかねない。人類を遥かに凌駕した膂力は金属鎧ごと人を挽肉に変え、水と風に強い親和性を持つ体は水術を無効化し風術の威力を半減させる。操る吹雪は全てを凍り漬けにし、撒き散らす呪いは魔力的抵抗の弱い人間を狂乱させる。

「仕掛けるわよ。

 術者は最大威力の方術を準備。大方術が着弾した後に各自集中攻撃。

 前衛は打ち損じに備えて。ヘーリ、貴女は待機しておいて。状況次第では力を借りるわ」

「分かりました」

 緊張から震えそうになる声を必死に抑制する。第二夫人はそれを見て満足そうに頷き、自身も弓を構える。体を揺する『冬狂鬼』が食事の為に頭を下げた瞬間、鋭く言い放つ。

「打て」

『六層地術 地竜の大顎』

 方術騎士が貴重な触媒を費やして強化した方陣を展開、発動する。『冬狂鬼』が踏み締める大地が脈動し、超巨大な土の竜の顎を形作る。『冬狂鬼』の前後を挟んで現れた上顎と下顎が、獲物に喰らい付く肉食獣さながらに猛烈な勢いで閉じられる。成人男性の三倍の高さはある大顎が凄まじい速さだ。『冬狂鬼』は噛み締められる瞬間、きょとんとしたように白髪で隠れた顔を上げた。轟音。土煙が立ち昇る。土の顎は口内に『冬狂鬼』を摂り込むと、大地に溶ける様に潜り込んで行った。

「仕留めたか?」

 兄が油断せず『冬狂鬼』が消えた大地を見る。今頃『冬狂鬼』は牙による咀嚼と口内で荒れ狂う地の魔力で塵の様に粉砕されている筈だ。あれは現存する六層方術でも単体への攻撃力では上位の方術に分類される。動き回る敵を捉え難いという欠点が有るが、奇襲で捕まえてしまえば勝ちが決まる。

 つまるところ、強力な方術士を擁する部隊の運用は、如何に方術士の力を最大限に引き出すかという点に集約するのだ。今回は小隊全員が高度な訓練を受けた騎士で編成されていた為、様々な補助方術と魔導器を用いて敵の感知をすり抜けて接近し、大方術を打つ時間を稼いだ。これだけの錬度の人間と装備を民間で揃えるのは困難だろう。言わば、ゲルマニカ家という集団の力の勝利だ。ヘーリアンティアは何もしていない。だが、次に戦いの場に立つ時には、己の器量で手に入れた力で勝利したい。幸い実戦の空気を吸って無事生き伸びる事が出来た。これを糧に更なる研鑽が求められる。ヘーリアンティアは今回の戦いをそう締めくくった。そうして、少しだけ敵に残していた心を解いた。


 大地が爆発する。冷気を帯びた烈風が地を引き裂く。凄まじい速さで何かが飛び出して来る。ヘーリアンティアは反応出来ない。大きく目を見開く。

「第二波、放て」

 微塵の隙もない第二夫人の号令で各人が方術を、弓を放つ。馬鹿な、まだ生きている? ヘーリアンティアは有意な行動を取れない。方術で引き起こされた爆風と可視可能な程の密度の魔力が渦を巻く。その中で何かが確実に動いている。前に、後ろに、体を揺すって。

「ちっ、かなり古い野郎だ」

 火術を叩き込んでいた兄が悪態をつく。ようやくヘーリアンティアが状況を理解する。『冬狂鬼』が体を仰け反らせたまま右手を突き出す。見れば、左手は上腕部分から吹き飛んでいる。冷気を帯びた風が右手に収束する。

「吹雪が来るぞ!」

 視界が白一色に塗り潰される。

「くっ」

「ぬぅ」

 水と風の結界を張る騎士達が呻く。騎士達の前に展開された結界方陣の構成が軋むのを感じる。冷風が結界を越えて吹き抜け急激に気温が下がる。防寒用の魔導器を持ち、水と風の対魔力結界を張った上で震える程だ。素の状態で食らったら、即死か。背筋を敵の操るものとは別の冷気が走る。ヘーリアンティアはようやく自分が途方もない存在を相手取っている事に気が付く。あれは、怪物だ。まるで冬の恐怖が具現した様な存在。

「長くは持たないわ。大きいのをもう一発よ」

 ここに至っても動揺の欠片も見せない第二夫人の声が響く。方術騎士が杖を構え、懐から触媒を取り出す。方術合戦ならば我慢比べとなる。防御に参加すべきだ。ヘーリアンティアはようやく己の為すべき役割を見出し、杖を構える。

 その時、白い視界の中おぼろげな姿の『冬狂鬼』が妙な動きをする。上半身を完全に背後を向く程に捻くり、右手を大きく振りかぶる。限界まで引き絞られた構えは攻城用投石機を想起させる。右手には、千切れた己の左手が握られている。

「投擲が来ます!」

 思わず声を張り上げる。近衛騎士エクエスが動く。盾を構え直すと共に方術を展開する。

『四層地術 鋼身』

 筋肉から内臓に至るまで、己の肉体に鋼の強靭さを付与する方術だ。

 『冬狂鬼』の姿がぶれる。おそらく左手を投げた。放たれた瞬間、空気の壁が破れ衝撃波が発生する。最早視認すら出来ない速度で飛来する。あまりに速い。避ける事など、到底不可能。

「やらせぬ」

 エクエスには見えていたのか? 恐れなど微塵も見せずに飛び込んで行く。

「ぬぅん!」

 気合一閃、盾を跳ね上げる。大砲の砲弾を金属製の城門に撃ち込んだ様な轟音が響く。軌道を逸らされた飛来物が木々を薙ぎ倒しながら斜め上空に向かって飛び去る。エクエスは吹き飛び、騎士達に受け止められる。屈強な騎士達がよろめく程の勢いだ。遅れて空気を引き裂く音が伝わる。

「上だ!」

 思わずエクエスを目で追っていたヘーリアンティアが上を向く。『冬狂鬼』は跳躍していた。皆咄嗟に反応出来ない。

「拙い」

 第二夫人が呟く。踊り込まれたら終わりだ。唯一反応出来た兄が迎撃の構えを取る。

『三層火術 火炎弾』

 方陣が拳大の火球を生成、『冬狂鬼』に向かって放つ。着弾。火球は爆発し『冬狂鬼』を炎で包む。

「前衛、囲んで!」

 『冬狂鬼』が木々を薙ぎ払いながら着地する。土埃が舞う。圧倒される程に大きい。膝を軽く曲げ、肩を落とした姿勢でスクァーマの二倍はある。白い枯れ木の様な体中に罅が入っているが、動きが鈍った様子もない。『火炎弾』も火力の大半は魔力障壁に阻まれたのだろう、煙を噴く身体には多少の焦げ痕が残るのみ。多少は押し戻した様だが、この位置は拙い。近過ぎる。明らかに結界内への侵入を許した。

 兄、エクエス、前衛担当騎士が素早く前進し、後衛とヘーリアンティアが下がる。その瞬間、『冬狂鬼』が異様に大きな口を開ける。肉片と血がこびり付いた黄ばんだ牙と赤黒い口内が覗く。

「あぁぁああぁぁぁぁあああ」

 名状し難い叫びが放たれる。人を狂乱へと誘う呪詛の声。魂の芯を舐め回すような声音が結界内部に響き、ヘーリアンティアの魔力障壁を貫く。瞬時に湧き上がる圧倒的な怖気が抑えられない。

「ぐぅ」

 呻き声が聞こえる。皆抵抗出来ていない。結界なしで長く聞けば確実に精神を破壊される!

「はぁっ!」

 ヘーリアンティアが萎えそうな気迫を振り絞り、内在魔力を放出する。ヘーリアンティアは幼い頃から魔力に優れていた。それは外部からの魔力による干渉に対して抵抗力が強い事を意味する。ここが術者の踏ん張り所だ。全身の魔力を活性化させ呪いを打ち払う。

『二層水術 水槍』

 碌に集中も出来ない状況で無理矢理に方術を放つ。発動に成功しただけでも幸運に過ぎる。水で出来た槍は狙い違わず『冬狂鬼』の顔面に向かって飛び、当たる直前で壁にぶつかった様に形を失い地に落ちる。『冬狂鬼』に水術は効かない。身に纏う魔力障壁で無効化されたのだ。この場での最善は地か風の槍を放つ事だった。咄嗟に使い慣れた水術を打ってしまった。だが、それで良い。

 『冬狂鬼』の注意が逸れ、狂乱の声が止まる。『冬狂鬼』は不思議なものでも見る様に、首を真横に傾げてヘーリアンティアを見下ろす。声は止めた。皆が立ち直る時間を稼がねば。ヘーリアンティアが今度こそ『土槍』を放とうと方陣を展開した時、

「目を見るなぁ!」

 兄の声。遅かった。傾げられた顔を覆う白髪の隙間から、死人の様に白濁した目が覗く。黒目がない眼球。まともに目が合った。

「か、はっ」

 迂闊に過ぎた。魔眼だ。魔術にとって目は重要な器官だ。古来より、術者は目に魔力を溜め、視線を介して様々な神秘を引き起こして来た。それを、無防備に見るとは。

 狂乱の声の数倍の怖気が奔る。呼吸が出来ない。目に映る全てが意味を為さない。

「結界を張り直して! 前衛、囲んで! 方術で支援!」

 第二夫人の緊迫した声。そんなものは初めて聞いた。だが、それが何を意味するのか? 思考が形を成さない。訳が分からない。視界を色のない光景が流れて行く。兄、エクエス、斥候騎士が方陣を展開する。第二夫人、結界担当騎士達が矢を射かける。

『四層火術 火炎剣』

『四層地術 鋼身』

『四層風術 風纏』

 斥候騎士が風を纏い、足場の悪さを物ともせず凄まじい速さで駆ける。『冬狂鬼』が迎え撃つ。矢が全て命中する。熟練の弓兵が方陣で強化された弓を撃てば、近距離なら並べた金属鎧五領を貫通する。それを複数受けてまるで動きが止まらない。顔を傾げたまま右腕の薙ぎ払い。体格が違い過ぎる。人間の間合いの遥か先からの攻撃。猛烈に速い。立ち木を粉砕しながら迫る剛腕を、斥候騎士が纏った風を操り高速で回避する。

 兄が間合いを詰める。魔力の炎を帯びた剣で腕を斬る。金属音と共に氷が溶ける様な音。斥候騎士が両腕それぞれに持った剣で敵の腕を跳ね上げる。その下を兄が更に踏み込む。胴体に一閃。『冬狂鬼』が仰け反る。「らあぁ!」下がった首筋に渾身の突き。金属音。兄の顔が驚愕に歪む。剣を牙で咥え止める『冬狂鬼』。氷が溶ける様な、肉が焦げる様な煙が昇る。『冬狂鬼』が右腕を振りかぶる。振り回す様な拳打。空気を切り裂く轟音。

 斥候騎士が動く。エクエスが拳打に割り込む。斥候騎士が両刀で腕を斬りつけ軌道を逸らす。エクエスが投擲でひしゃげた盾で受け流す。それでも吹き飛ぶ三人。炎を帯びた兄の剣が宙に舞う。方術騎士が方陣を描く。

『四層地術 土槍連』

 六本の土の槍が魔力障壁に減衰しながらも次々と突き刺さる。衝撃により陸に打ち上げられた魚の様に身体を震わせる。全て命中した。だが、次の瞬間には強力な魔力抵抗により土塊となって地に落ちる。射かけられる矢。腕の一振りで全て払われる。

「がぁ!」

 獣の様な気勢を上げて再び前衛が取り付く。兄が予備の剣を引き抜く。苦戦の色が濃い。

 それら、全てが遠い。痺れる様な、痛い様な冷気のうねりが体内を這い回る。支援をしなければ。その思考が行動に結び付かない。頭の中を一つの観念が埋め尽くそうとする。『飢え』だ。

 空腹だ。渇いた。満たしたい。満たさなければならない。第二夫人の、兄の、エクセスの喉元に喰らい付きたい。その為にはまず動きを止めなければ。殺さなければ。殺したい。

 頭を振る。原因は分かっている。『冬狂鬼病』だ。『冬狂鬼』がばら撒く呪いを受けた者は、精神の均衡を崩し食人衝動に駆られる。衝動に負けて食人を繰り返した者は、遂には『冬狂鬼』に成る。深刻な呪いだ。喰らいたい。ゲルマニカでも熱心に研究されている。書庫の文献によれば実際に『冬狂鬼』に成ったという信頼出来る記録は残っていない。半ばは迷信だ。真偽の程は確かではない。喰らいたい。落ち付け。準備として渡された『解呪』の秘薬を使えばよい。

 震える手で硝子の小瓶を取り出し、方陣が刻まれた封を破る。小瓶に封じられた太陽の力が光を放つ。小瓶の中身を頭から被る。

「うっ!」

 太陽の力を操る魔獣の素材と薬草類の粉末を清浄な湧水に溶かし込み、『解呪』の方陣で魔力に方向性を与えた秘薬だ。渦巻く呪いの冷気と太陽の温かい魔力が反発し合い、体内で冷温のまだらが暴れ回る。酷い感覚だ。温かい。寒い。熱い。冷たい。冷たい。食べたい。

「効果が……」

 慄然とする。呪いが強すぎて秘薬が打ち消された。一旦軽減された分、体内を奔る冷気が余計に酷く感じられる。喰らいたいな。こうなっては太陽術で解呪してもらうか、魔力を練って自力で抵抗するしかない。この局面では後者が最良だ。訳もなく愉しくなって来た。齧り付いちゃえ。

「あ、あぁ!」

 袖を捲り腕に噛み付く。歯が食い込み血の味が広がる。麗しき味わい。この状況で何をしている? 意味のない行動だ。拙い。思考を制御出来ない。今此処で自分が狂乱すれば全滅しかねない。何と愉しい事だろうか。支援どころの話ではない。自分で意識を絶たねば。その為の方法は、水術を兄に向けて打てばよいのだろうか?

「姫様!」

 結界担当騎士の悲痛な声。術者の集中を乱してどうする。これでは完全に足手まといだ。最初の獲物は彼でもよいか。考えている時間はない。喉を短刀で突けば失血で意識を失うだろう。おそらく死ぬだろうが、この局面では仕方がない。死にたくないなぁ。いや、死を恐れるな。貴族とは戦う者。誰かを生かす為に死ぬのが貴族だ。……理屈を捏ねて死を装飾しなければ、死ねもしないなんて。それが人間だ。ギルガメッシュだって死を恐れ不死の薬を求めた。所詮、弱く悲しい存在なのだ。怖い。死にたい。

「自分が解呪します!」

「今はそれどころではないわ。その内自分で何とかするから放って置きなさい。

 卿が対呪結界を解けば全滅するわよ」

「馬鹿な!

 秘薬が効かない様な呪いを受けて、自力で対処出来る人間など居る筈がない。

まして姫様は対呪訓練も受けていない少女なのですよ!」

 動揺させてどうする。早く死ななければ。分不相応な願いを抱いた愚か者の末路だ。死にたい。いや、やっぱり食べたいなぁ。奈落へ転がり落ちる閉塞感と天にも昇る高揚が交互に頭を貫く。狂う。狂ってしまう。

「あの子がそんな玉な訳がないでしょう。あれは常人の理解を超越した怪物よ。

 ヘーリアンティア、貴女も遊んでいないでそろそろ支援をしなさいな。今切羽詰まっているのよ」

 そうだ、言葉遊びをしている時間はない。死んでもいられない。支援。解呪出来ないのなら、このまま支援をしなければ。皆が、戦っている。敵を追跡する事には自分も賛意を表した。皆を死地に送り自分は後衛で震えている。これが大ゲルマニカの娘の姿か!

 震える手で杖を握る。唇を噛み締める。血の味。美味しい。

「はぁ!」

 杖を肩に立て掛け、腰に下げた短剣を抜く。思い切り突き刺す。

「お嬢様!」

 駆け寄ろうとする騎士を、右手で制する。再び杖を握る。短刀を刺した左腕が焼ける様に熱い。痺れるような激痛が走る。これでよい。痛みは強力な感覚だ。痛みに意識を集中させればとち狂った思考も多少は冴える。早く水術で有効打を与える方法を模索しなければ。

「ぐ……」

 膝が崩れる。想像以上に呪詛によって体力を消耗している。杖を、杖を放す訳にはいかない。杖を支えに何とか上体を起こす。眩暈を覚え、思わず目を閉じる。剣戟と爆音が響く。皆が戦っている。自分は一人、戦う事もままならない。無力を噛み締める。意思で抑え込んだ狂乱の情念が、薄皮一枚を隔てて渦を巻く。

 まさか自分がこれ程ものを知らないとは思わなかった。戦の呼吸も、連携も、本当の恐ろしさも知らない。死の恐怖も理解していない。美辞麗句で飾った己の心も、呪いの凶悪さも、抗いがたい狂気の衝動も知らない。その結果がこれだ。勝敗を確認せずして残心を解き、敵の反撃にうろたえ、見す見す呪いを受け、対処も出来ずに膝を付く。醜悪な程に弱い。

 それに比べて『冬狂鬼』の強大さはどうだ。人はあんな存在と肩を並べて大地に立っている。昨日までの自分は無邪気にそれが当たり前だと思っていた。馬鹿な、そんな認識はまやかしだ。あんなものに暴れられれば、人間など簡単に死ぬ。幸運だった。今まで生き永らえて来た事が幸運だ。そして、指で弾いた貨幣の裏表が引っくり返る様に、生死など気紛れに入れ替わる。まだ何一つ成し遂げていないのに、何もかも掌から零れ落ちようとする予感。死の気配。

 杖を握り締める。此処で、終われる筈がない。まだ見たい。学びたい。まだ見ぬ美しい世界の姿を残して、此処で朽ち果てる事など許せない。目を開ける。自然、空を見上げる格好になっていた事に気が付く。

 背の高い針葉樹の合間から空が見える。鮮やかな青。冷気と風が渦を巻く戦場から見上げても、空は変わらず美しかった。

 ふと、中天に座す太陽が目に映る。見上げる者を遍く祝福し、万象を焼き払う圧倒的な輝き。世界にこんなにも光が満ちている事に、今の今まで気が付かなかった。光の帯を放つ太陽は本当に母が好きな花にそっくりだ。ヘーリアンティアという名はあの花から採られている。太陽の様に正義と光輝をその魂に抱くように、と。あたたかな光で人々を照らすように、と。

 ならば、立ち上がれヘーリアンティア。お前は魂に太陽を宿すのだろう?

 その光輝で己の弱さを焼き尽くせ!


「ひ、姫様……?」 

 ヘーリアンティアがゆっくりと立ち上がる。膨大な太陽の要素が渦を巻き、空間に黄金の線が引かれて行く。四層の輝く方陣が描かれ、発動し、ヘーリアンティアは眩い光に包まれた。

『四層太陽術 解呪』

 対呪結界を張る騎士が驚愕に眼を見開く。光が消えた時、ヘーリアンティアの中で暴れる狂気の渦は消え去っていた。

 それにしても、世界は深い。何処にだって知らない事は転がっている。本当に、今の今まで気が付かなかった。世界にこんなにも太陽の要素が満ち溢れている事に。

 左手から止めどなく血が垂れ、身体は疲労で碌に動かないが、思考が冴える。大気と全身に満ちる魔力が鮮明に把握出来る。

 ウェネーが言っていた。方術士は未知を学んで己の殻を破る。古来、難戦の最中に位階を上げて障害をねじ伏せた術者の逸話は多い。つまりはそういう事だ。

「お待たせしました。随分と無様を晒してしまいましたね。

 貴重な経験でしたが、出来れば二度はしたくないものです」

「貴女、太陽方術の、しかも四階位なんて使えた筈がないわよね。土壇場で後天属性を発現して、呪いを受けた状態で初めての術式を行使して己を解呪するなんて……。

 本当に、貴女だけは敵に回したくないと心底から思うわ」

 呆れた様な顔で言う第二夫人に微笑む。

「方術士であれば、敵の術式を把握する為に一般的な方陣は頭に入れているものです。発動するかは賭けでしたが、感覚的には成功すると確信していましたよ。

 さて、後は彼を何とかしましょう」

 見れば、前衛達と『冬狂鬼』は一進一退の攻防を繰り返している。後衛の支援で何とか均衡を保つ危うい状態だ。『冬狂鬼』の身体には夥しい傷が刻まれ、矢が無数に突き刺さっているが、動きが鈍る様子もない。魔獣というものは本当に恐るべき存在だ。だが、戦線にヘーリアンティアが加わった事は重大な意味を持つ。

「ぬぅ!」

 前衛達が一旦間合いを取る。『冬狂鬼』が追撃に動く。

『二層太陽術 光槍』

 そこにヘーリアンティアの方術が命中する。光の槍は魔力障壁を貫き、当たった胴体に亀裂を入れる。砕けた破片が飛び散る。やはり属性に合った方術は威力が違う。時間もよい。太陽が中天に輝くこの時は、太陽方術が最大の力を発揮する。

続けて後衛から矢が飛ぶ。一本が目に刺さる。人間と同じ視覚を持つかも怪しいものだが、僅かに動きを止める効果は有った。前衛達が体制を整え躍り出す。

「大技を用意して。動きは私が止めるわ」

 ヘーリアンティアが牽制を受け持つ事で、第二夫人と方術騎士が牽制攻撃の輪から抜ける。方術士を自由に動かせる値千金の時間を稼ぐ事に成功したのだ。後は勝負を決める方術を打つだけだ。これ以上長引くのは拙い。ここで決めなければおそらく全滅する。こちらは一人でも倒れれば、均衡を失い一方的に押し切られる。

だが、生半可な術では倒せないだろう。相手は強力な魔力障壁に加えて鋼の様に硬く、蛇の様に柔軟に動く身体を持っている。大規模方術より貫通力の有る点の攻撃が望ましいが、攻城鎚を叩き込んでも砕けるかどうか……。そこで閃きが奔る。

「完全に固定して削岩錐で貫きましょう」

 第二夫人と方術騎士が、ヘーリアンティアの言葉を聞き頷く。即座に動き始める。

 第二夫人が弓を捨て騎士用の短杖を抜き、触媒の入った小瓶を取り出す。構えた短杖に魔力が収束し、小瓶から触媒の粉が浮き出す。其れは空中で黄色に輝く方陣を成し、世界を術者の思い描く通りに変革する。

『五層地術 植物狂騒』

 雪に覆われた大地から植物の根が噴き出し、『冬狂鬼』の足に絡み付く。根は足に触れた瞬間から凍り付き、直ぐに引き千切られる。絡み付く。千切られる。絡み付く。千切られる。

「むんっ!」

 夥しい根により僅かに動きが鈍った機を逃さず、前衛達が渾身の斬撃を放つ。兄の炎を帯びた剣が『冬狂鬼』の腕に直撃する。枯れ木を絶ち切った様な音が響き、遂に長い腕を両断する。『冬狂鬼』が平衡を失い上体を泳がせる。エクエスが更に踏み込む。ぶつかる様に膝へ剣を叩き込む。『冬狂鬼』が堪らず地に膝を着く。全方位から無数の植物の根が、枝が、蔓が殺到する。凍り付き砕ける側から巻き付く植物に徐々に押し負け、『冬狂鬼』が拘束される。間断なく凍った物を砕く音が響く。両腕を失った事も効いている。振り解けない。

 そこに駄目押しの矢が降り注ぐ。鍛えられた弓兵は、成人男性が百回脈を打つ間に二十数回の弓射が出来る。今の『冬狂鬼』は良い的だ。前衛達が飛び退く。時間稼ぎは十分。

 方術騎士が『巻物』を手に取り、縛っている紐を解く。魔獣の皮を加工したその皮紙には、特殊な染料で六つの方陣が描かれている。方術騎士が魔力を通すと巻物は灰になって崩れ落ち、空間に黄色い方陣だけが残される。杖を手に魔力を操る。方陣は両腕を広げた程の大きさになり、六層に重なる。図形が意味を成し、方術が発動する。

『六層方術 削岩螺旋錐』

 方陣の前に大地から黒い粉が集まる。鉄を抽出しているのだ。そこに触媒として特殊な加工を施した木炭が混ざり込む。其れらは融け合い形を成し、一抱えもある鋼の錐を形作る。錐には螺旋に溝が彫られ、先端が刃の様に鋭い。

 錐が高速で回転する。魔力の性質を利用し、互いに反発させ回転力を造り出す。発射。錐が『冬狂鬼』の胴体に直撃し、回転しながら尚も突き刺さって行く。『冬狂鬼』の身体が激しく揺れ、拘束する植物が千切れ飛ぶ。『冬狂鬼』が形容し難い声を上げる。効いている。

 本来は土木工事などにおいて障害物を砕く時に使う方術だ。戦闘においては使い勝手が悪い。重さのない敵は貫く前に回転力で吹き飛ばしてしまい、動き回る敵に当てても角度がずれると錐が流れて殺傷能力が十分に発揮出来ない。その上に錐自体の成形も難しく、上手く触媒を混ぜて鋼の柔らかい部分と硬い部分を編み込まないと、金属疲労と摩擦熱で刃が直ぐに駄目になる。効果的に使える状況が非常に限定される上に習得が難しい術式なのだ。その欠点の多さから方術騎士も学んでいなかったのだろう。六層方術は戦局を一変し得る。時間を掛けて学ぶのなら汎用性の有る術を選択したいのが当然の考えだ。

 そこで貴重な『巻物』を消費しての発動となった。『巻物』は属性と技量を満たしてさえいれば、修めていない方術を発動できる数少ない手段の一つだ。希少な素材を用いる上に、保存したい方術を使える術者が時間を掛けて作成する為非常に高価な魔導器となる。六層方術ともなれば尚の事だ。しかも術式の構成は作成した術者の技量に依存する。高位の術者による『巻物』は宝石よりも貴重なのだ。だが、それを使っただけの価値は有った。

 回転する錐が胴体に食い込む。硬質な物体を切削する音と共に、白い木片の様な、氷の様な『冬狂鬼』の破片が飛び散る。

「ごぁああぁあぁああ」

 悲鳴。いや、肺から空気が漏れる音か? その意味を成さない声によって対呪結界が軋む。『冬狂鬼』は、ただ声を出すだけで敵を呪う事が出来るという事だ。存在の次元が違い過ぎる。だが、こうなってしまえば終わりの筈。第二夫人の操る植物が『冬狂鬼』の顔に巻き付く。口を塞ぎ、厄介な声を封じるつもりだろう。

錐は徐々に深く刺さり込んで行く。戦闘開始から方術を連発している方術騎士にも疲労の色が濃いが、『冬狂鬼』を貫くまでは持ちそうだ。油断はしない。先ほどの轍は踏まないが、終わりは近い。遂に錐が『冬狂鬼』を貫く。人間でいう臍からわき腹に掛けてをごっそりと抉って、錐が飛び抜ける。腹部を半分以上失って平気な存在など在る筈がない。拘束された『冬狂鬼』の巨体が揺らぐ。


「やったか……?」

 魔力を限界まで放出したのだろう、方術騎士が膝を着く。こちらの消耗も深刻だ。小隊の活動限界とは即ち、方術士が力を使い果たした時なのだ。これ以上の戦闘行為は危うい。どうか、動かないで。

 その想いも虚しく、『冬狂鬼』を中心に冷気を帯びた風が爆発する。植物が吹き飛ぶ。拘束を解いた『冬狂鬼』が異様に大きな口を開ける。

「――――」

 最早、人間の耳では聞き取る事が出来ない音が響く。一瞬で対呪結界が吹き飛ぶ。

「がぁ!」

「おぉ!」

 これは断末魔の悲鳴だ。滅び逝く『冬狂鬼』の怨嗟の声をまともに受け、皆が苦悶の声を上げる。今までとは段違いの魔力が籠っている。ここに至って、相手は己の存在を捨てて来た。その証拠に『冬狂鬼』の身体に走る亀裂が一瞬毎に大きくなる。術者の集中が乱され、風と水の結界も掻き消える。視界が白く霞み、強烈な冷気と風が周りを包む。

 『冬狂鬼』が獲物を飲み込む蛇の様に大きく口を開く。ミキリ、と筋が軋む音が聞こえ、口の奥に凶悪な量の魔力が収束する。冷気と風を収束して放つつもりだ。結界のない状態であれを食らえば人間など粉々になる。

 皆動けない。自分が何とかするしかない。ヘーリアンティアは荒れ狂う狂気の衝動を受けながら冷静に判断する。杖を構え、準備していた方陣を発動する。

『二層太陽術 光槍』

 風と冷気の収束砲が放たれんとする瞬間、『光槍』が『冬狂鬼』の顔面に直撃する。上体が揺らぐ。僅かに射線がずれ、頭上を途方もない魔力の渦が通り抜ける。余波でヘーリアンティアの長い金髪が舞う。風の魔力で発生した小規模な真空刃で頬が切れる。

 駄目だ。一旦は凌いだが、『光槍』では決定打にならない。『冬狂鬼』は次の攻撃の為にもう動き始めている。再び風と冷気が収束する。

『光槍』では足りない。更に上の階位の術を使うしかない。本来方術とは長い年月を掛けて修めるものだ。ぶっつけ本番で新たな術式を放つなど正気の沙汰ではない。

 瞬き一つで覚悟を決める。戦場の流れと狂気に身を委ねる。

 集中する。実戦の空気と緊張をも味方に付けて精神を研ぎ澄ませる。己の中に深く深く沈降する。方陣とは即ち森羅万象の縮図だ。己の中に蓄えられた世界の運行を組み合わせ、眼前の敵を打倒し得る現象を図形として表現する。

 しくじれば自分も皆も死ぬ。依然として死ぬのは恐い。だが、『冬狂鬼』は死を覚悟して捨て身の攻撃を放って来る。死を賭して来る相手を迎え撃つには、己も命を賭けなければならない。スクァーマの言う通りだ、何かをなす為には何かを捨てる覚悟をしなければならぬ。皆も命を懸けて戦線を支えた。今度は自分の番だ。その事を教えてくれた眼前の強者に感謝と敬意を捧ぐ。

 方術の教書で何度も見た方陣を描く。周囲に満ちる太陽の要素を集める。この方術は貫通力が弱い。『冬狂鬼』の魔力障壁を貫く為、ひたすらに魔力を収束する。頬の傷から流れる血を無視し、割れる様な頭痛を堪えて、己の全てを、魂を注ぎ込む。

『三層太陽術 光弾』

 持てる力全てを注ぎ込んだ輝く球体が形を成す。大きい。一般的な術者が打てば拳大の大きさが精々だが、ヘーリアンティアが構成したそれは一抱えもある。間に合うか? 放つ。

 再び収束砲を放とうとする『冬狂鬼』に『光弾』が飛ぶ。魔力障壁にぶつかる。最早指の一本も動かせないヘーリアンティアは祈る様にそれを見る。貫け!

 『光弾』は目標に着弾後、熱と光、太陽の要素を炸裂させる術式だ。内包する力の総量は大きいが貫通力はない為、障壁で防がれれば拡散した力が壁の上を舐めるだけで終わる。兄の『火炎弾』がそうだった。だが、障壁を貫けば。

 『光弾』が殆ど減衰せずに魔力障壁を貫く。狙いは一点、胴体に空いた大穴。狙い違わず腹に着弾する。爆発。光の渦が『冬狂鬼』を包み、荒れ狂う太陽の魔力が体表の無数の傷と腹の大穴から内部に浸透、内側から『冬狂鬼』を焼き溶かす。

『冬狂鬼』の口に収束していた風と水の要素が制御を失い暴れ回る。一際激しい吹雪が吹き抜け、身じろぎも出来ずに其れを受ける。痛い様な冷気だ。雪が入らないよう閉じた瞼を恐る恐る開ける。

 『冬狂鬼』は、まだ立っている。駄目か? 敗れた、か。

 氷が砕ける様な音を立てて、『冬狂鬼』の胸に亀裂が走る。

 亀裂は四方に伸びて、『冬狂鬼』の身体が砕けて行く。片足が粉々になり、地に跪く。辺りを覆っていた風と水の魔力が急速に薄れる。最後にヘーリアンティアの方を不思議そうに見た後、『冬狂鬼』は地に伏した。『冬狂鬼』の身体を構成していた要素が結合を失い、空気に溶ける様に消えて行く。

 勝った。ありがとう『冬狂鬼』、あなたと戦えた事を誇りに思う。皆は、無事だろうか?

 最早見届ける事も出来ずに、ヘーリアンティアは意識を失う。最後、倒れ行く自分を誰かの手が抱き留めた。

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