第7話お嬢様と老人7
この地方は不自然に雪が多い。地理的にはこれ程の雪が降る筈がないと考えられているのだが、実際には毎年北方もかくやという積雪が記録される。これは近隣で最大最古の迷宮『水晶山脈』の影響だろうと言われている。一年を通してあらゆるものが凍りついたその迷宮は、冬場に異常に強力な水の魔力を帯び、地方の天候まで変えてしまうのだ。
この迷宮を打倒する事はゲルマニカ家が始まって以来の悲願なのだが、あまりに広大な構造に加えて強力な魔獣が徘徊する事から、攻略は牛の歩みの様な進行に留まっていた。攻略が進まない迷宮にありがちな、様々な理由から冒険者に敬遠される類という訳ではない。むしろ、冷蔵用の魔導器に加工可能な強力な冷気の力を帯びた素材を魔獣が残す為、近隣の名の有る冒険者達は此処の攻略を主軸に生活している。しかし、それは冬以外の話だ。
水の力の弱い夏場などは各地から冒険者達が集い、盛んに魔獣狩りに出向くのだが、報奨金目当ての極めつけの命知らず以外は冬場に此処を攻略する冒険者は皆無だった。騎士団の猛者達も、冬の間は偵察と弱い魔獣を狩るに留まり、結果として迷宮に回復の時間を与えてしまう。この様な現状維持と半歩前進を繰り返しながら千年以上の時が経っているのだ。人類にとって、迷宮との戦いは想像を絶する長期戦と言える。
ともあれ非常な積雪の為に、冬場は皆不必要な外出をしない。市井の者は、重みで家が潰れてしまわないように屋根の上の雪払いながら、秋の間に仕込んだ保存食を食べ、内職をして過ごす。
勿論、冬場も魔獣討伐に精を出す冒険者や、家々を回って商売を行う行商人も居るし、農夫も畑の様子を見ながら麦踏みなどの世話をする必要が有る。その為には道の要所に積もった雪を掻かなければ移動もままならない。これは街の男衆全員が、同業組合などの組織ごとに持ち回りでやる事になる。騎士団も訓練を兼ねてやっているが、体力的に非常にきつい仕事らしい。
ヘーリアンティアも毎年降り始めは物珍しくて、雪で像を作ったり、専門の訓練を施した犬に引かせたソリに乗せてもらったりするのだが、毎日振り続ける雪に次第に興味を失い、城に篭りがちになるのが常だった。父や母や上の兄もこの時期は出不精で、ゲルマニカ家は外出の必要がなければ嬉々として書庫に篭る人間が多い様だ。
例外が第二夫人と下の兄で、彼らは武人の気風を強く持つ為に狩りを好んだ。
狩りというと裕福な貴族の道楽という印象が強いが、これはこれで立派な軍事訓練なのだ。猟犬に獲物を探させ、騎士を動員して追い込み主人が弓で仕留める。獲物は野鳥や狐に限らず冬眠しない種の魔獣も含まれる。むしろ、領の安全確保の為には魔獣こそ本命であるとも言えた。
ヘーリアンティアはさほど狩りが好きという訳でもなかったが、「冒険者に成るのならば、狩りの経験も役に立つだろう」などと言われて参加してみる事にした。ただし、ヘーリアンティアは弓が下手な上に碌に練習していないので、殆ど見学の様なものだ。
狐相手に一矢射ってみたが、まるで見当外れの所に飛んで行ったのは流石に悲しかった。その狐は、矢の軌道を見るや電光石火で放たれた兄の弓に仕留められてヘーリアンティアの襟巻きになった。熟練者になれば、射掛けた瞬間の軌道を見るだけで当たるかどうか分るのだろう。かなり条件は悪かった筈なのに、毛皮の良い部分に傷をつけない弓射は流石の一言だ。
「……ヘーリ、その、欠点も愛嬌だとは思う。思うのだが、幾らなんでも下手糞過ぎる。
貴族の嗜みとしてもう少し練習したらどうだ?」
「……そうね。名高いゲルマニカの姫がこれではいけないわ。
教えてあげるからこれからも付いて来なさいな」
「はい……」
そんな訳で毎回参加する事になったのだが、ヘーリアンティアの弓は残念ながらあまり上達しなかった。練習不足も有るのだろうが、あまり適正もなさそうだ。
それでも何匹かの獲物を仕留める事は出来た。夕食で自分の射た鴨を出してもらったのだが、確かに苦労した分の感動が有り味わい深かった。狩りを好む者の気持ちも分かろうというものだ。獲物を求めて野外を彷徨うのは良い運動になるし、獲物の追跡方法や追い詰め方なども教わった。
こういった斥候技能は冒険者の小隊には必須で、専門家には敵わないにせよ知っておくべき技術だ。騎士団の斥候担当者は経験豊富な男で、様々な痕跡から獲物の種類や大きさ、数、経過した日数を推し測る方法を教えてくれた。経験が問われる技能でありそう簡単に身に付くものでもないだろうが、練習するに越した事はない。狩りというのも中々勉強になるものだった。
日々の暮らしの中でこれまでと違うのは、幻獣のお玉杓子の世話をして桶の水を凍らせないように気を付けた事位だ。しかし、日に日に大きくなり胴体がヘーリアンティアの掌程もあるお玉杓子は、どうやら自分で水温を調整出来る様だった。
幻獣は人間と違い方陣を描かずに魔力を操り、現象を操作する。有名な例を挙げれば、竜が吹く火の吐息や一角獣の癒しの力がそれだ。この現象操作の能力は大昔から方術士の研究対象となっており、方術で幻獣の能力を擬似的に再現したという方術も多い。
「この気温を操作する能力は割合多くの幻獣が持っている様です。
幻獣というものは環境に適応するのではなく、環境そのものを変えてしまう能力をこんな小さな頃から持っているという事ですね。
非常に強靭な生き物と言えます」
ウェネーが厨房から調達してきた蕪の切れ端を、お玉杓子の前で振りながら言う。お玉杓子はウェネーの持つ蕪に喜んで食い付くとそのまま飲み込んでしまう。老人の言った通り何でも食べるのだが、塩のやり過ぎが心配で塩漬けした保存食はなるべく食べさせないように気を付けていた。
「そう言えば、この子の名前は決めたのですか?」
ウェネーが頭をつついても、お玉杓子はされるがままで水面を泳いでいる。餌付けが上手くいっているのか、あまり人を警戒した様子を見せない。
「しっくりする名前が思いつかなくてしばらく書庫を漁っていたのですが、ヘキトなんてどうですか?」
ウェネーが顎に手を当てる。
「確か、南方の女神の名前でしたか?
蛙族の姿で描かれ、多産と復活を司るのでしたっけ?」
「流石によく知っていますね。
呼び易くヘキちゃんなんてどうかと思うのですが」
「良いのではないでしょうか?
些か大仰にも思いますが、幻獣は成長と共に姿を変えるものもいると云います。
案外、本当に竜の子供だったりするかもしれませんよ」
ウェネーが冗談めかして言う。
「竜にまで成長する頃には私はお婆さんになっているでしょうけどね。
あなたの名前はこれからヘキだよ。分かった?」
ヘーリアンティアが指先で頭を撫でると、お玉杓子はまるで理解したかの様に大きく口を開いた。
そうして、狩りに出る時やヘキの為に冬眠中の昆虫を捕まえる以外は、ほとんど城の中で座学や方術の訓練に打ち込んで過ごした。
たまに外出する父や兄について外に出た時に、老人の所に寄ってみた事も有るが、老人の露店は見当たらなかった。おそらく冬の間は露店を片付けて家に篭っているのだろう。雪が積もれば潰れてしまいそうな店だから当然だと思える。
老人の体調は心配だが、何処に住んで居るのかも分からない為どうにもならない。住所どころか、名前さえ何度聞いても教えてくれなかったのだ。
風来坊というのはそういうものなのか、何か後ろ暗い事が有って名前を言えないのか。あまり詮索するのもよくないかも知れないが、気になるものは気になる。随分仲良くなったが、老人はまだ謎の多い不思議な人物だった。
一度、ゲルマニカと直接の契約を結んで働いて貰っている冒険者に、老人の事を聞いた事が有る。当然名の知れた人物なのだろうという前提で話したのだが、これが全く知らないと言う。どうやら老人はこの街の冒険者組合には所属しておらず、それどころか顔を出した事すらないらしい。若輩のお節介として、組合で家を聞いて一度訪ねてみようと思ったのがご破算だ。
冒険者組合というものは、記録に残っている限りでは人類最古の同業組合と言える。冒険者という生業自体が人の黎明から存在する上に、強大な魔獣と戦う為にはどうしたって人手が要る。共に闘う冒険者達はいつしか連帯し、お互いの利益や生活を保証し合う様になった。有名なバベルの塔が記述された太陽崇拝者の聖典には既に、冒険者組合と思しきものについて記された箇所が有る。ギルガメッシュが生きた時代にはもう原型が在ったのかもしれない。商人達の組合や手工業の組合よりも遥かに古いと言える。
何千年も前に成立しただけあり、冒険者組合はおよそありとあらゆる土地に存在すると云われている。老人の話でも、マルコ=ポーロなどの記述でも、行った土地全てに似た様な組織が在ったという事だ。
各地の組合は緩やかな結束の元に魔獣と戦い、迷宮を攻略する為に協力し合う。他にも郵便、教育、傭兵、金融など様々な役割を担っており、この意味では教会に近いものがある。近いからこそ、両組織はよく対立もするのだが。
この街に在る組合は、ゲルマニカ領一帯に点在する組合を束ねる一際古く大きなもので、『腸詰と麦酒亭』と呼ばれている。通俗的な名にみえてその実、腸詰が財宝の入った袋を、麦酒がそれを手に入れる為の血を象徴する、などという様な奥深い意味は全く無くて、単なる酒場の屋号だ。初期の組合というものは冒険者達がたむろする場所から発生しがちな為に、こういった屋号を由来とする名前が多い。
ゲルマニカ中の組合は『黄金の麦酒亭』傘下という訳で、同組織で一定の実績の有る者は同じ組合内なら何処でも概ね同じ待遇が得られる。それが更に国を同じくした領に在る違う組合同士で繋がり、更に国を違えた組合同士で繋がる事で、理屈の上では世界の果てまで同じ待遇で旅する事が出来る。老人が言うには、国交断絶やら組合同士の対立やらで、そんなに上手くは行かないらしいけれど。
しかし、あらゆる国と信条を越えて団結した上で迷宮を滅ぼすべし、という冒険者の根本理念は確かに生きており、組合同士はその所在、信仰の如何に関わらずに基本的には協力し合う。異教徒同士は当然争い合い、信仰を同じくしても教派同士で泥沼の権力闘争を展開する教会とは此処が違う。老人は単純に、引き籠ってお祈りをしている者と血を見る者の差だと言っていたが、ここらは考え始めると奥が深い。ややこしい歴史的背景やら何やらが有る為、一概には言い様がないだろう。
つまり、冒険者組合と言うものは非常に広い情報網を持っており、高名な冒険者は国を越えて名声が響き渡る。スクァーマもゲルマニカではあまり活動していなかったらしいが、この街の冒険者はおろか、騎士達にさえ一目も二目も置かれている。命を賭した稼業なのだ、彼らはそういった事柄にたいする耳が非常早い。無論、名声には虚偽も不正も付き物だが、図抜けて腕が立つと言われる者は話し半分でも優れた実力は保証される。そんな中で老人が無名なのが不思議なのだ。
「この街の出ではないと言っていましたし、引退されて長いらしいですが……。
東方に到達する程の冒険者であれば、何らかの形で知られているのではないですか?」
ゲルマニカ直属の壮年の冒険者は、髭も生えない時分から迷宮に潜っていたという強者だ。経験の分だけ斯界の事情にも通じている。
「姫さんよ、冒険者ってもんは剣を腰にぶら下げれば誰でも名乗れる肩書だ。
勢い、逃亡者やら犯罪者、ややこしい事情を抱えた面倒な連中も掃いて捨てる程に居る。あんまり詮索しないのが嗜みってもんさ。
それでもあえて言えば、思い当たる噂は幾つかある。だが、俺とは世代が違うからな。
古老の昔語りでそれらしい話も聞いた事が有るという位さ」
「なるほど。
暇を持て余しているなどと言っていたものですから、ご同業同士で茶飲み話でもすればよいと思うのですがねえ。
かなり高齢な様子ですから、組合に滞在した方が何かと具合も良い筈なのですが」
「群れるのが嫌いな奴もいるものさ。
あるいは、組合を止めたか、そもそも所属していなかったのかもな」
「え、冒険者というものは、組合に所属せずとも出来るのですか?」
「あまり賢い選択とは言えないがな。
何せ、免税特権が受けられないんだ、金が掛かって仕方がない。
魔獣を倒しても、収集した素材を売るのに難儀する事もあるだろうな。挙句に怪我でもしたら終わりだ。
だが世の中には、組織に所属するなら死んだ方がましって奴も確かに居る。
あるいは、直接金持ちやら貴族に雇われていたのかもな。そいつらの権力によっては通行税やらを免除して貰えたりもする。領主さんに雇われている今の俺がそうさ」
「確か、わしは他人の出した食事なんて食べた事がない、などと言っていました」
パイプを噴かしながら話す老人一流の調子を真似て言う。壮年の冒険者が噴き出す。
「洒落たじいさんじゃないか。
俺も孫にそんな事を語って聞かせる身分に成りたいものだよ。
まあ、優れた冒険者なら、どこにも所属しなくても例外的に税を免除される事もある。駆け出しを乗り切りゃあ、一匹狼でも何とかなる。腕一本で凌げるのが冒険者の良いところだ。
さ、じいさんが心配なのは分るが、詮索はここまでにしてやりな。
姫さんだって冒険者に成った後に素性にあれこれ言われるのは面倒だろう?
同じ事さ」
「仰る通りですね。色々と動いて頂いて、ありがとうございました」
「うむ。――それで、例の件は?」
不意に冒険者が真剣な面持ちになる。精悍な戦士の顔だ。
「その前に、今一度確認をさせて頂きますよ。
一つ、私は紹介はすれども何ら便宜は図りません。また、彼女には命令でない事を強調します。己の器量で上手くやって下さい。
一つ、彼女に配偶者、許嫁、良い人の無い事は口頭で確認しましたが、秘めたる想いまでは確認の仕様がなく、またするつもりもありません。如何なる状況であろうとも、強引な解決を図らずに穏便に行動する事。
一つ、如何なる状況に遭ってもお互いの立場と想いを考慮し、彼女を悲しませる結果に終わる事がないよう、最大限に努力する事。
以上です。相違ありませんね?」
「うむ」
「これは貸しですが、一つお知らせする事が。
彼女は貨幣契約で家の傘下に居る騎士の二女です。土地持ち騎士の娘よりは結婚に対して自由な身分と言えるでしょう。
器量と聡明さを見込まれ、諸々の思惑の下に侍女として送り込まれた様ですね。
奥向きの評判もまずは上々、言い寄る若手騎士をあしらう姿を見たという話も有り、身持ちの固さが窺えます。優良株ですね。
僭越ながら、勝負をかけるのならば今この時かと愚考します」
冒険者が大仰に額に手を当て、口元を歪める。
「全く、姫さんに借りを作るなんざ、恐ろしくて夜も寝れねぇな。
だが感謝する。
さ、彼女に逢引のお誘いをさせてくれ。
俺も良いところを見せたいからな。
一緒に『子鬼』でもつつきに行きたいと思っているのだが」
「……繰り返しますが、彼女の意思には一切関与しませんからね。
ともあれ御武運を。
では、彼女を呼ぶとしましょうか」
他にこの冬の出来事を挙げるなら、ウェネーが雪や氷を利用する方術を教えてくれた事だろう。
冬という季節は水の要素が強く、水術士が操る水が姿を変えて至る所に在る。環境にも左右されるが、戦いにおいては非常に有利な時期とされる。一度、辺り一面の雪を集めて人の十倍ほどの『雪人形』を創って見せてくれたのには本当に驚いた。
北の地方の水術士はこういった技術に優れ、ウェネーも北方出身の教会時代の友人に教わったらしい。高位の方術には限定的に天候を操作し、こういった自分に有利な環境を創るものすら有るという。一流の方術士とは、時として一人で軍の戦術級の働きをする存在なのだ。
ウェネーなどは、水の力が満ちている場所で眩暈がするほどに高価な触媒を使えば八層水術を打てるらしい。一発打てば家財を使い尽くすなどと言っていたが、これは彼女の年齢を考えれば驚異的な実力で、国家規模でもそう何人も居ない階梯の方術士だ。これ程の力が有ればあらゆる国や組織から引く手数多の筈で、国王の子息級の人物の方術教師をしていても何の不思議も無い。ゲルマニカ家も相当な名家だが、彼女の様な方術士を家庭教師に就けてくれた父には感謝してもし切れなかった。
一方、ヘーリアンティアは何とか五層水術を打てなくもない、位の実力だった。先天属性ではない地と風の方術ではもっと階位が下がる。年齢の割には達者、と言うよりは神童と言って良い程の才能だと褒められたのだが、ウェネーの実力が高すぎて全く実感が湧かなかった。
彼女が言っていた四つの要素の内、知識だけならそう負けてもいない様だ。これは溢れるほどの書物が有る環境のお陰だろう。しかし他の三つ、感性も構成力も魔力も次元が違い過ぎる。どれ位差が有るのか分かるのは差が小さい場合で、ウェネーとはどれ程差があるのかよく分からないほどに実力が離れている。
感性は数多の方陣を見て図形的な法則性を身体に刻む事で、構成力は瞑想などの精神的な訓練で、魔力は放出と吸収を繰り返す事で鍛えられるらしい。だが、果たして自分がウェネーの年齢に達した時、彼女と同じ階梯に立つ事が出来るかは甚だ疑問だった。
そういった思うところをウェネーに相談してみると、
「お嬢様は今心身共に非常に大きく成長される時期です。
よく言えば思慮深い、悪く言えばやけに分別臭いせいで私も忘れそうになりますが、お嬢様はまだ成人もされていませんからね。
精神の成長と共に構想力は大きく伸びる余地が有るでしょう。
魔力も非常に個人差が大きいですが、まだまだ伸びると感じます。お嬢様は現状でも一般的な方術士より内在魔力が多いですから、末恐ろしいですね。
正直に申しまして、三年後の貴女とは絶対に術比べをしたくありません」
「褒めてくれるのは嬉しいのですが、どうも最近魔力の伸びが止まった様な気がするのですよ。
ここが限界だと些か困るのですが……」
ウェネーが少し驚いた顔をする。
「単純に成長が止まった可能性もないとは言いませんが、まず違いますね。それはむしろ良い兆しです。
伸び続ける魔力に制御が追い付かなくなり、身体が魔力を蓄える事を拒んでいるのです。才の有る者に稀に起こる現象ですね。今後、何かの切っ掛けで一気に伸びますよ。
本当に、貴女は隔絶している」
ウェネーは言葉を切って顎に手を当てる。
「問題は感性でしょうね。
こればかりは才を測り難く、どの程度のものになるか見通せません。
現状でも他の部分が成長すれば六層方術は打てると思いますが、ここから階位を上げのが難しいのです。
方術士以外でも教育を受ければ三層四層程度を打てる者は居ます。彼らと我々専業方術士を分ける壁が感性であると思って頂いても差し支えありません。
そして専業方術士においても、六層術者とそれ以上とを分ける壁が感性と言えます。
例えば叙事詩などでよく、実戦の最中に新たな方術を創り出して苦難を乗り越える方術士がいるでしょう?」
「いますねえ。
物語としては盛り上がりますけれど、あんな事有り得ないでしょう?」
「ところがそうでもないのです。
どういった分野であれ感性というものは、言わば才の根幹ですからね。
状況に応じて方陣を改変し、最適化された方術を放つ。
強敵を打ち破る為に行使した事のない方術を放つ。
感性に優れた術者が命を賭けた状況で集中を深めれば、往々にしてそういった奇跡が起こるのです。
どうやら、土壇場における人間の集中力というものには限界がないらしい。
心的動揺を抑える事さえ出来れば、実戦において数段上の階位の力を引き出す事も可能なのでしょう。
大前提として、その階位に達し得る感性を持つ者に限られますがね」
「何だか本当に物語の様な話ですね。
ウェネーはいつ八層方術を使えるようになったのですか?」
「修道院で過ごして成人した後ですよ。
使えると言っても必要に迫られ、修道院中の触媒を掻き集めて一発打ったきりです。
死ぬよりはましとはいえ、備蓄を使い果たしましたからあの後は大変だったでしょうね。
私は直後にゲルマニカ公に拾って頂き、此処に来ましたから他人事ではあるのですが」
淡々と言うウェネーに思わず引き攣った笑いを浮かべる。やはり肝心なところで強かな女性だ。
「一体どういう状況だったのですか?」
「申し訳ないですが、少々込み入った事情が有ってお話出来ないのです。
世の中には関係者一同が墓の下に持って行かなければならない話もあるという事ですよ。
碌な事情ではないのですがね」
ウェネーが渋い表情をする。冷静に考えれば、ウェネー程の方術士が家庭教師などをしているのも不自然な話だ。他の国でとんでもない事でもやらかして逃げて来たのだろうか? 深くは追求しない方がよさそうだ。
「私もその位の年齢になれば、少しはウェネーの背中も見えているでしょうか?」
「私は成人した後のお嬢様と打ち合う気は全く起こりませんね。私にだって師としての矜持が有るのです。
まあ、それも先の話ですね。
お嬢様は現状のまま修練しても、直ぐに六層までは打てようになるでしょう。
治療方術士に成るには十分な能力をお持ちですし、六層方術を完璧に使いこなせば方術士としても一人前と言えます。
先ずは六層水術『転移』の習得を目指すのが良いと思います。
『転移』とはローマの遺産である『門』を使って空間を渡る、ローマ崩壊後の方術史上最大の発明と呼ばれる術式だ。
文献によればローマの時代には方術を使えない者でも『門』を潜れば転移出来た様だが、門の起動方法が失伝してしまっているのだ。そこで考え出されたのがこの方術で、制限は有るが自分と仲間や荷物を転移させる事が出来る。『門』が有る場所同士しか転移出来ないが、転移先の情報を『門』に頼る為転移事故がほぼ起きないという利点がある。
この方術を習得した方術士は転移を仕事にするだけで一生を裕福に暮らせる為、方術を学ぶ者全ての目標の一つと言える。市井の人間にとっては安全で高収入な転移方術士は憧れの職業で、これを目指して子供に方術を学ばせる親も多いという。その為、『転移』の術式が無い火属性の子供が生まれたらがっかりしたりもする様だ。
「確かに『転移』を使えるようになれば行動範囲は大きく変わりますね。今の内に習得すればこの街の門を覚える事が出来ますし」
非常に便利な『転移』だが、行った事の無い門には移動できない。また、『転移』の方術を習得しなければ門の情報を理解できない為、門を覚える事も出来ない。源流をローマの時代まで遡ることが出来るこの街にも門が有るので、治療方術を学びに行く前に習得出来れば簡単に帰って来る事が出来るようになる。仮に技量が足りなくて、触媒の力を借りなければ発動出来ない様では若干高くつくかも知れないが、魔獣の出没する街道を護衛を雇って移動するよりは安全で早い。
「ゲルマニカ公も『転移』を覚えれば安心してお嬢様を送り出されるでしょうし、区切りとしても丁度良いのではないでしょうか?
私もそれなりの門を覚えていますので、それもお伝えできます」
「まるで卒業試験ですね」
ウェネーも言った様に、方術士は伝統的に六層方術を修めて初めて一人前と見なされる。そして、その階梯に達する者は少ない。十人の才有る子供を集めて学ばせても、六層を打てるようになるのは一人か二人だと言われており、それとて十年以上の研鑽が必要な者が多い。
一人前と認められた方術士は師の下を離れ国に仕官する道が開け、更なる英知を探求する為に自分の研究室を開く者もいる。貴族や富豪など社会的地位の高い者にも『方術士殿』と呼ばれて尊重されるようになり、研究の為の出資を願う事も可能になる。五層以下の術者では「書生風情が」と侍従に追い返されるのが関の山だが、六層術者ならば当主も無碍には扱わない。言うならば社会的に能力を認められるのだ。
例えば五層を完璧に使いこなす術者とかろうじて六層を打てるだけの術者を比べて、後者が総合的に優れている保障は全くないのだが、慣習として六層方術が方術士とそれ以外の者を分ける壁になっている。それは結局『転移』が使えるかどうかが一つの指針になっているからだ。故に、師が弟子に出す最後の課題も『転移』となる場合が多いらしい。首尾よく『転移』を身に付けた弟子は、師が知る門を教わって学生を卒業する事になる。
「お嬢様の教育係を任され数年、まさかこんなに早く卒業の話をする事になるとは思いもしませんでした。
あなたは確かに稀有な才を持っておられる。自信を持って学ばれれば良いのです」
ウェネーが姉が妹を諭す様に優しい調子で言う。彼女程の方術士にそう言われれば悩んでいた気持ちも晴れる。
「ありがとうございます。でも、ウェネーの教え方が良かったのですよ。
早く『転移』を習得してそれを証明して見せますよ」
元気良く言うヘーリアンティアを見て、ウェネーは微笑んだ。
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