第4話お嬢様と老人4

 冒険者として生きて行くのならば、方術と同様に白兵技能の訓練も行わなければならない。

 元よりヘーリアンティアも貴族子弟の嗜みとして杖術などは学んでいたが、あくまで嗜み程度のお稽古杖術であり、精々が狼藉者相手の護身を想定した程度だった。人を遥かに超越する魔獣との実戦には到底耐えるものではない。これはスクァーマが元冒険者の視点から見てくれる事になった。

 ゲルマニカ騎士団の猛者達を抑えて客分の彼が選ばれたのは、長い冒険者としての実績と、何よりその技量を買われての事だった。『緑鱗のスクァーマ』と言えば、人の十倍もある大きさの魔獣を一太刀で切り伏せる剛剣の使い手として、音に聞こえた冒険者なのだ。

「お嬢、あんたら方術士は後衛に控え前衛を支援し、機を見て方術をぶっ放すのが仕事だ。

 群がる敵を押し留め、切り払うのは前衛の荒くれ者に任せればよい。

 間違っても自分の杖で魔獣を殴ろうなんて考えない事だ」

 スクァーマが剣を構えたまま涼しい顔で言う。

 向かい合うヘーリアンティアも杖を構えているが、既に息が上がり全身から汗が噴き出している。対峙して一合も切り結んでいないにも係わらず、長距離を駆けた後の様に身体が重い。

「これが戦場の空気というものだ。恐ろしいだろう? 

 まずはこれに慣れる事だな。身体が動かなければどうにもならん」

 見慣れている筈のスクァーマが、ずっと大きく見える。まるである種の迷宮に棲むという、人の十数倍の巨体を持つ大蜥蜴だ。空気が粘り付き、胃の辺りが痺れるように痛む。人の放つ戦気がこれ程恐ろしいものだという事を初めて実感する。

 戦場では、精神に異常をきたす兵士が多くいる。戦争を記した文献で幾度も見てきた記述だが、ヘーリアンティアはその理由を初めて身体で理解する。

「胆に力を入れろ。動けない奴から死んで逝くぞ」

「ああっ!」

 恐怖を振り払う様に我武者羅に踏み込み、杖を突き出す。大剣で杖を弾かれる。軽い動作の斬り払い。だが、巨人の腕で薙ぎ払われた様に身体ごと吹き飛ばされる。勢いのままに受身も取れずに地を転がる。だが、杖は放さない。

痛む身体を無視して立ち上がり、もう一度杖を構え、力を込めてスクァーマを見据える。 スクァーマが目を細める。

「初めてで動けたのは大したものだ。気迫も好い」

 感嘆したように言った次の瞬間、地を蹴る。肉食獣の様にしなやかに駆け寄るスクァーマに反応出来ない。速過ぎる。瞬きする間に間合いを詰め、轟音と共に剣を振り下ろして来る。杖を上げて受けようとするが、間に合わない。

「これが戦士というものよ。理解したか?」

 剣はヘーリアンティアの頭の直ぐ上で止められていた。長い金髪が風圧に弄られ、後ろに流される程の凄まじい斬撃だった。ヘーリアンティアがへたり込む。スクァーマがその気なら、頭から腰まで綺麗に両断されているだろう。産まれて初めて死を間近に感じた。正直に言えば、体の震えが止まらない。

「速過ぎます……。私でも、修練すればそれほど強くなれるのでしょうか?」


 スクァーマが鋭い牙を剥き出し笑い、ヘーリアンティアを立たせて頭を撫でる。長身の彼にそうされると、殆ど真上を見上げないと顔が見えない。

「お嬢はまだ小さいからな。

これからの人生全てを剣に費やし、数多の戦場を駆ければ、あるいは可能かも知れん。

 だが、冒険者たる者、己の適正を見極め長所を活かせる業を修練した方が良い。

 お嬢はどう見ても戦士より方術士に適性が有る。方術士としての業を磨いた方が大成するだろうさ。

 斬った張ったは剣しか振れぬ能無しにやらせておけ。要は、役割り分担だな。

 例えば、我ら蜥蜴族とお嬢達『最後の民』を比べても得意な事が違うだろう?」

ヘーリアンティアが頷く。

「蜥蜴族の方々は、皆さん非常に優れた身体能力を持っていると聞きますね。それに寿命も長い。歴史的に著名な武技の達人は蜥蜴族に多いですよね」

「うむ、我らの種族は戦士として優れた素養を持つ者が多い。白兵戦で最後にものをいうのは結局躯だからな。

 反面、方術に適正を持つ者が少なく、力だけで不器用な者も多いから職人として成功する者もあまり居ない。

 結局、我らは馬鹿力だけが取り柄の戦う事しか出来ない碌で無しだ。

 だが、だからこそ我らは戦士として戦いに生きる事に誇りを持つ。我らにはそれしかないのだからな。

 俺が生まれた集落でも皆幼い頃から剣を学び、冒険者や傭兵として戦いを求めて放浪する。

 結果、名声を得て歴史に名を残す者もいるが……、所詮は風来坊だ」

 スクァーマが皮肉げに笑う。戦士としての誇りと戦う事しか出来ない自嘲が入り混じったような響きだった。この生粋の戦士には、どこか、本当は戦いを好まないと思わせる節が有る。

「スクァーマは、そんなに強いのに戦いが嫌いなのですか?」

 ヘーリアンティアは問うてから後悔した。余人が踏み込むべきではない事かも知れない。

「難しい質問だな。

 確かに好きではないかもしれない。偶に、剣しか振れない自分に嫌気が差す。

だが、同族の皆がそうである様に、俺にもこれしかない。

 剣があるからこそ、俺の様な能無しが貴族と対等に話しても咎められない。

 こうしてお嬢に戦い方を教えているのも、戦い続けたおかげではある」

 スクァーマはそう言ってヘーリアンティアの頭を撫でる。髪が乱れるのも気にしない不器用な手つきだった。

「お嬢達最後の民は我らと正反対だ。身体能力に劣る代わりに魔力の扱いに優れ、手先が器用で広い適正を持っている。

 お前達は自分で自分の生き方を決める事が出来る。そこが少し羨ましい。

 お前達が神に愛された種族だというのも頷ける」

「最後の民優越論ですか。それは古臭い迷信でしょう」


 教会に伝わる書物に種族の起源を記した物がある。

曰く、初め神は魚の加護を与えた魚人を創った。

次に、蛙の加護を与えた蛙人を創った。

次に、蜥蜴の加護を与えた蜥蜴人を創った。

しかし、神はこれらの出来栄えに満足できなかった。だからさらに、狼、牛、馬、羊、虎、様々な獣の加護を与えた獣人を創った。

だが、結局満足できなかった神は、最後に神自身の加護を与えた人を創った。

神が最後に創った人――最後の民は、獣の身体能力を持たない代わりに、高い魔力と適応力を持つ種族となった。神はその出来栄えに満足し人を創る事を止めた。故に最後の民こそが神に最も愛された、他の種を導くべき優越した種である。


「そんなものは教会でも公式に否定されている異端の考えですよ。

 確かに、最後の民が多い地域ではそういった風潮も有るとは言いますが、逆に蜥蜴族が多い地方では我々の脆弱さを嫌い下に見るとも聞きます。

 大方、我らの祖先が自分達の優位を正当化する為に記した書物なのでしょう。我々は数だけは多いですからね。

 そもそも、我々を神が創造したというのも眉唾物の話です。

 私は様々な種族の人間が居るのは、大地に様々な動物が居るのと同じようなものだと思います。

 例えば、猿と蜥蜴に優劣なんてありませんよね?」

ヘーリアンティアは神の愛などというあやふやなもので人に優劣をつける考えが嫌いだった。思わず言葉にも熱が入る。

「俺には学が無いから分からんが、お嬢が言うのならそうなのかもしれない。

 しかし、猿と蜥蜴か」 

 スクァーマが苦笑する。

「最後の民を罵倒する時に『猿野郎!』などと罵るでしょう?

 あれは本質を突いている様に思いますね。

 我々も、神ではなく単なる猿の加護を持っているだけなのではないでしょうか?」

「相変わらず、お嬢は目から鱗が落ちる様な事を言うな。

 なるほど、そういう考えも有るのか……。

 そう考えると確かに、種族の差なんてものは猿と蜥蜴の違いみたいなものかもな」

「それに、私達には言葉が有るのですから、仲良くなってお互いの長所を生かしあう事が出来ます。みんなで友達になれば良いのですよ。

 私とスクァーマの様に、ね」

ヘーリアンティアはそう言って泉の色の瞳をスクァーマに向け、笑う。

「……そうだな」

 スクァーマはまるで日の光でも見たかのように目を逸らすと、長い尻尾をヘーリアンティアの腰に巻き付けた。ヘーリアンティアの笑みが満面のものになる。尻尾を巻きつけるのは蜥蜴族の親愛の表現だ。

「……みっともない話だが、俺はお前に嫉妬しているのかもしれないな」

 尻尾を解くと、スクァーマがぼそりと言う。その言葉には流石に驚く。この巨人の様に強い歴戦の戦士が、自分のような子供に嫉妬するなど考えられない事だった。

「冗談でしょう? スクァーマが嫉妬する事など何もないと思います」

「そんな事は無い。

 お嬢はその歳で俺など比較にならない学識を持ち、方術の才能を備え家柄も良い。

 にも拘らず、それに驕りもせずに俺の様な風来坊に頭を下げて教えを乞える。

 ……お前は日向の匂いがする。

 俺のような泥に塗れて生きて来た碌で無しには少し、眩しい」

「それは褒め過ぎじゃないですか?」

 ヘーリアンティアはなんと言ってよいか分からず、困った顔をする。だが、スクァーマは真面目な調子で続ける。

「お嬢にはまだ理解出来んだろうが覚えておけ。

 強くなるという事は、何かを捨てるという事だ。少なくとも、俺にとってはそうだった。

 善性、公正、道徳、慈愛。

 人は血に塗れて戦場を駆ける内、それらを一つずつ失い、代わりに一つずつ新たな強さを得る。

 凡人が精神の均衡を保ったままで達人の階位まで上がれるとは思わん事だ」

 スクァーマが何か大切な事を伝えようとしている事は直感的に理解出来た。ヘーリアンティアは良く考えた後、思い付いた事を聞いてみる。

「巷には、荒ぶる戦士が晩年に円熟した人格に至ったという叙事詩なども有りますが……」

「そんなものは大体が嘘だ。耳障りの良い言葉を並べて己の欠落を隠しているだけさ。

 土台、人間なんてそんなに器用なものじゃない。一つを掴む為に、掌の中の一つを放すしかないのが人間だ。

 もっとも、真に極まった技は欲望に溺れても体現出来ない。業が深いと技に我が出るからな。

 つまり、善も悪も全て捨てて空になるのさ。空になって眼前の敵意の根を全て斬り捨てる戦鬼が一番強い」

 非常に観念的な言葉だ。寓話の様でもある。戦士として強く成るには、単に修練を重ねればよいという訳でもないのか……。若いヘーリアンティアには理解し難いが、スクァーマほどの階梯に達した戦士の言葉だ。ある種の真理を含んでいるのだろう。

「御免なさい、上手く理解できません。

 私もこれから、多くを捨てて強くなるのでしょうか?」

「ある程度はな。

 一切を捨て去り、己を剣の如く軽く速くする境地が一つの究極ではある。

 だが、方術士はまた別かも知れんな。

 方術士は森羅万象を知り、己の中に世界の縮図を描いて強くなる。捨てるものより背負い込むものの方が多かろうさ。

 だからお嬢は、戦鬼の在り方も受け入れ、一緒に背負ってやればよい。

 血生臭い世界を彷徨った者ほどに、あたたかな日溜りに惹かれる。

 お前が今の在り方を見失わない限り、良い仲間は自然に集まるだろうさ」

「スクァーマも、空っぽなのですか?」

 ヘーリアンティアは思い切って聞いてみた。

「さて、な。

 戦場に立てばそうかもしれん。あるいはまだまだか。

 このまま戦い続ければいつか達人に至るかも知れんが、その前に死んじまう様にも思う。

 俺にしてからがよく分かっていないのさ。お嬢が理解出来なくても仕方がない」

 スクァーマが自問自答する様に言う。

「まあ、この話はお嬢が大人になった時にでも思い出せばよい。

 話を戻すか。冒険者の役割分担だったな。

 つまりは、お嬢の役割は戦の流れを操る指揮官だという事だ。指揮官が剣を振るって敵を切り捨てる必要はない。

 お嬢は後衛に控え、前衛の戦う事しか出来ない能無しどもを操り戦線を維持させ、方術で敵を薙ぎ払えばよい。他にも、俺達戦士が方術士に求める事は多いぞ。

方術を用いた探知、防御結界の構築、傷ついた仲間の治療、みな方術士の役割だ。

 方術士は小隊の要なのだ。未踏地で方術士に死なれた小隊は遠からず全滅する。敵だって馬鹿ばかりではない。多少知恵が回る魔獣なら、厄介な方術士から片付けようとする。

 逆に言えば、苦中に在っても方術士が健在なら逆転の目は残されている。

 つまり、方術士にとって一番大切な仕事は死なない事なのだ。

 白兵戦においてお嬢に必要なのは、戦士としての戦闘力ではなく、方術士としての護身の技という事だ。

 まずは戦いに慣れ、体力を付けるのだな。最低限度動けねば前衛の足を引っ張りかねん。

後は前衛の間抜けが打ち漏らした敵と一合二合切り結んで持ち堪える力量が付けば、方術士としては十分だ」

「分かりました。もう一度お願い出来ますか」

 ヘーリアンティアが間合いを計り、杖を構える。

「うむ、今度はゆっくり打ち込む。可能な限り打ち払ってみろ」


 この様に勉強に修練に忙しいヘーリアンティアだったが、たまの空き時間を見繕い街に出てみることにした。何といっても露店の老人の冒険譚を最後まで聞きたい。それに、ゲルマニカ公が老人を客分として迎えてもよいと言うので、その勧誘もしたかった。優れた冒険者は独自の情報や技能を持つため、可能な限り囲い込んでその力を利用したいと考えるのが貴族の常なのだ。

 例によってウェネーとスクァーマをお供に、露店市を抜けて奥へと進む。石畳の道がだんだん古くなり、道幅も細く、人通りも途絶えた頃に老人の吹けば飛びそうな露店が見えて来る。相変わらず他の客は見えない。そもそも、商売をする気が有るのかすらも怪しい。

「こんにちは、また来てしまいました。おじいさんはお変わり有りませんか?」

 ヘーリアンティアが優雅に一礼すると、老人が歯の無い口を開けて笑う。

「おう、騒がしいお嬢さんじゃないか。方術士のお嬢さんと無知な蜥蜴人も一緒か。

 門限には間に合ったのか?」

「誰が無知なんだ?」

「亀の上に乗って居ると思い込む馬鹿蜥蜴よ」

「まあまあ」

 いきり立つスクァーマをウェネーと二人掛りで押さえ、ヘーリアンティアは話を切り出す。

「門限に関しては、あの時点で既に間に合ってないと言いますか、まぁそれはそれとして……。

 不躾ですが、当家では優秀な冒険者の方を客人としてお迎えしております。どうか 当家に逗留しては頂けないでしょうか?

 無論、対価としておじいさんの知恵をお借りしたく思いますが、決して不自由な思いはさせない事をお約束します。如何でしょうか?」

「悪いが、わしは他人の飯は食わん。

 例え誉れ高きゲルマニカ家のお転婆姫に乞われようとな」

「う、ばれていましたか」

「お嬢さんは有名人だからな。路地裏の隅で生きるわしでも噂位は聞くさ」

 ばつが悪くなり苦笑いするヘーリアンティアに、老人が笑みを深くする。

「それより、理由を聞いてもよいでしょうか?

 何か条件が有るのでしたら可能な限りすり合わせたく思いますが」

「たいした理由ではないさ。わしは家を出て以来、他人の下に就いたことはない。

 これがごろつき同然のわしの唯一の矜持よ。お嬢さんにとっては馬鹿な話だろうがな」

「いえ、人の誇りを笑う事など出来はしませんが……、その、失礼ですがこのお店もあまり流行っていなさそうですし……。

 当家に逗留していただいた方が、安楽に暮らせるかとは思うのですが」

 ヘーリアンティアが周りを見渡しながら言う。人気は全く無い。驚くほど大きな鼠がひょっこり姿を出し、きょろきょろと周りの様子を窺い、走り出した。それを痩せた野良猫が追いかけて行く。悲しくなる程に侘しい光景だ。

「こんな年寄りの心配をしてくれるのか、有難い話だ。

 だがな、これでも食う位の蓄えはある。こうして店を開いているのも実は道楽のようなものさ」

「そうですか、分かりました。話を聞いて頂き、有難う御座いました。

 ……では、今日はこの壺を買い取ります。その代わり、おじいさんの冒険譚を聞かせて頂いてもよいですよね」

 ヘーリアンティアは変わった文様の壺を指差し、笑顔で言う。勧誘に失敗したのは残念だが気持ちを切り替える。珍しい物が有れば買い取って来いとの命もゲルマニカ公から受けてきたのだ。珍品を集める事は貴族としての力を示す事にもなる。老人の話も聞ければ良い事尽くめだ。

「買ってくれるなら話さん訳にもいかんな。

 おお、そう言えばお嬢さんは冒険者になるとか言っておったな。

 大方親父殿に反対された事だろう? 

 わしも、お嬢さんは家で刺繍でもしておったほうが良いと思うぞ。お嬢さんの器量ならあと何年かすれば、国中の勇者賢者が押し寄せて来おるよ。

 そいつらの冒険譚を聞くだけでも十分退屈せんさ」


 ヘーリアンティアがその日一番の笑顔を浮かべる。

「へへー、それが我が領に利益を出す事を条件に賛成して下さったのですよ。

 先ずは家で勉強してから医療法術士を目指して修行するつもりです」

 それを聞いた老人は驚いた顔になり、黙り込む。

「あれ、どうかされましたか?」

 急に黙り込まれてはヘーリアンティアも驚く。

「お嬢さんは、水術士なのか?」

「はい、そうですよ」

「……そうか」

 老人は真剣な顔で目を瞑る。

「冗談のつもりだったのだが……。わしがあんな事を言ったからか?」

「冒険者に成る事に思い至ったのは、確かのおじいさんの一言がきっかけでした。 私が求めるものに形を与えて頂き、感謝しておりますよ」

「……そうか。

 冒険者は危険だから止めろ、などとはわしの口からはもう言えんわな」

 老人は目を開け、横に置いた背負い袋の中から古めかしい金属製の小箱を取り出し、ヘーリアンティアに手渡す。

「今日は話はせん。餞別にこれをやる。東方で手に入れた幻獣の卵だ。

 家に帰って、この中に入っている卵を水の入った桶に入れてお嬢さんの魔力を通せ。

 掻き混ぜながら何日かそれを続け、卵が孵ったらまた来るがよい」 

 小箱には複雑な方陣が刻まれている。珍しい形の方陣だ。それを見たウェネーが驚愕の表情を浮かべる。

「これは『魔力遮断』の方陣ではないですか?」

「左様。わしが迷宮化したローマの遺跡から持ち帰った物だ」

ヘーリアンティアとスクァーマも言葉を失う。


 ローマは古今の方術を整理し体系付けた偉大な文明であり、ローマの崩壊と共に失われた技術も数多い。

魔力遮断の方術はその中でも最も有名なものの一つだ。現在の術者が同じ方陣を描いても、魔力を用いた方陣で魔力を遮断する、という矛盾に耐え切れずに方陣が自壊する。おそらく何らかの事象に対する理解が足りないのだと言われているが、それが何なのか全く分かっていない。ローマが存在した時代においても秘匿された技術だったらしく、文献にも詳しい説明は残っていない。

記録によれば、彼の国では転移方術による侵入者を防ぐために、重要な建築物の要所には全てこの方陣が刻まれていたという。また、戦士の盾や鎧にこの方陣を刻めば魔力的な干渉を遮断できるため、白兵主体の戦士の弱点を緩和できる。

運良く遺跡から手に入れることが出来れば、値段も当然恐ろしい事になる。寧ろ民間では値段を付ける事も出来ず、国や冒険者組合などの大組織が買い取る事になる。凡そ全ての国がこの技術を再現しようと研究している為、研究素材は幾ら有っても足りないのだ。

 この様に、ローマ時代の遺跡からは現在の技術では再現できない秘宝が見つかる事が多々有る。新しい遺跡が発見されるとその周辺は国家の騎士団、考古学者、冒険者、盗掘屋、ならず者に人の流れにつられた商人、大工、雑多な職人に輸送業者などが集まり、瞬く間に小さな都市の形を造る。

遺跡が広大な階層を持つ迷宮と化しており、周辺の立地も良ければ遺跡を囲む形でそのまま新しい都市として根付いて行く。こうして出来た都市は古来より多かった。無論、遺跡が小さく簡単に調べ尽くされたら、やがて人は去り、そのまま廃墟となる。


「こんな高価な物、頂くわけにはいきませんよ!」

 ヘーリアンティアが叫ぶように言う。老人の善意は嬉しかったが、流石にこれは価値が高過ぎる。

「わしが持っていても仕方のない物だ。魔力を遮断出来るのでな、都合がよいので卵を入れていただけだ。

 冒険者に成るのなら色んな使い方が出来るだろう。

 気が向いたらお嬢さんが方術の研究に使ってもよい。工夫することだ」

ヘーリアンティアは困った顔で老人を見る。老人は話は終わったとばかりに、パイプに煙草の葉を詰め始めた。

「分かりました。ですが、これを頂く代わりに私に何か出来る事を仰ってください。

流石に無償で頂く訳にはいきません」

「うむ、なら暇が有ればまた来て話し相手になってくれ。この通り、客も来ないし暇を持て余しているのでなあ」

 老人は笑いながら紫煙を吐き出す。

「そんな事でよいのですか?」

「わしの様な孤独な老いぼれには大切な事なのさ」

「分かりました、貴重な品を頂き感謝いたします。

 必ずや再び罷り越し、おじいさんの無聊を慰めるお手伝いをさせて頂く事を、ここに誓います!」

ヘーリアンティアは大真面目な顔で胸に手を当て宣言した。それを見た老人は耐え切れないという風に大笑いする。

「お嬢さんは真面目な事だ。

 さぁ、家に帰ってさっき言った事をやってみなさい。無事に孵ると良いのだがな」


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