それでも明日はやってくる
常闇の世界においても、夜の時刻は正確に訪れる。
黄金色の月が雲に隠れ、僅かな切れ間から月光が漏れる。その月の光が射し込む部屋に、小さな異変は起きた。
ミノタウロスの十字架が、熱と光を帯びて反応している。坂之上はすぐさま目を開いて起き上がった。
――狭い室内に、『もや』が充満しつつある。
やがてその白いもやは集まり、人の姿を取る。
その顔に、その姿に坂之上は見覚えがあった。忘れるはずがない。忘れたくても、記憶から消してしまうことなどできない。
「キミは……」
『坂之上、君……』
今は半透明になっているが、その髪は美しい亜麻色だったはずだ。服装も、面持ちも、『あの時』と何ら変わらない。見間違いはしない。
坂之上が初めて好きになり、そして初めて命を奪った
坂之上にとって、
『久しぶり……で、良いのかな……』
坂之上は机に手を伸ばし、眼鏡を取って顔にかける。
そして鋭くなった眼光で、輪郭のぼやける少女を見つめ返した。
『……そんなに怖い顔しないで。ただ、お話をしに来ただけよ……』
昔と変わらぬ声で。喋り方で。何も変わらない彼女は、何もかも変わってしまった坂之上に語りかける。
『……少し、痩せたんじゃない? ちゃんと、ご飯食べてるの……?』
坂之上は答えない。ただ黙したまま、ベッドに腰掛けている。
『……何も、言ってくれないのね。……そうやって、強がってるつもりなの……? 芥川君の眼鏡をかけて、芥川君みたいに強い言葉を使って、赤いマフラーと黒い制服を着て……。高笑いして、似合わないことをして……。そうやって、貴方は化け物の群れに向かっていく……。それが本当に、貴方が正しいと思う生き方なの……?』
少女は問いかける。心配しているのだろう。本心から、坂之上の身を案じている。
酷い言葉を、さんざん投げかけてしまったのに。
それでも初恋の少女は、死して尚、自分を心配してくれる。
初めて好きになったのが彼女で良かったと、坂之上も本心から思っていた。
だが、だからこそ――。
「――言いたいことはそれで全部か? 用が済んだら、とっとと失せろ亡霊」
坂之上の返答に、少女の顔は――『哀れむ』ような形に変わった。
「……キミは記憶なんだ。俺の想い出の中にだけいる女の子だ。美しい思い出のままで、それで良いんだ……。一日だって忘れたことはない。何度も声を聞きたいと思った。芥川君とキミとで、またあの日々に帰ることができたらと、涙が枯れるほど願い続けてきた」
『だったら……!』
「だが俺は、明日を生きると決めた。キミと芥川君の思い出を抱いて、キミと芥川君のいない
『……!』
今度は、少女が押し黙る番だった。
「……
『………………』
「……だからよォ」
人は生かす。化け物は殺す。そして、死んでしまった者と交わす言葉は、もう存在しない。
彼女は死んだ。今見ているのはどうせ、昼間の
そうであると心に言い聞かせ、坂之上は強い言葉で彼女を拒絶した。
「これからを生きようとしてる人間の前に出てきて、死んだ奴が今更ゴチャゴチャ囁くんじゃねぇ」
威圧するように、決別するように。
坂之上はハッキリとした口調で、眼前の少女に言い放った。
『……泣きそうな顔をして。いつか、限界が来るわよ……。人の心はそんなに強くできていない。穴が空き、砕け散り……身動きできなくなっても、もう貴方を助けには行けないのよ。私も、芥川君も……』
「『助けてくれ』なんて、俺がいつ言ったよ」
『昔も、そして今も、ずっと叫んでいるじゃない……』
「………………」
返答に詰まる。そうしている間に彼女の輪郭はより曖昧にぼやけ、やがてその半透明の身体は希薄となり、最後には何も見えなくなって消滅した。
静寂が。変わらぬ景色が帰ってくる。
再び自分一人だけとなった部屋で、坂之上は眼鏡を外し机の上に戻した。
そして両手で顔を覆い――白い息を深く吐いた。
「ッ……。っふ……!」
「今日は冷えるな」と、独り言を言おうとして。出てきたのは、言葉にもならない微かに震える音だけだった。
***
新しく坂之上雲が入居した部屋の前で、舞姫は少しばかり悩んでいた。
何を話せば良いのか。そもそも、何か話す必要があるのか? もし彼が――坂之上雲という少年が闇夜に怯えていたとして。自分に何が出来るのか。何かして貰うことを、彼が良く思うのだろうか。
あれこれと考えている内に、思考の糸は複雑に絡まり、見えていたような答えを隠してしまう。
このままではトレーに乗せた食事が冷めてしまう。折角エイジが恥を忍んで配給して貰ったのに。
舞姫は意を決し、坂之上の個室の扉をノックした。
「坂之上君。私よ」
しかし、返答はない。寝ているのだろうか。
もう一度ノックしようとして、それと同じタイミングで、扉は開かれた。
「……あぁ、舞姫さん」
「寝ているところだった? 起こしちゃったのならごめんなさい。でもホラ。食事、持ってきたから」
「ありがとう。今……ちょうど、起きたばかりだ。大丈夫」
今は黒い学ランではなく、白いワイシャツ。赤いマフラーも無いと、何だか別人に見えた。
……それ以上に。入室した舞姫が坂之上を別人に思ったのは、その背中が小さく見えたからだ。表情もどこか寂しげで、化け物達と戦っていた時のような気迫は、今はどこにもありはしなかった。
坂之上は舞姫を促し、二人してベッドに座る。
そしてパンとシチューと水の入ったコップが乗ったトレーを受け取り、坂之上はスプーンを握った。
「……ゴメンナサイね。こんな食事しか出せなくて。あんまり、美味しくないでしょう?」
一口頬張って、何とも言えない表情を浮かべた坂之上に舞姫は謝罪する。
もう一年も太陽が顔を出していない世界だ。作物は通常通りには育たず、人口の紫外線で何とか発育を促しているに過ぎなかった。だがそれでは生産量に限界があり、品質も、お日様の光を浴びて育った物には遠く及ばない。
だが坂之上はそんな事を気にせず、固いパンを食いちぎった。
「美味しくないなんてことはない。久々に、温かい食事を摂れて大満足さ。今日は色々あって疲れたから、尚更美味しく感じる」
その言葉に舞姫は半ば安堵し、もう半分で、遠い目をするようになった。
「そうね……。今日一日で、本当に色々なことがあった」
部屋の壁を見つめながら、舞姫は思い出す。きっと今日という日は、一生忘れることができないだろう。
「貴方と出会って、吸血鬼を倒して、殺人鬼を二体も退けて、幽鬼からアリスさんを助け出して……。あまりにも濃密すぎる一日だったわ。最前線で戦い続けた坂之上君なら、尚更」
味の薄いシチューを口に運びながら、坂之上も思い返す。
今日はたくさん化け物を殺した。たくさんの人間が死んでいった。だが、それなりの人数を守ることもできた。横に座る森舞姫という少女も、その一人だ。誇りに思う。
「だからかしらね……」
息遣い。微かな体温。甘い香り。隣に座っているだけでも感じる、舞姫の生命の鼓動。その存在感こそが、何よりの馳走とも言える。
「……貴方がそんなに、疲れた顔をしているのは。……何かとても辛いことや悲しいことがあったからというわけじゃ、ないわよね……?」
スプーンを持つ手が、止まった。
「あ、いや、急に変なこと聞いてごめんなさい。今のはナシ。忘れ……」
「舞姫さん」
坂之上は舞姫と視線を合わせる。スプーンをシチューの皿に置く。そうでもしないと、手から落としてしまう確信があった。
「……心配してくれて、ありがとう」
ちゃんと、笑顔を作ることができているだろうか。
変な声になっていないだろうか。
頼りがいも余裕もある、素敵な眼鏡が似合う無敵の男でいられているか。
きっと、大丈夫だろう。何故なら眼前の少女は、優しく慈愛に満ちた表情を浮かべているのだから。
「……お礼なんて。感謝してもしきれないのは、私達の方よ。本当に……。私達を助けてくれて、ありがとう。これからも、よろしくね」
舞姫が差し出した手を、坂之上は少し考えてから握った。その体温に、優しく握り返す力に。坂之上は、もう少しだけ頑張れるような気持ちになった。
例えこれからもよろしくという言葉が、坂之上にとっては何よりも重い呪いの言葉であったとしても。
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