書かない手紙

三砂理子@短編書き

書かない手紙

校庭の隅の木陰はあまり人が来ず、静かに涼むには最適なところで、だから私のお気に入りの場所だった。

高校生活も一年目がそろそろ終わりに差し掛かる、そんな秋のこと。もうクラスには馴染んでいたけれど、私はこっそり一人で抜け出しては木陰に来ていた。

あまり綺麗とは言い難い木製のベンチに腰掛け、肩の力を抜きリラックスする。心地よい秋風がそよそよと私の茶色い髪を揺らした。

夏に友人と共に髪を染めてから三ヶ月が経つが、未だにその髪の色には馴染めず、自分のものでないように思える。

数ヶ月前には黒かった髪。一年前には中学生だった自分。中身は何も変わらないのに、外見ばかりが変化して、心がそれに追いつかない。

はあ、とため息をつく。見上げた空は木々に隠され、太陽の光は届かなかった。


午後の授業は日本史だった。中年の高尾先生の、食後に聞けばたちまち眠りに誘われてしまう低音を耳から耳へ聞き流し、ぼうっとしながら時折板書をノートに書き写していた。周囲のクラスメイトも寝たり内職をしたりと、静かでだらんとした空気が教室内に満ちていた。

こつん。左肩に何か当たったような感触がした。左を見やれば、二つ隣の席の後藤さんと目があった。

(し、た)

声はなく、口パクと、床を指さすジェスチャー。それに従って下に視線を動かすと、小さく折りたたまれたルーズリーフがあった。

手に取ってすぐに、それが手紙であることに気づいた。「三央」と後藤さんの丸っこい女の子らしい文字で書かれた、後藤さんの名前。裏を返すと、同じ書き癖で「樹里」と宛名がある。名前の横にはハートマークまで添えて。私の右隣の、荒木さんの名前だった。

再び後藤さんを見ると、後藤さんはにこにこ笑いながら、両手を合わせてぺこり、と頭を下げた。私は小さく頷いて、それからぐるりと反対の右側を向くと、こくりこくりと寝そうになっている荒木さんの肩をつついて手紙を渡した。手紙を受け取った荒木さんは眠たそうに何度もまぶたをこすっていた。

手紙回し、なんて呼ばれるそれは中学の頃にも流行った女の子達の遊びの一つだ。後藤さんや荒木さんみたいに二人きりでやり取りするだけでなく、何人かでしりとりをしたりとか、くだらない話をしたりとか。みんなたくさん手紙を書くから、文字に癖がついて自然と丸く可愛らしい字になる。

私も中学時代に何度か回ってきたことがあったけれど、私は数回それに参加しただけでやめてしまった。私は手紙に思いを綴るのが苦手だった。

でもそれは、手紙の交換を断る本当の理由ではなかった。

ルーズリーフでもノートの切れ端でもない、淡い水色の便箋と封筒。つたない下手くそな字で、いつも書くのは同じ言葉。誕生日おめでとう、これからもよろしくね。本当に伝えたい思いは、勇気が足りなくて、いつも書けない。その手紙を、小遣いで買ったプレゼントに添えて渡す。

私の幼なじみ。立原将人。

私にとって、手紙とは彼に等しかった。


昔から将人が好きだった。親同士が仲が良かったこともあり、幼い頃は何をするにも一緒だった。いつだって前を行く将人。いつもその背中を追っていた。鈍くさい私を、彼はいつだって待っていてくれた。中学を卒業するとき、地元から離れた高校へ行く私をとても心配していた将人の優しさを、私は忘れずにいる。

高校へ上がり外見を変え、けれどずっと変わらない思い。

高校に入ってから、数えるほどしか将人に会っていないことに気づく。会話も一言二言程度だけ。携帯のメアドは知っていたけれど、私はメールがマメな方ではないし、今まではずっと一緒にいたせいか、お互いメールをする間柄ではなかった。彼は地元の高校へ行ったから、私のように早朝に家を出ることがない。今まで当然のように長い間時間を共にしてきたのに、失うのはいとも簡単だった。

将人の誕生日が近づいている。疎遠になってしまった今、今年も渡せるだろうか。


手元に目を落とす。ノートに書き付けた自分の字が目に留まる。それは汚くはないけれど、後藤さんや荒木さんのような女の子らしい字とは到底かけ離れていた。


家に着いた私は、台所にいた母に「ただいま」とだけ声をかけて部屋に閉じこもった。

かばんから、寄り道した文房具屋の紙袋を取り出す。その中には水色の便箋と封筒のセットが入っている。

勉強机に便箋とペンケースを置く。すう、はあ、と深呼吸を繰り返す。〇・一ミリのボールペンを握る。

将人へ。お誕生日おめでとう。

その続きを書こうとして、手が止まる。これからもよろしくね。いつもなら書ける言葉に詰まる。

もうずっと会ってない。それなのに、これから、なんてあるのだろうか。そう思ったら、もう、これ以上、何も書けなかった。握ったペンは少しも動かない。他の言葉を考えようとしても、何も浮かんでこなかった。

かたん、とペンを机に置く。ため息さえも出てこなかった。

このまま将人にも会わず手紙も書かなければ、この気持はがあっけなく霧散してしまうんじゃないかとさえ思えた。本当に好きなのに。ずっとずっと、本当に好きだったのに。

ぽたりと落ちた一滴のしずくがインクの文字をじんわりと滲ませた。


その夜私は、夢を見た。中学生の私が微笑んでいた。中学生の私はセーラー服姿に水色の封筒を胸に抱いていて、「大丈夫よ」と今の私を慰めるのだ。何が大丈夫なの、と聞いても彼女はそれに答えずに、大丈夫、大丈夫よと繰り返すばかりだった。

目覚めたとき、私は無意識に机の上に放置した手紙に目が行っていた。もちろん手紙は昨日投げ出したときのままそこに置かれてあった。

リビングに出ると、両親の姿はなかった。時計は九時を回ったところだった。一瞬首をかしげ、それから今日が土曜日だということに思い至る。休みの日は、二人とも朝が遅いのだ。

冷蔵庫から昨日の晩ご飯の残りを取り出して、レンチンして食べる。部屋にいると見たくもないものを見てしまうから、散歩をしようと家を出た。

「え、あれ、玲子?」

玄関の前に、将人が立っていた。将人は今にもうちの呼び鈴を鳴らそうとしているところで、私は突然のことに返す言葉も忘れ、扉に手をかけたままぴたりと動かなかった。

「玲子、これからどこか出かけるの?」

「あ、えっ、ううん、ちょっと散歩しようかなって思っただけ。どうかしたの?」

静止した私に将人が尋ねてきて、私ははっとして答えた。

「う、うん。……玲子に、用があって」

私に? と声に出さずにきょとんとしていたら、それが伝わってしまったらしく、将人は「あのさ」と視線を泳がせ言葉を探し始めた。

「あのさ……、あー……俺んちに、来てほしいんだけど」

「えっ?」

「い、いや、変な意味じゃなくて! ただあの、ここでは話せないっつか、たぶん言っても信じてもらえないっつうか……」

間髪入れずに早口でまくし立てる将人。軽く顔を赤らめ慌てる将人は昔と何一つ変わっていなくて、私はくすくすと笑ってしまった。

「よく分からないけど、いいよ」

その言葉に将人はほっと胸をなで下ろしたようだった。


将人の家にくるのは卒業式以来のことだった。卒業式の日の夜、私の家族と将人の家族で、卒業祝いに一緒にご飯を食べたきりだ。そしてそのときは将人の部屋に行くことはしなかったから、部屋に入るのは数年ぶりだった。

「お邪魔しまあす」

少し緊張しながら家に上がると、リビングから将人のお母さんがひょっこりと顔を出した。

「あら、玲子ちゃん、久しぶりねえ。茶髪、似合ってるわよ。将人もそう思うわよね? 元気にしてた?」

「ありがとうございます。私も家族も、変わりなく元気です。おばさん達も元気でしたか?」

饒舌に喋るおばさんは相変わらずで、将人とよく似ていた。

「ええ、私も主人も、将人もこの通り。あとでお茶とお菓子持っていくわね」

「いいよ、母さん、自分でやるから。ほら、玲子行こう」

おばさんをあからさまに邪険にして、将人は逃げるように階段を上っていった。おばさんにぺこりとお辞儀をして、私も将人に続く。

二階の突き当たりの部屋が将人の自室だ。

随分ぶりに入った将人の部屋は、本の量だとかかばんだとか細やかなことはいろいろ変わっていたけれど、部屋の家具の位置は古い記憶とほとんど変わりがなかった。

将人は部屋に入るなりきょろきょろと部屋を見回し出して、なんだか様子がおかしかった。

「どうしたの?」

「あ、うん、ちょっと。……とりあえずそこ座っていいよ」

言われ、勉強机の椅子に座る。将人はベッドに腰掛け、いぶかしげに辺りを見ていた。

「……で、話なんだけど。本当は見せたいものがあって呼んだんだけど、ちょっと今いないみたいで……」

もごもごと言いにくそうに話す将人。すると、クローゼットの中からかたかた、と音がした。

「えっ、何の音?」

「もしかして、あいつ……!」

将人は勢いよく立ち上がり、クローゼットを思いっきり開けた。

「きゃあ!」

そう悲鳴を上げてクローゼットの中から飛び出してきたのは、セーラー服の女の子だった。

「いったぁい……」

飛び出した勢いで将人にぶつかり、そのまま足下にへたり込んだ少女は顔が見えなかったが、その背格好や外見に私は見覚えがあった。けれどそれは、どう考えてもおかしいものだ。

だって、彼女は今日の夢に出てきた少女と瓜二つだったのだ。そしてそれはつまり、中学生の私の姿なのだった。

「なんで隠れてたんだよ」

「だって将人が私を連れてくるって言うから、邪魔しないように隠れてようかなあって……」

そう言って身体を起こした少女に、私の予感は確信となった。

長い黒髪を二つに結び、学校指定のセーラー服のスカート丈は膝を隠す程の長さ。彼女はどこからどう見ても私だった。

「あなた……私、なの?」

「うふふ。他の女の子に見える?」

「見えない」

「そうでしょう? 私はあなた。あなたは私。私達、二人とも同じ紅谷玲子よ。うふふ、初めまして、高校生の私」

彼女は私の容姿で私の声で、けれど私らしくない笑い方だった。

将人は私と彼女を見比べ、それから渋い顔をした。

「玲子にもこいつが見えるのか」

「うん、見える。でも、意味が分からないわ。彼女は何者なの?」

「俺にも分からないんだよ。今朝起きたら、突然こいつがいて、玲子の名前を騙るんだ」

「あら、失礼しちゃう。私、本当に玲子なのよ。ほら、どこからどう見ても私、あなたでしょう?」

私の名前を名乗る彼女は、その場でくるくると回ってみせた。セーラー服は中学の制服本物であったし、容姿や髪型、背丈、ほくろの位置に至るまでそっくり中学生の私そのものだった。

「起きたときびっくりして、慌てて母さんを呼んだんだけど、母さんにはこいつが見えなかったんだよ。俺と玲子にしか見えないのかもしれない」

将人は真面目に今の状況を考えて言っているようだった。けれど私にとっては、彼女が何者であるかは些細なことだった。それよりも、彼女が私の姿をして私の目の前に現れ、そうして笑っていることがとても気味が悪かった。

「おまえ、何者なんだ? 何が目的でこんなことするんだ?」

「だから、私は私。紅谷玲子、中学生バージョン、なんてね。目的は……そうね、玲子には教えてあげる。だから……将人は少し、眠ってて、ね」

そう言って彼女が将人にウインクをした途端、将人はがくりと崩れ落ちて倒れてしまった。

「将人! ちょっと、何これ! 将人に何したの!?」

「だから、眠ってて、って言ったじゃない。寝てるのよ。大丈夫、話が終わったら、ちゃんと起こしてあげるから。……ねえ、玲子。この手紙に見覚えはある?」

彼女が私に差し出したのは、水色の便箋だった。宛名は「立原将人」、差出人は……「紅谷玲子」、私だ。

「これは、去年のあなたが将人の誕生日に書いた手紙。これ、将人の机の引き出しにしまってあったのよ。それも、今まで玲子が渡した手紙、全部。将人は優しいのね。……あなたは、この手紙に、いえ、今までの手紙すべてに、書かなかったことがあるでしょう? 私はそれを、書き足して、渡し直すために来たの。だから、大丈夫、私に任せて」

彼女の言葉に、心臓が止まりそうな思いになる。手紙に書かなかったこと。密かな気持ち。なんで、あなたが知っているの。

「やめて。あなたは私なんかじゃない。その手紙は私のだわ。勝手なこと、しないで」

悲痛な声を上げた私に、彼女はすっと表情を消した。

「玲子、あなたまだ、そんなこと言ってるのね。高校生になっても何も変わってない。髪の色だけ染めて、変わった気になっているだけ。……私は、変わるわ。もう、臆病な私でいたくない」

冷たい顔で淡々と話す彼女。ぐい、と一歩、私に近寄る。

「私、将人が好き」

私がずっと秘めてきた言葉を、彼女はためらいなく言い放った。私は鈍器で殴られたような衝撃に、泣かないようにぎゅっと唇を噛んでこらえるのが精一杯だった。

「来月、将人の誕生日まで待ってあげる。それまでに玲子が変わらないなら、もう待たない。私が先に、手紙を渡すわ」

過去からの宣戦布告に、私は返す言葉を持たなかった。


彼女は将人を起こすと、「ばいばい」と手を振って、部屋の窓からぴょんと飛び出した。私と将人は慌てて窓から顔を出すと、彼女の姿はどこにもなかった。

将人は私に彼女に何を聞いたのかと尋ねたけれど、私はそれに答えることができず、はぐらかして帰るほかなかった。

自室へ帰ると、机の上に置かれた便箋が目に留まった。

変わらないと、将人は奪うと彼女は言った。

変わるとは、手紙を書くということと等しかった。書かずに逃げてきた思いから、逃げないということ。

(それができないから、十年以上片思いなんだ)

それを、ひと月足らずで変えろと、彼女は言うのだ。そんなのって、ないよ。

手紙を書くことは私にとって、高校受験よりも、社会情勢よりも、ずっと難しい問題だった。


週末が終われば、学校があり、将人と顔を合わせることはなくなった。セーラー服の彼女もそれきり姿を現さず、まるで悪い夢から目覚めたような、平凡で何も変わらない日々だった。

ただ、彼女の言葉だけが気がかりだった。


悪い予感は、当たるものだ。

翌週の月曜日、彼女がひょっこりと現れたのだ。

これから学校へ向かうという朝だった。玄関の扉を開けると、そこに彼女は立っていた。

「おはよう、玲子」

「……なんでいるの」

「だって、玲子が変わってくれないんだもの」

その言葉に、まだ悪夢は終わっていないのだと思った。振り払うように、逃げるように駅へ早足で向かう。

「玲子が書かないなら、私が書くわよ」

「うるさいっ。なんでついてくるのよ。ついてこないで」

彼女の言葉のひとつひとつが、私の背筋をぞわりぞわりと撫ぜて気持ち悪かった。

「玲子が手紙を書かないからいけないのよ。ねえ、手紙を書きましょう?」

「やめてよ。放っておいてよ」

私は今にも泣いてしまいそうで、必死で駅に駆け込み、ちょうど停車していた電車に飛び乗った。電車は私が乗るのとほとんど同時に閉まった。後ろを振り返ると、彼女は駅のホームに立っていた。

(助かった)

ほっと胸をなで下ろす、そんな私をあざ笑うように、彼女は私に向けて、にっこりと笑顔をつくった。彼女は笑っているのに、その瞳は冷たく凍り付くようで、笑ってはいなかった。私はその笑顔を見て、逃げられない、と本能で分かってしまった。

彼女はどこまでも私を、私と将人を追うだろう。彼女から助かる方法などないのだろう。

(手紙を、書き上げる)

唯一、その方法だけを除いて。


翌日、彼女は家の前にはいなかった。ほっとしたのもつかの間、その夜私は、彼女の夢を見た。ふと気がつくと彼女は私の部屋にいて、机の横に立って、言うのだ。

「手紙を書きましょう?」

私がどんなに耳を塞いで無視を決め込んでも、耐えきれず怒鳴っても、彼女は気にする素振りも見せず、笑顔を絶やすことなく「手紙を書きましょう?」と言い続けた。

それを境に、彼女は次の日もその次の日も、同じ夢を見た。それはまるで夢ではないみたいだった。夢にありがちな、どこかぼんやりとした部分が全くなく、記憶がはっきりとしていて、妙に現実味があった。二つの現実を行ったり来たりしているみたいで、どんどん眠れなくなり私は目に見えてやつれていった。

私は何度も手紙を書こうと机に向かいペンを手に取ったけれど、相変わらず勇気が出ずに書けないでいた。さらには毎日夢で彼女に洗脳をかけられるせいか、軽いノイローゼ気味になって、終いには手紙を引き出しに入れて目にすることさえ嫌になってしまったのだった。

「ねえ、玲子、どうして手紙を書かないの?」

「うるさい。あなたのせいよ。もうやめて。許して」

ボロボロに泣く私に、彼女は初めて笑うのを止め、そうしてぐっと詰め寄り私の右手首を強く強く握って、切りつけるように呪いの言葉をぶつける。

「許さない。許さないわよ、玲子。あなたは絶対手紙を書くの。でないと私、あなたを絶対に許しはしないわ。どこまでもどこまでも呪ってやる」


「玲子、顔色悪くないか? 大丈夫か?」

将人の誕生日の一週間前。私は将人に呼ばれて、近所の公園へ来ていた。

「ううん、大丈夫。昨日ちょっと、遅くまで勉強してて」

将人は彼女と私の会話を知らない。将人には、彼女はあれ以来姿を見せていないと嘘をついていた。

「そっか」

「今日はどうしたの?」

「いや、大したことじゃないんだけど……。この間、あんなことあってから、玲子大丈夫だったかなって思って。なんだか、俺が巻き込んだようなものだったし」

「ありがと。でも、大丈夫だってば。そんなに心配しないで。あれはきっと、悪い夢だったんだよ」

将人の言いぶりに、彼女があれから一度も将人の前に現れていないのだと確信する。悪夢を見ているのは私だけなのだ。

私は作り笑いを将人に向けた。将人に心配をかけたくはなかった。たとえば、朝から右の手首がびりびり痛んでいることは、将人に知られたくなかった。

「ならいいんだけど。また何かあったら言えよ」

寝不足なのに遅くまでいると悪いから、といくつか軽い近状の話だけをして、私達は公園近くの丁字路で別れた。将人は私を家まで送ると主張したが、私がそれを頑なに拒んだのだった。


「あら、久しぶり。玲子。二週間ぶりくらいかしら?」

「私は昨日もあった気がするわ」

将人の姿が見えなくなると、彼女はどこからともなく飄々と現れた。私はどこか予感があったから、さして驚くことはしなかった。

「奇遇ね、私もそんな気分だわ」

対面からゆっくり歩いてくる彼女に、私は歩みを止めた。今日の彼女は、いつも以上にどこか近寄りがたく禍々しい空気をまとっていて、思わず後ずさりする。

「ねえ玲子。私、もう待ちきれなくなっちゃったあ」

じわじわと縮まる距離。逃げたいのに、足ががくがくと震え出して立っていることさえ困難だった。尻もちをついた私を、彼女は不気味に笑った。

「ねえ、待てないの。ふふ。玲子、書いてよ。今すぐ書いてくれなきゃだめよ。許さないんだから」

彼女が私の上に馬乗りになり、そっと押し倒す。アスファルトの冷たさのせいか恐怖のせいか、ぞわりと身震いがして、歯が噛み合わずにかちかちと鳴った。彼女を押し返そうとするが、震えた手では力が入らず、彼女に右手を掴まれてしまう。彼女は掴んだ私の右手をそのままアスファルトに叩き付けた。

「った!」

そのあまりの力の強さに、悲鳴が漏れる。それはまるで化物みたいな、人間離れした腕力だった。彼女はぐりぐりと右腕を地面に押し潰そうとし、そして空いた手で私の首に手をかけた。

「手紙を書いて。玲子。許さないわ。書きましょう? レイコ。玲子。ねえ。手紙を。許さない。書きなさい。手紙を、書きなさい、玲子!」

私とほとんど同じ程の高音であったはずの彼女の声が、徐々に潰れて、低い、だみ声に変わっていく。私を睨む瞳は赤く充血し、髪は乱れ、視線が定まっていなかった。

「許さない。レイコ。手紙を。手紙。書きなさい。レイコ。手紙」

「あ……と……」

首を掴む手の力が少しずつ強まり、息ができない。嗚咽が漏れる。ぽろぽろと涙が零れ、彼女の顔がぐにゃりと歪んだ。意識がもうろうとしてくる。もう、目を閉じてしまいたい。楽になりたい。

「玲子!!」

かすむ視界。遠のく意識の中で、最後に将人が私を呼ぶ声が聞こえた気がした。


夢を見た。彼女の夢だった。

彼女は今までのどの悪夢とも、そして最後に見た化物じみた姿とも違っていた。

そこは私の部屋ではなく、真白く何もない空間だった。新品のセーラー服に身を包み、髪も整え、静かにたたずむ、中学生の私。

「玲子」

「ねえ、玲子。ごめんなさい。私やっぱり、手紙、書かない」

彼女の言葉を遮るように私は答えた。

私の答えに、彼女は怒ってはいないようだった。彼女は少し悲しそうに頷いた。

「うん。いいわ。許してあげる。……でも、どうして?」

「もういいの。もう、手紙を書くのはやめたの」

「……玲子、それって」

彼女が何かに気付いたように私の元へ駆け寄ってきた。か弱い腕で、胸元にしがみつく。

「違う、違うのよ。きっと、あなたの考えてることではないの」

彼女は目にうっすらと涙を溜めていた。目で訴えてくる彼女に、どう伝えるべきかと思考をめぐらす。

小さく深呼吸をして、胸元を掴む手をそっと握る。

「もう、手紙にすがるのはやめにするのよ」

それだけで、彼女には言わんとすることを察したようだった。それを全身で表現するように、彼女はぽろぽろと透明な涙を零し、しゃくり上げて泣いた。それはまるで、昔の泣き虫な私そのものだった。

「ごめんね?」

小さな私の頭をそっと撫でると、彼女はうん、と小さく頷いた。

夢はそれでおしまいだった。

一瞬の暗転、そしてフェード・イン。目が覚めるとそこは将人の部屋だった。

「玲子?」

私はベッドに横たわっていた。ゆっくりと起き上がる。横には将人がいた。

「なんで、将人がいるの?」

「なんでって、俺んちだろうが。あれからやっぱり気になって、引き返したんだよ。そしたら、おまえが倒れてて。玲子んち連れてくわけにいかないし、今日は母さん、帰り遅いって言ってたから」

しどろもどろな将人に、説明の途中でぷっと吹き出してしまった。将人は少しむっと口をへの字に曲げた。

「ごめんごめん。でも、ありがとね」

「……また、あいつの仕業なんだろ?」

深刻なトーンで問う将人。一方私は、きょとんと茫然となる。

将人は、彼女と会わなかったの? 目が覚めて将人を見たとき、あの記憶の最後の声が幻聴でなかったのだと、そう思ったのに。

「うん。そう。でも、今度こそ本当に大丈夫。彼女はきっともう現れないわ」

将人は少しいぶかしんでいたけれど、「玲子が言うなら、信じるよ」と言ってくれた。随分と心配をかけてしまったようで申し訳ないと思う反面、心配してくれたことが嬉しいと思った。

「それよりも、ねえ、将人」

将人と向き合う。改まった言い方に、将人もどこか緊張しているように見えた。

私は慎重に言葉を探していた。

彼女に呪われ、手紙が書けなかったときに、私は考えていた。私は手紙に固執しすぎていたのだと。私にとって、手紙は将人そのものだった。そのものだと、思い込んでいた。

手紙は将人ではなかった。そのことに、私は今更、気づいたのだった。

夢の中で彼女と言葉を交わしながら、今ならなんでも言える気がしていた。目が覚めてもその気持ちは変わらなかったから、言うなら今しかないと、そう思った。

「……将人は、変わらないね」

それなのに、出てきた言葉はそんなものだった。私にはまだ、勇気が足りなかったのだった。夢の中では変われた気がしたのに、長年の臆病は、そんなに簡単には変われないのだった。

私の脱力感が将人にも伝わったのか、将人の緊張もなくなって将人は笑い出した。

「玲子も、な。やっぱ、全然変わらねーな」

くすくすと笑い続ける将人に腹が立ってむくれると、将人が必死に笑いを堪えながら、「でもさ」と続ける。

「でも、その髪は似合ってんじゃん。別人かと思った」

その不意打ちめいた予想外の褒め言葉に、私は金魚のようにぱくぱくと口を開け、返す言葉を失ってしまった。

私はその一言の勇気が言えなかったのに、私より一歩先に将人が変わってしまったのが悔しかった。悔しいのに、とても幸福感に満たされていた。


End.


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