第4話

 潤が椅子を寄せ、僕の顎に指をかけた。

 潤の顔が、至近距離にあった。

「目をつぶって」

潤は、長い睫毛を伏せた。

 制服のシャツの、ゆるめたネクタイの襟元から、甘い香りが立ち上った。

 くちばしがふれるような、かすかな接触。潤の手が、僕の肩をつかんだ。僕は、反射的に、身を引いた。

 初めて口づけすることへの、初めて性的な行為に踏みきることへの、何かを失うことへの、子ども時代に別れを告げることへのおそれ。ひとたび踏み込んだら、もう元には戻れないことへの躊躇。相手が級友であり、男子であることの禁忌の感覚。


 潤が、目を開けて、僕の肩から手をはずした。潤は、肩をすくめた。

「ごめん」

あやまったのは、なぜか僕だった。

 潤は、身体を椅子へ戻して、

「こわい?」

と聞いた。

「違うよ……」

僕は、言いよどんだ。

「だったら、嫌い?」

潤は、美しい自分のキスを受けないなんて、どうかしている、とでも言いたげだった。

「潤のことは、嫌いじゃないよ。潤を嫌いな人なんて、いないと思う。潤って、綺麗だし」

僕は、言ってから、顔を熱くした。

 潤は、微笑んだ。


 潤は、ソクラテスがとかプラトンがとか、ギリシャ哲学ではとかローマではとか、わけのわからないことを長々と話した。

「でも、潤は、たくさん経験あるんでしょ?」

僕は、知ったふりをして言った。

「経験?」

潤は、僕の相づちに不満なようだった。

「そんなに、俺が、見境ないと思ってるんだ?」

「思ってないよ」

僕は、潤に関するうわさを、信じなかった。

「だけど、今みたいにせまられると、やっぱりうわさ通りだったのかって……」

僕は、唇を結んだ。


「俺と何かしたくてつけてきたんじゃないの?」

潤が聞いた。僕は、聞き返した。

「潤は、よく、後をつけられるの?」

「たまに」

潤の答えは、用心深かった。

「そしたら、今みたいにキスするの?」

僕は、聞いた。


 潤をつけ狙う上級生らが、具体的に潤に何を要求しているのか、僕は、わかっていなかった。

「上級生たちにも、そんな風に言っているの?」


 幸か不幸か、僕には、これまで、潤に近づく勇気も、機会も与えられなかった。わざわざ危険に近づくことはない、そこまで関心はない、と思っていた。

 だが、いざ二人きりになると、目の前の潤の魅力は、圧倒的で、あらがいがたかった。僕は、己の全てを明け渡し、屈服し、征服されそうな危機に直面していた。


「どうしてキスしようなんて言ったの?」

僕は、湧き上がる期待と、渇求と、そして、しつこく苦い、心を挫くような、錐のように、毒のように、胸を突き刺す、もやもやした疑惑を抱えて問うた。

「揺が、そう望んでいると思ったからだよ」


僕は、潤がせっかく僕に関心を持ってくれたこの機会を、みすみす逃したくなかった。


「だって、俺に近づくなんて」

僕は、潤のさめた表情に、寂しさを感じて、妙に惹かれた。

 そうだ、僕は、潤を見ると、切ないような気持ちになるのだった。僕は、自分の中のわけのわからない切なさと、妙にリンクするような気がして、ここまで引っ張られてきたのだ。

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