第2話

 ある日の下校途上、僕は、潤が僕の前を歩いているのに気づいた。

 潤は、古い二階建ての建物の一階にある、小さな書店に入っていった。書店の外壁は、青灰色がかった、天然石のスレート張りだった。『洋講堂』という看板は、建物に合わせてレトロな文字で書かれていたが、新しいものだった。ガラス戸から中を覗いて見ると、入り口の狭い、天井まで本棚のあるつくりは、昭和風の書店だった。

 僕が、引き戸を開けて、中に入ると、正面の勘定台で、三十がらみの、店主らしき、眼鏡をかけた中背の男が、積んである本の整理をしているだけで、ほかに客はなかった。

 鍵型になった店の、右奥の棚の前に、潤の後姿を見つけた。僕は、さりげなく潤の側へ寄ってみた。潤の華奢なうなじに、黒髪がしどけなくまとわりついていた。

 僕に気づいて顔をあげた潤は、切れ長の目を見開いて、聞いた。

「瑶、だったよな?」

潤の口から、僕の名を聞くのは初めてだった。僕は、潤と、それまで、一度も話したことがなかったのだ。潤の瞳が、まっすぐ僕を見た。

 僕は、頷いた。僕の顔を見て、僕の名を思い出し、呼びかけてくれたことが、この上ない幸運のように感じられた。

 潤の側に、僕の名を覚えていることが恩恵だと感じさせるようなものがあった。その半ば人を怖じさせる気品のようなものの正体が、単にスノビッシュな雰囲気からくるものなのか、何なのか、わからなかった。

 潤が手にしようとしていたあたりの棚を眺めると、僕の知らない難しそうなドイツの詩人の詩集や、翻訳小説が並んでいた。画集のようなものもあった。

「こういうのに興味あるんだ?」

と尋ねると、潤は、一瞬、顔を赤らめた。潤は、僕の問いには答えずに、素早く小さな本を一冊、棚から抜き取って、勘定台へ向かった。

 勘定を済ました潤は、

「二階が喫茶室になっているんだ」

と、振り返った。僕は、潤のあとについて階段を上った。

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