第5話 約束の星空


 目が覚めた頃には、もう辺りはすっかり暗くなっていた。最初はそのまままた三度寝してしまいそうだったのだが、枕にしていた本の内容が頭でぼんやりぐるぐる回ったところで、覚醒した。


「ああああああああああああああ、ヤッバイ!?」


 そこからは早かった。どれだけ眠っていたのだろうか、もしかしたら既に日付が変わってしまっているかもしれない。とにかく急がなきゃ、そう思った。


 足先にイメージを研ぎ澄まして地面を蹴る。およそ人間では考えられない距離を一蹴りで飛んでいく。水辺に到着すると、光を発する虫がチラチラと光っていて綺麗だった。勿論エンデの姿はない。


「クソ、完全に寝過ごしたぞ。とにかく急がないと」


 一気に滝の前まで行き、直前で垂直に跳躍する。魔法の力で大きく飛び上がった僕は、そのまま今度は現象系の魔法で氷の足場を作る。勿論重力に従って落ちていってしまうため、単純な足場には使えない。だが足を設置できるだけでいいのだ。足で触れれば魔法で加速を得ることができる。


 垂直に飛び上がった僕の体は氷の塊を足場に今度は直角に加速する。地面に着地したかと思えば、すぐに地面を蹴る。とにかく今できる全てを尽くして全速力でてっぺんを目指した。


 一〇分くらい経っだろうか、流子が底を尽きて力の限り走っていた僕は、ようやくてっぺんが見えるところまで来ていることに気がついた。一度止まってしまうと、途端に息が荒くなり疲れを感じた。呼吸を整えながら、空を仰ぐとそこには満天の星空があった。見惚れてしまいそうになったが、この景色を一緒に見ようと約束した相手がいるのだ、それまで止まってはいけない。


 そう思ってまた走り出そうとした時だった、それまで聞こえていなかったある音が聞こえたのだ。それは声だった。女の子の、聞き覚えのある声。


 いや、その程度ではない。毎日聞いている声だった。その声は歌を歌っていた。ゆったりとしたリズムで、おおらかな音色で全てを包み込むような、優しい歌声だった。間違いなくてっぺんの先から聞こえてくるその声に、僕は少し耳を傾け、そしててっぺんの先を見据えた。


 そこにはひとりの少女、エンデの姿があった。


 声は別段大きいというわけでもなかった。でもその声は暑さを忘れさせ、空気に触れる肌を敏感にさせた。触れる空気を冷たいと感じたのだ。歌声は空気に溶けて、空に透き通っていった。彼女が胸に手を置いて心をこめれば、どこからか吹いてきたそよ風が草木を優しくなでる。彼女が空に腕を伸ばせば、巻き上がった風が光を運んだ。


 その歌に聞き覚えはなかったのだが、何故だかとても耳に馴染んだ。


 エンデが歌い終えると同時、僕はやっとてっぺんに到着していた。彼女は僕のことを何とも言えない表情で見つめていた。咎めようとしているわけでもなく、怒っているわけでもない、だからといって笑っているわけでもない。いつかの無表情に近い、そんな表情だった。


 月明かりに照らされて見えた彼女の瞳には、やっぱり涙が溜まっていた。それどころか、頬を伝ったのであろう涙のあとも見て取れた。


「来ないかと思ったよ」


 口調は柔らかかった。でも震えていた。僕はなんて答えていいかわからなくて、月並みに謝ることしかできなかった。


「ご、ごめん。気がついたら寝ちゃってて」


「だから言ったのに。ロイだから許してあげるけど、次はないからね?」


「うん、ごめん。ありがとう」


 エンデは空を見上げながら僕の言葉を聞いていた。風で暴れる白髪を耳にかけて、彼女は静かに空を見ていたのだ。僕が遅れてきたことにはそれ以上言及しなかった。それについての不満を吐露したりすることも、いつものような泣き言を言うこともなかった。


 僕は言おうか言うまいか悩んで、歌のことを彼女に話した。


「さっきの歌、聞いてたよ。すごく、綺麗だった」


 エンデはその言葉を聞いて、少しだけ微笑んだ。視線を空から僕に移して、エンデは僕に歩き寄りながら、


「ありがとう。でも声震えてたでしょ、本当はもっと上手く歌えるんだよ?」


「いや、本当にうまかった。あれは何の歌? 僕が知っている歌なのかな」


「さあね、何の歌なんだろ、私もよくわからないんだよね。でも、ロイも知っている歌だと思うよ」


 そう言いながら、僕の目の前まで来たエンデはそのまま止まらないで僕の背中に腕を回した。僕を抱きしめて、体を密着させて、僕の耳元で囁いた。


「来てくれて、ありがとう」


 何を言っているのかよくわからなかった。でも少し考えて、皮肉かなと思った。遅れてきた僕に、結構待ったんだからねと、暗に伝えているのかと、そう思った。でも今回は圧倒的に僕が悪いから、僕は小さく答える。


「来るに決まっているだろ、約束したんだから。それよりごめんな、遅れちゃって」


「いいんだよ、来てくれただけで」


 スキンシップにしては激しいくらいの抱擁だった。最初はただ困惑していた僕だったけど、これでエンデの不安な気持ちが和らぐのならと、僕も彼女を抱きしめた。

 

 エンデは背中が大きくはだけた服を着ていたから肌に直接触れる形になったのだが、思いの外エンデは冷たかった。でもそれが気持ちよかった。


 どれくらい時間が経っただろうか、僕たちは山のてっぺん――と言ってもそんなに高い場所ではないのだけど――で、しばらく抱きしめ合っていた。やがてどちらからというわけでもなく腕を解いた。近くで見るエンデの表情はとても嬉しそうで、にへらと笑っていた。それは紛れもないいつものエンデだった。

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