なんでもない日 - ... and Thistle

 どこまでもどこまでも続く、イエロー・ブリック・ロード。

 それはアリスが迷い込んだ不思議の国ではなく、旧米国のカンザス・シティから竜巻に乗ってきた少女、ドロシーが見た魔法の国の情景だ。その道の先に待っているのは、何もかもが緑色に輝くエメラルドの都。大魔法使いにしてペテン師の待つ場所だったはずだ。

 だが、シスルが見据えている道の先に緑色の王国などなく、いつも通りにちらちらとテレヴィジョンの光を振りまく国の中枢、《鳥の塔》が廃墟の間から顔を覗かせていた。

 果たしてこれは夢なのか、現なのか。それとも、その狭間なのか。

 いつの間にか横に並んで歩いていた少女に視線を移す。少女は、片目だけの瞳で、シスルを眩しそうに見上げている。その瞳の奥に見え隠れするものは、隠し切れない好奇。

 やがて、少女は小さな口を開いた。

「そういえば、お名前、聞いてなかったよ」

「シスル。他の呼ばれ方は無い」

「花の名前だ。きれいな紫で、葉っぱの形が素敵。でも、きっと、触ったら痛いのかな」

「ああ、そうかもな。君は?」

「わたしは」

 シスルの耳に届いたのは、独特な音の構造を持つ、聞き慣れた名前。それはそうだ。この少女の姿を見た瞬間から、それが知った顔であることはわかっていた。ただ、この少女には、シスルが誰なのかわかってはいないようだったが。

 ――この、一種異常な状況を、どう判断していいものかわからないまま。シスルは少女の真似をする。

「花の名前だ。可憐な白、小さな花の連なり。でも、きっと、その毒は人を殺すのだろうな」

「きれいな花には、刺も毒もあるものだからね」

 何が面白いのかわからないが、少女は笑顔を崩さない。不自然なまでに。それとも、この少女にとってはそれが自然なことなのだろうか。わからない。シスルには、わからない。

 一つ道を折れ、二つ折れ。少女とシスルは同じペースで歩き続ける。その間も、少女の質問は終わらない。

「あなたはどうして、死神さんみたいな真っ黒な服を着ているの?」

「色のついた服は似合わないからな」

「あなたはどうして、そんな不思議な眼鏡をかけてるの?」

「目が、光に弱いんだ。視力も低いから、補助装置が埋め込まれてる」

「あなたにはどうして、髪も眉毛もないの?」

「単純に、体毛は手入れが面倒だからさ」

 どうして、どうして。まるで、狼と赤ずきんの問答だ。その間も、シスルは少女を観察し続ける。ふわふわと、少し心もとない足取りで歩く少女の肩では、若草色の上着が揺れている。

 そして、少女は……問う。

「ねえ……あなたは、どうしてそんな体をしているの?」

 片方だけの、花の色をした瞳が、死神の姿を映しこむ。

 シスルは、ぴたりと足を止めた。少女も一緒に足を止める。

「機械の体は嫌いかな」

「ううん、そうじゃなくて……気に障ったならごめんなさい。でも、どうしても気になったから」

 少女は、長いスカートを両手で掴み、シスルを上目遣いで見上げた。シスルは、自然と口元が笑みになるのを感じていた。どれだけ上手く笑えていたか……人間のふりをできていたかは、鏡を見ることができない以上、わからなかったけれど。

「……君は、ブリキの木こりを知ってるだろう?」

 少女は、知っている、とも知らない、とも答えない。だが、知っているはずだという前提で、シスルは淡々と話を進める。

「あれと同じ。なくなった部分を全部取り替えたらこうなった、それだけだ」

 それじゃあ、と。呆然とした表情のまま、少女の口だけがぱくぱくと動く。

「あなたには、心もないのね」

「そう。おがくずを篭めた、絹の心臓もな」

 そうなのだ。

 少女の言うことは、ある意味では何一つ間違っていない。思考と感情を司るのが、数少ない「人」としての部位……脳であるのはわかっていても、この胸を支配している循環器官の鼓動が、酷く単調なものであるという事実は覆せない。

 自分というものが、このつくりものの殻に閉じ込められているような感覚。外の世界に対して、薄ぼんやりとした、しかし確固たる膜を隔てているような感覚は、覆せない。

「……だから。せめて、一番大事なものは見失いたくない、と思っているよ」

 あらゆる意味で、もう二度と、元のかたちに戻ることはできない。

 できないならば、振り返ることに意味はない。

 ただ、己が己であることだけは、見失いたくないと、思っている。どんなに姿や形、求めるものが変わってしまっても。すべては己が生きてきた軌跡の積み重ねであり、変化は過去の否定ではない。

 シスル自身の他に、誰もそこに、過去のシスルを見出せなかったとしても。

 ――それでも、わたしは、ここにいる。

 そう、シスルは口の中で呟いた。何もかもが歪んだ世界の中で、ただ一人。そんなシスルを隻眼の少女が見上げる。不思議なものを見るように。

 シスルは、そんな少女にふと笑いかけ――。

 一時も手放さなかったナイフの柄を握り、少女の胸に刃を叩き込んだ。

 肉を貫き、骨を砕いた確かな感触は夢なんかじゃない。そのまま、少女の体を煉瓦の道に押し倒す。否、もはやそこは黄色い煉瓦の道などではなかった。ろくに舗装もされていない、シスルの見慣れた灰色の道。

 どこからどこまでが幻だったのか、シスルにはわからない。だが、ナイフを引き抜いた瞬間に降りかかった血の熱と赤さだけは、間違いなく本物だという確信があった。

 どうして、と。

 唇だけで、少女は言った。

 否、「少女だったもの」は言った。

「アシンメトリーの相手を、鏡映しにするもんじゃない」

 シスルはにこりともせずに言い放ち――ナイフを握っていない方の手で、少女の右目を覆い隠していた眼帯を剥ぎ取る。

「アンタの《種子》は、左目のはずだ」

 眼帯の下から現れたのは、真っ赤な瞳。シスルの記憶どおりの、瞳孔のない、紅玉のような瞳だった。

 だが、それも一瞬のこと。

 少女の幻は埃っぽい風に流されるように消え去り、代わりにそこに現れたのは、胸を貫かれて息絶えた、呪い師姿の女だった。シスルがその手に握っていたはずの眼帯は、いつしか女の顔を覆っていた包帯の端切れに変わっていた。

 包帯を避けてみれば、意外と若い女の顔があらわになった。だが、ほとんどの部位が爛れていて、元の形を想像するのも難しい。数年前に流行ったという病にやられたのだろうか。そんなことを考えながら、シスルはナイフを鞘に収めて女の全身を観察する。

 よく見れば、女の手には細かな細工の施された小さなナイフが握られている。こんなもので、シスルの鋼鉄の体を貫こうとしていたのだろうか。今まで消えた者たちは、こんなものに殺されたのだろうか。

 だが……十分、あり得る話とも、思う。今見ていたような世界に投げ出され、見たくもない幻を見せられて。そうして、まともな状態でない時に、突然殺される。戻ってこない被害者、錯乱していた生き残り。それらの情報を今更ながらに思い出しながら、女の死体を見下ろしていると、ぽつり、ぽつりと地面に濃い灰色の円が生まれ始める。

 雨が、降る。

 まもなく、それは地面全体を洗い流すような大雨に変わっていった。終末の国の雨には毒がある。もちろんシスルには関係がなかったから、禿頭に雨を浴びながら、濡れそぼっていく女を見つめていた。

 やがて、この女の血も、雨に洗い流されていくのだろう。

 女の横に膝を突き、見開いたままだった目を、そっと閉ざしてやる。どれだけの死をもたらした人間であろうとも、人一人に対する死は平等だ。最低でも、シスルはそう思っていた。

 すると、不意に声がかけられた。

「どのような心もちかの?」

 振り向けば、去ったと思われたアンジェリンが、レースのついた雨傘を広げてにやにや笑っていた。

「……悪趣味だな、お嬢さん。どこまで見てたんだ」

「最初から最後まで、と言ったら?」

 それはつまり、あの少女と出会ったことも、あの不可思議な問答も全て見られていた、ということか。それとも、あれは全て幻で、アンジェリンから見ればシスルがこの女と下らない話をしていた、ということなのだろうか。

 泥と血交じりの水溜りに足を踏み入れて、真っ赤な靴が汚れるのも構わずアンジェリンはシスルの横に立つ。そして、独り言のように言葉を紡ぐ。

「旧い魔法使い。《スターゲイザー》と同様の、『ここ』と『ここでない場所』を繋ぐ者よ」

「……魔法、か。実際に体験したのは初めてだな」

 そう、呼ばれるものがあることは知っている。それが誰かの妄想などではなく、単に科学で解明できないというだけの「技術」であることも。この国においては、塔がそれを認めていないというだけで、魔法の存在は誰もが信じるものであった。

「この娘は、自分と他者を繋ぐ術を心得ておったのだろ。その者の望む風景や人物を見せて、惑わせるのは魔法使いの十八番だからのう」

 果たして、あれが自分の望んだ風景だったのだろうか。

 シスルは疑問に思う。灰色の廃墟の間に突如として現れた、極彩色の情景。おとぎ話の一部分だけを切り取った、不恰好で醜悪な世界。それに。

「……なら、どうして、鏡映しだったんだ?」

 シスルの前に現れた少女は、シスルの知識をそっくりそのまま反転させた見かけをしていた。単に、心のなかの情景を投影しただけというならば、鏡写しである理由もない。

 もちろん、それをアンジェリンが知っていたとは思えない。だから、シスルの言葉は本当に誰に向けたものでもなかった。

 だというのに、アンジェリンはさらりと言ってみせる。

「お主が、鏡映しで記憶していたからじゃろうて」

 その言葉に、シスルは――あの少女の顔を、本当の形では知らなかったことに、気づく。眼帯に隠している、不思議な瞳が左目であるという事実以外には、何も。

 アンジェリンは、ぱしゃりと水溜りを蹴って、シスルに背を向ける。

「さあさ、よい子は帰りの時間じゃ。逢魔ヶ刻に出歩くものではないぞよ」

「それはこっちの台詞だ。ミスター・ベルトランが心配するぞ」

 アンジェリンはくすくす笑いながら、柔らかそうな服の裾を揺らして歩いていく。傘があるとはいえ、全く服に濡れた様子がないのは、まるで先ほどまで見せられていた幻の延長線上。

 幻の少女の笑顔が、脳裏にちらつく。好奇に瞳を煌かせていた、鏡映しの少女。

「全く……どこまで知ってんだ、あのお嬢さんは」

 アンジェリンの背を追おうと足を踏み出しかけて、やめる。

 この場に残していく死体を振り返り、何気なく、目を覆っていたミラーシェードを少しだけずらして――。


 花の色をした隻眼に、名もなき女の死を焼き付けた。

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