日曜日の午睡 - Winifred Bierce (1)
シスルは、ほとんど体重を預けるように部屋の扉を開けた。外套の袖に隠れてわかりづらいが、その左腕は二の腕の辺りから完全に奪い去られている。ただ、痛覚を切り、応急手当てを施しているため、意識するほどでもない。
今、シスルの頭を支配しているものは、たった一つ。
――眠い。
ふらつく頭を押さえ、何とか顔を上げる。
機械仕掛けの身体は、定期的な整備を怠らなければ睡眠など必要としない。だが、脳だけは駄目だ。適切な栄養と休息。それらが揃わないと、優れた身体能力を生かすこともできなければ、いざという時の判断力も鈍る。
それでも、仕事によっては三日三晩眠ることができない、などということはままある。最も得意とする護衛の依頼など、まさしくそれだ。依頼人から目を離さず、常に敵襲に気を張っていなければならない。その場合は薬で覚醒状態を維持することになるが……薬が効いている間はともかく、薬が切れた後は必ず、意識を闇に引きずり込もうとする空想上の腕と、激しい戦いを繰り広げる羽目になる。
まさに今がその時であった。
朦朧とした意識の中でも、体は自然と動いて扉に鍵をかける。日々の動作は、体に染み込んでいるということなのかもしれない。その「体」も、自身本来のものではなかったが。
千鳥足でベッドの横にまでたどり着き、外套も脱がずに身を投げ出す。硬めのマットレスが、背丈の割に重たい体を受け止めて軋んだ音を立てるのを、聞いた気がした。
だが、その音も、耳元で聞こえていたはずなのに遥かに遠く。誰かが自分の名前を呼んでいたけれど、それが誰の声か判別することもできず。かろうじて現実を認識していた意識は、眠気という名の腕に絡め取られて、闇の中に落ちていった。
記憶の片隅に、赤い花が咲く。
痛みも温度も感じない空間に、赤い花が咲き乱れる。野に咲く花。名前は思い出せない。そもそも、この花はこんな色で咲くものだっただろうか。鮮やかなイメージの中、何かが体を包み込んだ。
それは、自分を抱きしめる両腕であった。
ぬくもりも、もう感じることはできなかったけれど……瞳に映ったそのひとが、ぼろぼろと大粒の涙を零しているのを見て、思わず、頬に手を伸ばしていた。
なかないで、と。
唇だけで、囁く。
湧き上がってきた思いで視界がぼやけ、そのひとの泣き顔も曖昧になる。それでも、体を抱きしめる力が、更に強くなったような気がして。
それから、不意に、声が聞こえたのだ。
「生きたい?」
いきたい?
そんなの、わかりきっている。
最期の最期に抱きしめてくれたそのひとを、もう、完全に力を失ってしまったそのひとの体を掻き抱き、既に壊れてしまったはずの喉で叫ぶ。
「生きたいに、決まってる……!」
『おはようございます! ヴィクトリアです。今日も一日、頑張ってくださいね!』
――ぼうっとしていた。
その事実に気づく。確か自分は家主に頼まれて、掃除をしていたはずだったのだが……手元には無残に砕けた花瓶。つくりものの真っ赤な薔薇が、机の上に散乱していた。赤。赤。赤。瞼の裏に焼き付くイメージを、瞬きで追い出す。
またやってしまったなあ、とつるりとした頭を掻く。まだ身体に慣れていないということもあったが、こうなる前から、ちょくちょくコップや皿を割っていた気もする。不注意さは、一度死んだくらいでは治らなかったようだ。
手早く陶器の破片を纏めて包む。自分の過失で家主の手を傷つけるようなことは、あってはならなかったから。集めた造花の薔薇は、とりあえず机の上に置いておく。
そうしている間も、机の片隅に置かれた、旧いラヂヲがノイズ交じりの音声を垂れ流している。窓の外に聳える
《歌姫》。それは、塔が定期的に募集する、キャンペーンガールのようなものだった。滅び行く世界を生きる人々に、歌という媒体を通して希望を示すもの。悪く言ってしまえば、ただ歌うだけの偶像。そんな、何代目かもわからぬ《歌姫》が、ラヂヲの向こうで鈴のような声を立てていた。
『それでは、今日の歌、聞いてください』
タイトルの部分はノイズに紛れ、聞こえなかったけれど――すぐに、ピアノとヴァイオリンの音色が響き渡り、歌が始まる。歌詞は酷く陳腐なものだが、ヴィクトリアというらしい《歌姫》の歌声は、伸びやかで張りがあり、それでいて優しい響きをしていた。
掃除を続けるシスルは自然と《歌姫》の声を耳で追い、つられるように歌を口ずさみ始めていた。
歌に限らず、音楽は好きだった。無くても生活には困らないが、心を揺さぶるだけの確かな力を持っていたから。
ただ――。小さな声で歌いながら、ラヂヲに目をやる。
彼女らの声を聞くたびに、塔に選ばれ、《歌姫》として表舞台に立つ少女、そして別の形で《歌姫》に「選ばれた」少女たちの行く末を、ふと考えずにはいられない。考えたところで、どうなるわけでもないのだが。
その時、来客を告げるベルが鳴った。それを追いかける、ぱたぱたというスリッパの音。家主が来客を迎えているのだろう。シスルは歌うのを止め、ラヂヲの音量を下げた。すると、家主の甲高い声がはっきりと聞き取れた。
「あれえ、どうしたの、ミシェル!」
――ミシェル?
聞き覚えのある名前に、思わず扉の方へ寄って耳を澄ませる。すると、男の声が家主の声を追いかけてきた。
「久しぶり、ウィニフレッド。元気そうで何よりだ」
「おかげさまでっ。ミシェルも元気そうだねえ、いつになくつやつやしてるよ?」
「はは、やりがいのある仕事が多いからかな」
「相変わらずのワーカホリックだねえ。あたしには真似できないよう」
家主は子供のような舌足らずの言葉遣いで言う。ミシェル、と呼ばれた男はくつくつと押し殺した笑い声を立てながら、言葉を続けた。
「実は、今日は上からの指示でね。上がっても構わないかな? それとも作業中かい?」
「別にいいよー? ちょっと待っててね。おーい、お客さんが来たからお茶用意しておいてー」
家主の言葉の後半は、扉の後ろで息を殺していたシスルに向けられたものだった。シスルは「わかった」とだけ言って、台所に向かう。
研究に没頭するあまり食事に気を遣わない家主に代わり、普段からシスルが食材管理と調理を請け負っている。とはいえ、家主が欲するままに買い揃えた結果、今や棚のほとんどが菓子で埋め尽くされつつあった。
過去の記憶を引っ張り出し、今手元にある茶に合う菓子を選別する。結局、シスルが用意したのは歯ざわりがよく、口の中でさらりと溶けるラングドシャ。それを二人分皿の上に並べ、家主の管理の悪さで黄ばんだ茶器と共に客間に運ぶ。
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