金曜日の追憶 - Sylvie Leclair (2)
「……ん……」
薄暗い部屋の中に、小さな声が生まれる。
シスルは台所から顔を覗かせて、寝台の上で何かがもぞもぞ動いているのを確認すると、とりあえず火を止めてそちらに向かった。
寝台と、小さなテーブルが一つ置かれているだけの、がらんとした部屋。見慣れたその場所に、今この瞬間だけ、いつもと違うものがあった。
寝台の上に横たわるのは、女――塔の代行者。
糊のきいた上着は寝台の隅にかけられ、ブラウスの釦は全てシスルの手によって外されている。先ほどまで苦しげだった呼吸は幾分落ち着いてきているようだった。
しばし、そんな女を眺めていると、もう一度小さく呻いてうっすらと目を開けた。そして、今度はぱっちりと目を開けて、二、三回瞬きをして……視界の中にシスルの姿を認めると、弾けるように起き上がった。
「貴様、何をした!」
「何もしてない! 何もしてないから!」
シスルが慌てて弁解すると、女は「そうか」と言いかけ、直後に自分の胸元が外気にさらされていることに気づき、真っ赤になって前を隠す。
「なら、どうして服が乱れてるんだ!」
「苦しそうだったから、緩めてやっただけだ。思ったより胸が大きくて眼福とか思ってないぞ」
かぁん、とやけにいい音を立てて、投げつけられた金物のコップがシスルの禿頭を直撃した。女が目覚めた時のために寝台の横に置いておいたものだったが、水が入っていなくてよかった、と思わずにはいられない。
「思ってないって言ってるじゃないか」
「思ってるからそういうことが言えるんだろう!」
「それもそうだな」
すかん、と今度は金物の皿が頭に当たった。いくら全身機械仕掛けとはいえ頭の中だけは生身なのだから、あまり乱暴に扱わないでほしいものだ。
手元の食器を全て投げつけた女は、半ば泣きそうな顔になって、シスルを睨み付けている。これにはシスルも、真面目なお嬢さんをからかいすぎたと気づいて素直に頭を下げる。
「悪かった、やましいことをしていないのは本当だから、少し落ち着いてくれ」
「これで、どうやって落ち着けと……」
「わかった、私はこれ以上近づかない。手を出さない。そっちも見ない。それで容赦してくれ」
言って、シスルは女に背を向けた。女はぜいぜいと息を荒げてこちらにあからさまな敵意を向けていたが、やがて自分が置かれている状況の異様さに気づいたのだろう、ぽつりと問いを投げかけてきた。
「――ここは?」
「私の部屋だ。アンタが突然倒れたもんだから、放っておくのも忍びなくてな」
「私が、倒れた……?」
どうやら、倒れたその瞬間のことは、記憶していないようだった。シスルは再び台所に向かいながら言う。
「すごい熱だったぞ。今は大丈夫なのか?」
「あ……ああ。少し、頭痛はするが」
「なら、もう少し安静にしててくれ。また途中で倒れられでもしたら、こっちが悪いような気になる。喉が渇いたなら、そこの水差しから注いでくれ」
返事はなかったが、シスルは構わず台所に戻って料理の続きを始めた。料理と言っても、味をつけた粥、というとても簡単なもの。食事を必要としないシスルではあるが、人の体を持っていた頃の名残で料理はできる。味覚がないため微妙な味の調整はできないものの、使うものと分量さえ間違わなければ食べられるものにはなる、というのがシスルの持論であった。
後ろでは、微かな衣擦れの音が聞こえる。多分、上着に袖を通しているのだろう。その音が聞こえなくなったのを見計らって、声をかける。
「……そろそろ、そちらを見て構わないかな」
「ああ」
不機嫌そうな声が帰ってくる。それでも、いきなり噛み付かれることはなさそうだ、と安堵して、粥の入った鍋を両手に持って振り向く。
寝台の上に座った女は、会った時と同じように、隙なく漆黒のスーツを着こなしていた。ただ、柔らかそうな短い黒髪には、微かな癖がついてしまっていたけれど。
青い目でこちらを睨む女の前で、粥を皿の上に盛り付けて。お気に入りのスプーンを添え、そっとテーブルの上に差し出す。
「どうぞ、お嬢さん」
「お嬢さん、というのはやめろ。私にはシルヴィ・ルクレールという名前がある」
「ああ、申し訳ない、ミス・ルクレール」
そういえば、お互いに名乗ったことはなかったのか、とシスルは今更ながらに思う。今までに、仕事で何度か刃を交えたことはあるが、そんな間柄では名前を名乗りあう機会などないはずだ。殺し殺される相手の名前など、聞いたところで意味がないのだから。
シスルは、元より女――シルヴィ・ルクレールの名を知ってはいたけれど。
「ミス・ルクレールは、私の名をご存知なのかな」
「シスル。そう呼ばれていたな」
花の名前だ、とシルヴィは付け加える。シスルはにっと歯を見せて、気障っぽく胸に手を当てる。
「アンタのような素敵なお嬢さんに名を覚えられているとは、光栄だな」
「全く似合わない名前だから、印象に残っていた」
「放っといてくれ」
似合わない、ということくらい自覚している。こんな無骨ななりの機械人形に、野に咲く花の名前なんてらしくない。そう、自分自身でも思う。それでも、造り手によって与えられた「シスル」――「薊」という名前は決して嫌いではない。
己の心のありさまを、この胸に誓った志を、正しく言い当てていると思うから。
とにかく、とシスルは気を取り直して、テーブルの上の皿を指す。
「口に合うかはわからないが、よかったら食べてくれ。冷める前に食べた方が美味いはずだ」
シルヴィは、手袋を嵌めたままの右手でスプーンを取り、粥の表層をつつく。ただ、なかなか口に運ぼうとはしない。ここまで来てまだ疑われているのだろうか、と苦笑を浮かべて腰に手を当てる。
「変なものは入れてないぞ。……まあ、毒見しようにもこの体だからな。信じてもらうしかないんだが」
「いや」
シルヴィの唇が小さく動き、何かを囁いた。シスルが「うん?」と顔を近づけると、シルヴィは顔を赤くして、先ほどよりははっきりと、言った。
「……猫舌、なんだ」
「そ、そっか」
素で返してしまってから、ふうふうとスプーンの上の粥を冷ますシルヴィを、黙って見下ろす。
案外かわいいところもあるじゃないか、と思いかけて、すぐに考え直す。
先ほど、この女にプライベートがあるという事実に驚いたが、それと今思ったことは、全く同じ根を持っていることに気づいたのだ。自分はこの女について、何も知らない。シルヴィ・ルクレールという名前と、塔の代行者であること以外には、何も。
粥を口に含もうとして、まだ熱かったのか慌ててスプーンを口から離す、そんな一連の仕草を暖かく見守っていると、シルヴィは目を上げて半眼でシスルを睨んだ。シルヴィから、ミラーシェードに隠されたシスルの目が見えているとは思えなかったが、真っ直ぐにシスルの目を見据えている、そんな錯覚を覚える。
「……何を見てるんだ」
「いや、何でもないさ」
素直に「かわいいと思って」と言ってもよかったが、今度こそ粥が入ったままの皿を投げつけられかねない。ここは、黙っておくのが利口だ。
その代わり、一つ、聞きたかったことを聞くことにした。
「なあ……アンタ、さっき、どこに行こうとしてたんだ?」
水を一口含んだシルヴィは、無言でシスルに応えた。あくまで話す気はない、ということなのだろう。ならば、とシスルは攻め方を変えることにした。
「外周北地区なんて、何も面白いものはないと思うんだがな。数年前に起こった事件の現場くらいか? だけどそんなもの、見たところで――」
「事件?」
シルヴィは、予想したとおり、シスルの言葉にあからさまな反応を示した。皿とスプーンをテーブルの上に置いて、搾り出すような声を立てる。
「知っているなら聞かせてほしい。一体……あの場所で、何があった?」
何があった、と来たか。シスルは、顎に手を当てて考える。問われたことに対して、正しく答えるのは難しいことではない。だが、答えてしまっていいものか、とも思うのだ。まずは、目の前の女が何をどこまで知っているのか確かめたくて、問いに更なる問いを重ねる。
「むしろ、アンタの方が何か知らないのか? 事件の詳細は塔が隠蔽してるらしくてな、私も噂でしか知らないんだ」
「私は……っ」
口を開きかけたシルヴィは、ひゅっと息を飲んで頭を抱えた。肩を震わせ、苦しそうに表情を歪める姿は、明らかに尋常ではなかった。シスルは慌ててシルヴィの側に膝をつき、軽く肩を叩いてやる。
「どうした、しっかりしろ」
呼吸を整えようと喘ぎながら、シルヴィは苦しげに呻く。
「気に、するな」
「気にするなって言われても無理だ。もう少し寝てた方がいいんじゃないのか」
「……問題ない。それより、話を続けたい」
頭を押さえたまま、顔を上げる。その青い瞳に宿った意志の強さに、シスルは喉から出かけた制止の言葉を飲み込んでしまう。きっと、真面目に制止したところで、この女は聞き届けてはくれないだろう。どう切り込むべきだろう、と考えた末にわざと軽い口調を作って言う。
「そんな怖い顔で詰め寄られても困るな。そうまでして、私から何を聞きだそうっていうんだ」
「私は何も知らない。だから、知りたいんだ。かつて、あの場所で、何があったのか」
そこで一旦言葉を切り、シルヴィは虚空に視線を彷徨わせる。熱に浮かされたような表情で天井の辺りを睨むシルヴィの輪郭は、やけにつくりものめいていた。実際に「つくりもの」であるシスルが、どきりとするほどに。
やがて、形のよい唇が開かれて。
「――私はその時、あの場所にいたのか。いたとすれば、何をしていたのか」
鈴のような音色を、降らせる。
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