千刺万紅

青波零也

なんでもない日 - Angeline Haze and XXXX

 嫌な天気だ。

 漆黒の外套の裾を捌き、早足に路地を歩く禿頭の青年は、目を覆うミラーシェードの下で二、三回瞬きし、頭上に広がる空を見上げる。晴れない空を覆う雲は、いつになく黒く、低く垂れ込めている。この様子だと……。

「降り出しそうよのう、シスルや」

 猫なで声が、路地に響く。通常の人間よりも遥かに優れた聴覚を信じてそちらに視線をやると、塀の上にちょこんと座り込む影があった。真っ赤なエナメルの靴を、触れたら折れてしまいそうな足の先に引っ掛けているのは、金色の髪を肩の上で揺らす少女だった。鮮やかな色の雨傘を肩にかけ、仏蘭西人形のような端正な顔を青年――シスルに向けて、艶やかに微笑んでみせる。

「そんなに急いでどこに行く? 白兎でも追いかけておるのかえ?」

 少女の小さな口から放たれるのは、幼い顔立ちに反した古風な言い回し。しかし、その不釣合いさこそが、この少女にはよく似合っていた。

 足を止めたシスルは、意識して口の端を歪めて「あのなあ」と苦笑する。

「アリス・リデルってガラでもないだろ」

 青白い肌に黒い衣という出で立ちのシスルは、兎穴に飛び込む夢見人というよりは、冥府の穴から這い出てきた死神だ。そして、今この瞬間シスルが担っている役割も、結局のところ死神と何一つ変わりはしない。そんな自分を、どうして不思議の国に迷い込む少女に喩えられよう。

 塀の上の少女は、とうに世界から失われた晴れの青を湛えた双眸でシスルを見下ろし、ころころと笑う。

「ありもしない世界に心を遊ばせるのは、お主の得意技であろう? もちろん、お主のみの特権でもあるまいが」

「それでも、ハートの女王が君臨するナンセンスの世界は御免だな」

 シスルもつられるように笑みを浮かべる。その口元は幾分か引きつって見えるが、意図したつもりはない。白く滑らかな皮膚の下に隠されたつくりものの表情筋は、宿主の感情をそのまま反映させるには少々不器用すぎるのだ。

 モノクロームの死神と鮮やかな色彩の少女は、お互いにどこか歪な笑みを湛えて、灰色の世界で向かい合う。

 やがて、少女が桃色の唇をそっと開いた。

「で、その格好を見るに、これから仕事かのう?」

「ああ」

「きっと、殺しの」

「……見ただけでわかるもんなのか、それは」

「否定はせんのだな」

 にやにやと笑う少女に、シスルは曖昧な表情で応える。これは、何も表情筋が上手く働かなかったからではなく、本当にどういう表情をすべきかわからなかったからだ。

「殺しは苦手じゃなかったのかえ?」

「苦手だ。だが、こちらが提示した条件を飲んだ上でご指名いただいたんだ、苦手を理由に断る気はないし、一度請けたなら完遂のために全力を尽くす義務がある」

「相変わらず、仕事に関してはクソ真面目だのう」

「信用第一の商売なんだ、そこだけは真面目じゃないとな」

 軽く肩を竦めるシスルに対し、少女は傘を掲げ、塀の上に軽やかに立ち上がる。不安定な足場にも関わらず、バレリーナのように一回転すれば、レースをふんだんにあしらったスカートがふわりと揺れる。布の重なりが生み出すふくらみをつい視線で追いかけてしまったシスルににやりと笑いかけた少女は、調子の狂った節回しで歌い始める。

「アリス、アリス。誰と話しているんだい? 誰にナイフを刺すんだい? よく目を凝らして見てごらん。首切る相手を違える前に」

 意味深な言葉を並べ立て、少女は音もなくシスルの前に降り立った。その存在自体が夢か幻であるかのごとき少女は、口を笑みの形にする。

「ま、せいぜい気をつけるがよい。兎の穴はなかなかに深く暗いものよ」

「……どういうことだ、アンジェ」

「さあのう?」

 くるり、と。シスルの視界の中で水玉模様の傘が回されて、次の瞬間、忽然と少女の姿は消えていた。さながら、アリスの前に現れては消えるチェシャ猫のように。

 とはいえ、アンジェ――アンジェリン・ヘイズという名で呼ばれている彼女が不意に現れて、気づけば影も残さず姿を消しているのは、シスルにとって「いつものこと」だ。いつ見ても不思議ではあったが、さりとて気に留めるようなことでもない。

 気を取り直して、視線を道に戻す。目を隠すミラーシェードには、弱い視力を補う機能がいくつか備わっていて、あやふやな世界の輪郭を補正している。そうすることで、灰色に沈みゆく世界にあっても、己の立つ場所を見失わずに済む。

 瞼の裏にちらつく少女の色彩を振り払って、前へ。

 見慣れた外周の町並みは、やがて知らない景色へと移り変わっていく。元より人気の少ない道を選んで通ってきたが、それでも今までの景色の中には人の息遣い、生活感が感じられた。だが、今シスルが辿りついた場所には、それすらも感じられない。終末の国の首都たる裾の町にあって、誰からも見捨てられた場所が、崩れかけた廃墟に見下ろされる形でそこにあった。

 このような場所に人が立ち入るのは極めて稀だ。だが、もちろんこういう場所に用のある人間だっているだろう。その用件は人それぞれだろうし、シスルも興味はない。

 ただ、このような場所に足を踏み入れて、永遠に帰ってこなかった、となれば話は別だ。

「……兎の穴、か」

 殺風景な世界を見渡して、シスルは誰にともなく呟く。

 先ほどの少女が嘯いていた、言葉を。

 兎の穴。やわらかな日差しが降り注ぐ日、ちいさな少女アリスは時計を持った白兎を追いかけて、穴の中に入っていった。

 今、シスルは今にも泣き出しそうな空の下、一人、いるかどうかもわからない標的を追いかけて、廃墟の只中を歩いている。

 その時、だった。

 シスルの視界を、突然動くものが横切った。レンズ越しの視覚は、それが確かに背の低い人間であることを捉えていた。そして、それを理解するよりも先に、足が動き出していた。建物に隠されてしまった、人影を追って。

 ブーツの底が荒れた地面を踏みしめ、シスルの体を前に押し出す。一息で人影を見た場所まで駆け抜けたシスルは、影が向かった方向に視線をやる。

 ――いた。そう、離れてはいない。

 だが、相手もこちらに気づいているのだろう、無防備な背を向けて、短い足で道の向こうに駆けていこうとしていた。包帯をぐるぐると巻いた奇妙な頭に、褪せた色の襤褸を幾重にも重ねたような衣装。そのあちこちには、金属の板のようなものが揺れているのが、見えた。

 奇妙な格好だ。ただの浮浪者、という様子ではなく……まるで、遠い日の絵本で見た呪い師のよう。

 そして、これらの特徴は、シスルが殺すべき標的と一致していた。

 廃墟に足を踏み入れる者は、ことごとく帰ってくることはない。ただ、たった一人。無残な姿になりながらも、かろうじて息をして廃墟を抜け出した者が、事切れる直前に下手人の特徴を伝えた。それがまさしく、今シスルが目にしているもの。

 なぜ、殺そうとしたのか。どのように、殺そうとしたのか。それは、シスルも知らない。生きて帰ってきた男は酷く錯乱していて、夢とも現ともつかない言葉を口走っていたというから。実際、シスルがこの目で見るまでは、相手の特徴すら夢の中の産物ではないかと思っていた。

 だが、実際に目にしたとなれば話は別だ。

 なぜ、どのように。それは、シスルの知ったことではない。シスルが請けた依頼は、あくまで「廃墟地区に潜む殺人犯を殺せ」。その依頼を完遂するために、機械仕掛けの脚力で標的に追いすがる。

 だが、シスルの手が標的の服の裾を掴むか掴まないか、という距離にまで迫ったところで、標的はくるりと体の向きを変え、更に細い道へ飛び込んだ。地の利は向こうの方が上、逃げ込むべき場所は心得ている、ということだろう。

 しかし、あと一歩。

 シスルは片足で一旦ブレーキをかけ、標的が逃げ込んだ道に続けて飛び込んだ、瞬間。

 シスルは、己の目を疑った。

 廃墟と廃墟の狭間は、煉瓦で舗装された道だった。色とりどりの箱を積み上げたような奇怪なオブジェが、道の横に立ち並んでいる。立ち並ぶ廃墟と灰色の空はそのままだったが、突然世界に鮮やかな色が生まれて、シスルの視覚を否応なく狂わせる。

 包帯を巻いた人影は、どこにも見えない。

 まずい、と思って背後を振り返っても、数秒前に通ったはずの道は、並ぶオブジェと同じもので塞がっていた。よく見れば、オブジェには現実感の無い、紙で作ったような花がぽつぽつと咲いている。

 まずは自分の正気を疑うべきなのだろうが、疑うのが自分自身である以上、正しく判断を下すのは無理なので、その疑いは意識の片隅に追いやる。足元に広がる黄色い煉瓦を爪先でこつこつやってみるが、特におかしなところは見受けられない。オブジェも気になったが、触れるのは躊躇われる……。

 さて、どうしたものか。

 この異常な風景を前にしても、さほど心が波立たないことが自分でも不思議だ。とりあえず、立ち止まっていても仕方ないのだ、この先に逃げたのであろう標的を追うしかない。

 何を仕掛けられてもよいように、腰のナイフに手をかけて足を踏み出しかけたその時、

「こんにちは!」

 場違いに明るい声が、頭上から降ってきた。

 はっとして視線を上に向けると、階段状に積み上げられたオブジェの上に腰掛ける小さな影があった。だが、先ほどまでシスルが追いかけていた標的と別人なのは、その、やせっぽちのシルエットからも明らかだった。

「あなたはどなた? 知らないひと」

 二、三回瞬きをしたところで、シスルの目が正常な視力を取り戻す。そして、そこに座っているのが、一人の少女であることを知った。白い肌に、白い髪。先ほど出会ったアンジェリンと比べるまでもなく、酷く貧相な体つきをしている。

 だが、一番目につくのは、その少女の片目を覆った医療用の眼帯だ。片目が悪いのか、それとも――。

 内心の動揺を隠して、シスルは少女に向かって微笑んでみせる。

「ただの、何でも屋さ。お嬢さんは?」

「ただの、女の子だよ」

 にこにこと笑って、少女はシスルの口ぶりを真似て答えた。シスルは呆れ顔になって、少女に言葉を投げかける。

「ただの女の子が、こんな場所にいるのは奇妙な話だな」

「うーんと、実はね、不思議な格好をした人を見かけて、気になって追いかけてたら、こんなとこまで来ちゃったの」

 あなたもそうかな、と首を傾げる少女に、シスルは小さく頷いてみせる。

「だが、見失ってしまってな」

「それなら、あっちに走っていって、右に曲がって……って、案内した方が早いかな。その先は知らないけど」

「……助かる」

 シスルは、答えながらもナイフから手は離さない。それを知ってか知らずか、少女は「わかった」と軽く答えて、兎のようにオブジェの箱から下りてきた。煉瓦の道に降り立った少女は、シスルよりも少しだけ背が低い。そして、近くで見ると、折れてしまいそうな細さがなおさら際立って見えた。

 枯れ枝のような手でシスルを手招いて、少女はとことこ歩き出す。肩の上で揺れる白い髪は、微かな朱を混ぜているようにも見えた。

 なるほど、兎の穴――不思議の国は、あまりにも深く、あまりにも暗く、その向こうを見通すことはできないものだ。

 チェシャ猫のような極彩色の少女の言葉を思い出しながら、白い兎の背中を追って、シスルはおかしな世界の奥へと歩き出した。

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