第6話



「お帰り、和泉」


 帰宅した和泉を、五樹の声が出迎えた。

 ちょうど、休憩を取ろうとしていたところだったらしい。リビングから出てきた彼の手には、コーヒーカップとクッキーの袋があった。


「……ただいま、五樹さん」


 やはり慣れないなと思いながら、和泉も答える。

 脱いだ靴を玄関の隅に揃えて階段を上がると、下から彼の声が追いかけてきた。


「どうだい、成果は」

「まったくですね。三週間前から何も変わっていません」

「本当に?」


 問いかけに、思わず振り返る。五樹は微笑している。


「嘘を吐いてどうするんですか」

「お前が行動を起こした。それだけでもう、変化は始まっていると言える。投げた石が水面に作る小さな波紋は、やがて岸辺にも届くだろう」


 それを聞いて、和泉は溜息を零した。

 詩的で芸術家めいた、いかにも五樹らしい言い回しだ。


「すみません。詩人ごっこにはまた付き合いますので、今日は休ませてください」

「おい、和泉――」

「他人に振り回されすぎて、どうにかなってしまいそうなんですよ」


 会話を切り上げる。不意に貴士から聞いた――五樹が〈死者の行進〉と同じダンス・マカーブルをテーマにした作品群を作ろうとしていたらしいという話を思い出したが、今はそれを訊ねてみる気にもなれなかった。

 自室のドアを引いて、ベッドの上に四肢を投げ出す。

 疲労がどっと襲ってきた。

 ここ数ヶ月で他人との交流にも随分と慣れたつもりだったが、いかんせん出会いが多すぎた。それも個性的な人ばかりで、順応しようにも体力が追いつかない。

 精神力も、だが。

 ――貴士はどんな結論を出すのだろうか。

 無理だと叫んでいた貴士の顔を思い出す。

 彼も〈死者の行進〉には並々ならぬ思い入れがあるようだが、今回ばかりは駄目かもしれない。もとより、彼は粋がっているわりに打たれ強くはない。

 あまり、期待をするべきではないだろう。そんなことをぼんやりと考えながら、和泉はごろんと寝返りを打った――と、

(……あ)

 鈍い金色の輝きが視界に映る。

 唐草蛍と別れた後に拾ったオイルライターだった。絵の修復ばかり考えていたために、すっかり忘れてしまっていた。手にとって、改めてそれを眺める。持ち主が大切にしていたのだろう、古さを感じさせる代物ではあるが表面はよく磨かれていた。

 親指で、蓋を押し上げる。着火用の芯は交換されていた。新しくしてからまだ一度も使っていないのか、綺麗なままだ。火を点けることも躊躇われて、燃焼部を調べる。ここも、すすが綺麗に拭われていた。そのことを、和泉は少しだけ訝った。

 アンティークライターとは違う。ヴィンテージものでもない。

 しかし、愛用品にしてはここ最近での使用感がない。さほど重要なことではないのかもしれないが、どうにも引っかかる矛盾だった。

 蛍のものだろうか。

 蓋を戻してライターの表面を調べる。

 和泉はその裏側に小さく刻まれたイニシャルを見つけた。

 S.K――


「唐草……蛍、ではないな」


 Kは唐草を示しているのかもしれないが。

 そんなことを考えながら猶もライターを眺めていると、視界の端を零れ出た〝想い〟が過ぎった。


「遺品?」


 恐らく、そうだ。

 そう認識した瞬間に、誰のものともしれない想いが流れ込んでくる。

 拒絶をする暇もない。まるで話を聞いてくれと急かすように、ライターから漂っていた想いが像を結び一つの景色を作り出す。



 黄昏時の繁華街。

 まだ陽は暮れきっていないが、薄群青の空は夜の気配を含んでいる。看板の明かりもぽつぽつと灯り初め、居酒屋などがゆるりと開店準備を始める――そんな時間だ。黒い影が蠢く人混みの中に女性のような人影と連れ立って歩く、一人だけ姿の鮮明な男――彼が、このライターの持ち主なのだろう。

 唐草蛍に縁のある故人か、目元に少しだけ彼女の面影が表れていた。

 連れをエスコートしながら、男は人の合間を縫って歩いて行く。

 店の看板を見上げては隣に話かけて、晩餐の相談でもしているのだろうか。やがて、勢いよく走ってきた小さな影が彼にぶつかった。その拍子に男のポケットからライターが零れ落ちたが、気付かない。転んだ小さな影に手を差し伸べて起こしてやると、彼はまた歩き出した。そこから数歩。男の足が再び止まった。

 背後から声をかけられたようだった。怪訝な顔で振り返る――

 つい先程まで彼らが立ち止まっていた場所に、一人の少年が佇んでいた。彼の身を包む紺色のブレザーはなんの特徴もない地味なデザインだが、襟のあたりに付けられた校章には見覚えがある。和泉も知る地元の高校のものだ。


 ――死者の想いが織り成す世界。


 そこでは死者のみが鮮明に映し出される。生きた人が影や写真などの平面から抜け出して死者と同じように過去を再現することなどなかった。これまでは。

 当然のように少年も死者だろうと思っていた和泉は、彼を見て酷く驚いた。

 違う。その顔には見覚えがある。彼は――死者ではない。


「藤波さん……」


 和泉は思わず彼の名前を呟いた。見間違えようもない。藤波透吾だ。

 動揺に、過去の像がぶれる。揺れる景色の中、透吾は控えめな愛想笑いを浮かべていた。顔にはいくらか子供らしさが留められてはいたが、冷えた眼差しと整った顔立ち、そして気取った立ち居振る舞いが今の彼の姿と重なった。

 透吾は少し屈んでライターを拾い上げると、もう一度男に声をかけたようだった。唇を少し歪めて、皮肉か警句の一つでも言ってみせたのかもしれない。

 或いはただの挨拶だったのかもしれないが。それはちょうど、和泉に彼と初めて会った日のことを思い起こさせた。

 呼び止められた男の顔が苦笑に変わる。

 引き返した男が透吾の手からライターを受け取り――



 そこで映像は完全に途切れた。

 いや、映像が切れたわけではない。自分が目を瞑ってしまっていることに、和泉は気付いた。過去の記憶が急速にほどけて、現実と混ざる。しばらく心を落ち着かせていると、やがて夕暮れの一幕は完全に消え去って、ただ和泉だけが残された。

 ほんの少しだけ警戒しながら目を開ける。いつもと変わらない室内の風景に、和泉はほっと胸を撫で下ろした。

 心臓は、まだ大きく脈打っている。

 ――あれは、いったい?

 なんだったのだろう。

 唐草蛍とカラクサ葬祭の繋がりは、和泉も疑っていたところではあった。そうある姓ではないから、それなりに近しい縁者ではあるのだろうとも予想していたが――


「どうして、藤波さんが……」


 まだ生きているはずの彼が、はっきりと過去の存在として映ったのか。

 物心ついたときから今に至るまで、和泉は何度となく故人の想いを観続けてきた。その中に生きた人の姿を見たことはなかった。少なくとも、死者と生者が同様に見えることはなかった。そこが謎だった。

 この気紛れで非現実的な〝鑑賞〟という才能のすべてを把握できているとは思わないまでも、それなりに使いこなしているつもりである。

 わけが分からないまま、じっと考え続けて――

(彼は本当に生きた人間なのだろうか?)

 ふと、そんな疑問が胸の内を掠めた。

(いや、いくらなんでもそれは……)

 馬鹿げている。実に、馬鹿げている。

 これまで自分たちが接してきた藤波透吾は、亡霊だったとでもいうのだろうか?

(そんなはず、ないじゃないか)

 そうは思いながらも和泉は無意識に両腕をさすっていた。

 イニシャルの彫られた例のライターから視線を外して、ポケットにしまう。再びそれを観る気には、どうしてもなれなかった。

 

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