第5話



 室内は、いくらか記憶と異なっていた。

(……当然か)

 思えば、彼女が貴士と付き合い始めてからは部屋の中で会ったことはないような気もする。フリルやレースをあしらったピンクのカーテンは上品な刺繍の入った青に変わって、少女趣味なシェル型のソファもごくごくシンプルなレザーソファに置き換えられていた。

 年相応という言葉を覚えたのか、それとも貴士の趣味なのか。

 どちらでも、どうでもいいことではあるが。巴にリビングで待つよう頼んで、彩乃と三国を奥へ案内する。

 貴士の部屋はすぐに分かった。幼い頃に何度か泊まったことのある客間。いや、子供部屋だった場所。やはり若干の複雑さを感じながら、和泉はドアの前で立ち止まった。まるでまったく知らない人の部屋の前に立っているような気分だった。

 そのまま、数秒。じっとしていると、彩乃が背中に触れてきた。労るような体温に、緊張が解けていく。一度息を吸って、和泉はドアの向こうに声をかけた。


「貴士君、俺です。絵のことで少し、いいですか?」


 静寂。一拍の後に、拗ねた声が返ってくる。


「ああ。入れよ」


 鍵はかかっていなかったらしい。ドアはあっさり開いた。

 床から腰を上げかけていた青年と目が合う。バイトのために染め直した黒髪のせいか、貴士はいっそう沈み込んでいるように見えた。


「おい、なんで狂犬女とカマ野郎も連れてンだよ……」

「すみません。成り行きで」

「くっそ。騙された……」


 毒づきながらも、貴士はドアを閉めようとはしなかった。二人を追い返すのは無理だと察したのか、単純にその気力がなかっただけなのか。力なく肩を落として中に戻っていく。彼の後に続いて、和泉たちも部屋に足を踏み入れた。

 そこかしこに、大小様々なサイズのキャンバスが立てかけられている。

 そのことに和泉は驚いた。絵を描いているとは聞いていたが、よくて中高生レベルだろうと思っていたのだ。

 感性は一貫して彼の曾祖父――比良原倫行の流れを汲んでいる。

 繊細だが、色彩からは彼の激しい胸の内も感じられた。しかし独学でここまできたためか、ところどころに荒さもあった。

 力の加減を知らない子供が、ガラス細工を扱っているような不安定さを感じる。だが、誰かが少し手を添えて導いてやれば化けるかもしれないとも思わせる絵だ。


「……風景画ばかりなのね」


 彩乃の呟きが聞こえてくる。

 確かに、景色の中から人だけを削ぎ取ったような風景画ばかりだ。その中には一枚だけ巴のヌード画も紛れていたが――和泉の視線に気付いて、貴士が気まずげな顔で件のキャンバスを裏返した。


「で、何しに来たんだ。揃いも揃って」


 言いながら、パイプベッドの上にどかっと腰を下ろす。その拍子に枕元のクロッキー帳が床に落ちて、大きく音を響かせた。拗ねた瞳でじっと見上げてくる彼の代わりにそれを拾いながら、和泉は答えた。


「あの絵――〝兵士と死〟の話なんですが」


 手元に視線を落とす。紙の上には人物らしきものをスケッチして、塗りつぶした跡があった。訝る暇もなく、貴士の手がクロッキー帳を引ったくっていく。


「ああ。どうにかなりそうなのか?」

「貴士君、修復を勉強する気はありませんか?」

「は、はあ?」


 彼の顔に疑問が浮かんだのは一瞬のことだった。


「お前、頭がおかしくなったんじゃねえのか?」


 怒っているのか、それとも失望しているのか、彼は青ざめた顔で声を震わせた。

 彼がそう言いたくなるのも、もっともな話だ。内心では納得しつつ流石に口に出すわけにもいかず、否定する。


「正常ですよ、俺は」

「だったら、なんで」

「修復師の知り合いに相談したら、絵に手を入れる行為はちょっとと断られまして」

「で?」

「比良原の弟子か後継者がいれば、という話になったんです」

「どうして俺なんだ。無理に決まってる。それを知らないお前じゃないだろ!」


 怖じ気づくだろうとは思っていたが、彼の自己評価は予想外に客観的だった。本人がそれを認めている以上、もう誤魔化すわけにもいかず、和泉は素直に肯定した。


「……ええ、まあ」


 隣ではらはらと見守っている彩乃を視線だけで指して、続ける。


「あなたに頼もうと言ったのは、国香さんですよ。今が駄目でも、十年、二十年勉強を続ければものになるかもしれないからと。俺は、他に案もないので彼女の提案に乗っただけです」

「ちょっと、和泉君。そういう言い方はないわよ」

「他にどう言えと? 俺は無理だと思った。貴士君本人も無理だと諦めている。国香さんだけは貴士君を買っている――はっきりさせておいた方がいいことでしょう?」

「ねえ、もしかして比良原君に発破かけてるつもりなの?」

「……知りませんよ」


 どうして彼女はこういちいち言葉に出して確かめなければ気が済まないのだろう。腹立たしくなって、和泉はぷいとそっぽを向いた。貴士はといえば、そんなこちらのやり取りなど耳に入っていない風で、俯きがちにぶつぶつと呟いている。


「無理に決まってる。これ以上、曾じいさんの絵をめちゃくちゃにしたくない」


 どこまでも後ろ向きな彼に、彩乃はむっとしたようだ。


「やってみる前からめちゃくちゃ、なんて――」

「うるせえ。シロートは黙ってろ!」

「確かに、私には絵のことは分からないわ。でも、直そうと努力してみることと、壊したことを同じにしてしまうのはあんまりよ。あなた、絵が好きなんでしょう?」

「好きだったら、なんだってんだ!」


 分からないなら口を挟むな、と貴士は彩乃に噛み付き返した。


「下手な修復は絵を損なう。それだけだ。気持ちがこもってりゃいいなんて、そんなのは悪意よりももっと質が悪いだろ。ガキのクラブ活動じゃねーんだぞ!」


 貴士の言うことはもっともである。彼らしくもない真っ当な反応に、和泉は面食らってしまった。彼はまだ何か言いたげな彩乃を無視して、向き直ってきた。


「なあ、和泉。俺なんかじゃなくてお前の親父に頼んでくれよ」

「俺も五樹さんに頼んだんですけど、作風が違い過ぎると言われてしまって……」

「違ったって、模倣くらいはできるはずだ! お前の親父、昔は〈死者の行進〉にインスパイアされた作品を作ろうとしていたんだろう? 巴さんから聞いたぞ」

「え?」


 生まれてから今に至るまで五樹の許で暮らしてきたが、その話は初耳だった。


「ああ、そういえば初期の作品は雰囲気が違うわよね。今よりも暗くて憂鬱な感じ」


 彩乃はうんうんと頷いている。

 それを聞いて――何かの間違いではないかと訊き返そうとしていた和泉は、完全に沈黙した。五樹の手がけた作品に関して言えば、ファンを自称する彩乃や、密かに絵を描き続けていた貴士の方が詳しい。和泉自身は、父親の作品に関心を持たないようにしてきたところがあったからだ。


「……でも、五樹さんはあの絵に手を加える気はないそうです」

「だったら、他に――」

「勿論、他も探しましたよ。修復師だって何人か打診しました」

「だとしても、俺じゃ駄目だ。絶対に、駄目だ」


 それ以上の会話を拒否するように顔を押さえて、貴士は呻いた。

 その肩に、三国がそっと触れる。


「まあ、気持ちは分かるわよ」


 怯えた獣を宥めるような、優しい口調だった。


「いきなり認められたって困っちゃうのよね」

「…………」


 貴士がぴくりと身動ぎする。

 顔が紅潮しているのは、胸の内を言い当てられた羞恥心と怒りによるものか。それまでやりとりを黙って見守っていた三国が、貴士を庇うように続けた。


「これまでずっと否定されてきたから、いざ自分で何かを決めようとすると周りの言葉を思い出して怖くなってしまう。ワタシにもそういう経験があるワ」

「分かったような口を利くな。カマ野郎と一緒にするな!」

「ちょっと――」


 聞き捨てならなかったのか、彩乃がぴくりと反応した。が、そんな彼女を――いいのよ――と遮って、三国は自嘲を含んだ笑みを浮かべた。


「そうね。ワタシとアンタは違うわ」

「…………」

「でも他人から見たら、ほとんど同じなワケよ。それ一本で食っていける芸術家になることと、男が女になることは」

「…………」

「どっちも同じくらい無謀な、夢みたいな話。でも、それでもアンタは夢を捨てられずにここまでグダグダと引きずってきた。芸術家の夢は捨てたようなことを言っていたけど、未練たっぷりでしょう。この部屋を見れば分かるワ。きっと、ギャラリーを持つだけじゃ満足できない」


 その指摘は正しかったのだろう。

 貴士は目に見えて狼狽した顔で、声を震わせた。


「それは……」

「説教しようってんじゃないの。ワタシだってカマ野郎をやっているんだもの」


 カタカタと揺れる彼の膝に手で触れながら、三国が言った。


「諦められないんだから、やれるとこまでやってみればって。それだけの話なのヨ」

「――それだけなんて、簡単に言うな」


 頭を抱えると、貴士は胎児のように体を丸めた。

 腕の隙間から怒りとも嗚咽ともつかない、くぐもった呻き声が零れてくる。拒絶されて猶、三国は哀れみと優しさを伴った言葉で彼を慰めた。


「大丈夫。夢破れて頼れる相手もいなくなったら、ウチで雇ってあげるから」

「…………」


 貴士は何も言わなかった。顔を上げることもなかった。

 そんな彼の肩を一度だけ叩くと、三国は立ち上がった。


「今日は帰りましょうか。こういうのって、考える時間が必要なものヨ」


 言いながら、もう彩乃の背を押している。二人が部屋の外に出て行くのを見届けてから、和泉はもう一度だけ貴士を見下ろした。


「タイムリミットはありませんから、よく考えてください」

「絶対に無理だと言ったら?」


 不安げな彼の問いに、即答する。


「……俺は、あの二人のように煽るつもりなんてないんです。国香さんの言う精神論が人を選ぶことは知っていますし、石狩さんのように夢が破れたときの責任を取ることもできませんから」


 突き放しすぎたかもしれない。

 告げた後でそう思ったが、それが和泉の本音だった。

 先に部屋を出た二人ほど、比良原貴士は強くない。そんな彼に希望を抱く気にはなれなかったし、分不相応な重荷を背負わせて彼の人生を台無しにする気もない。

 たっぷりとした沈黙の後に、貴士の恨めしげな声が聞こえてきた。


「お前は、どうして俺に選ばせるんだ。自己責任だなんて言うんだ。あの狂犬女とカマ野郎みたいに、失敗したときの言い訳をくれないんだ」


 和泉は答えなかった。

 ドアノブに手をかけたまま、彼の声に耳を傾けていた。


「お前はずるい。俺に選択肢だけを突きつけて、あとは関係ねえって顔して」

「…………」

「俺はどっちを選んでも、違う方を選ばなかったことを後悔するんだと思う」


 弱気な声が、静まりかえった部屋の中に溶けて消える。


「……否定はしませんよ」


 俺がずるいことも、あなたが後悔するかもしれないことも。

 頷いて、部屋を出る。後ろ手でドアを閉めて――一メートルほど先に彩乃たちの姿を見つけた和泉は、零れそうになった溜息を呑み込んだ。


「遅かったわね。何か言い忘れたことでもあったの?」

「よく考えるようにと伝えただけです。急ぐことではありませんから」

「ふうん?」


 首を傾げる彩乃と、何やら考え深げな三国を連れて外へ出る。見送りをしてくれた巴に別れを告げ、しばらく歩いて建物から離れると、彩乃がぴたりと足を止めた。


「……なんか、予想外だったな」

「予想外?」


 訊き返す三国に、彼女が唇を尖らせる。


「絶対に乗ってくると思ったんです。比良原君は」

「どうして?」

「だって、夢を叶えるためのチャンスが目の前にあるのに」


 逆だ。

 環境を整えられてしまったら、他人のせいにはできなくなってしまうから拒むのだ――と和泉は思ったが、口には出さなかった。挫折を味わったこともなく、また挑戦をしたこともない自分にそれを説明する資格はない。彩乃も納得しないだろう。代わりに三国が何か言い出すのを待つ。

 巨漢は繊細な造作の顔に、苦笑を浮かべた。


「国香チャンは強いのねぇ」

「え?」


 彩乃はきょとんと目を瞬かせている。

 答える三国の瞳は優しく、しかしどこか悩ましげでもあった。


「チャンスをものにするときって、途方もないプレッシャーがかかるでしょう?」

「そ、それはまあ……」

「だから人は、日常の中で小さな努力を一つずつ積み重ねて確実に成功に近付こうとするのヨ。口では近道をしたがるけど、いざそうしてゴールに辿り着いてしまったら不安でたまらなくなる。足場もなしに高いところへ上ると身動きが取れなくなってしまうのと同じネ」


 諭すような彼の言葉に耳を傾けながら、彩乃は熟考しているようだった。

 相槌も止まっている。


「そんなプレッシャーや不安をものともせずに自分を追い込んで強くなれる人って、ほんの一握りしかいないと思うのヨ。国香チャンは、その一握り。それを分かってあげてほしいワ」

「……三国さんも、比良原君と同じタイプなんですか?」

「そうね」

「でも、三国さんは――その、足場のないところに飛び込んでいるじゃないですか」


 彩乃は一瞬だけ言い淀んだが、三国の顔を見つめながらそう言った。その微妙な問いかけにも表情を変えることなく、彼はまた頷いた。


「そうね。足場がないから、分かったような顔をするんでしょうね」

「どういう意味ですか?」

「堂々とこんななりをしていても、怖いのヨ。見た目ほど、腹を括りきれていないワケ。だから足場を固めるために、一人きりにならないために、面倒見のいいふりをしてあちこちに保険をかけているのかもしれない……なんて、ネ」


 最後だけ冗談めかして、彼はくるりとこちらに背を向けた。

 そのまま、路地の一つに入っていく。


「どこへ行くんですか、三国さん」

「事務所。用事も終わったからチラシ作りでもするわ。零細事務所は辛いのよ~ん」


 片腕をひらひら振りながら去っていく。彩乃は彼の背中を置いてきぼりにされた子供のような顔で見つめていたが、その姿が完全に見えなくなると唇を噛んで俯いた。


「……私、無神経だったのかな」


 ぽつりと呟く。


「でも、夢を叶えるための環境を与えてもらえるって幸せなことだと思うのよ」

「それは自分の経験談ですか?」


 なんとはなしに、和泉は訊いてみた。彩乃の肩が跳ねる。


「そう、だけど」

「でしたら、無神経だなんてことはないと思いますよ。あなたはあなたの得た経験から貴士君にアドバイスをした。それだけです。貴士君も、別に気にしてはいませんでした。むしろ……」


 彼の恨み言は、選択肢を押しつけて好きに選べと突き放した自分に向けられていた。思わず口を滑らせそうになって、言葉を呑み込む。それを言えば責任感の強い彼女がまた――提案をしたのは私なのに――と自己嫌悪に陥ることは目に見えていた。


「あまり深く考えすぎると太りますよ」


 代わりに、軽く茶化しておく。


「なんでよ!」

「ストレスで過食するタイプでしょう、国香さんは。見てくださいよ。二の腕なんて、筋肉質で俺より逞しいじゃないですか」

「和泉君が細すぎるだけ! モデルでも、そんなに細い子いないわよ!」

「まあ、男性の方が女性よりも脂肪が付きにくいとはいいますからね」


 怒る彼女をからかいながら、駅の方角に足を向ける。


「……慰めてくれて、ありがと」


 しばらくして、背後から彩乃の囁きが聞こえてきた。

 気恥ずかしさを含んだその声に、和泉は少し足を止めて言葉を探した。なぜか、慰めたわけではないとは言えなかった。

(面倒見のいいふりをして保険をかける、か)

 三国の言葉を胸の内で繰り返す。

 一人になることを不安に思うなど、なかったはずだが――


「いいえ、別に」


 曖昧に濁して、また歩き出す。

 背後の足音は心なしか軽いような、気がした。




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