第4話


「わあ、すごい。流石モデルの別宅って感じ」


 感嘆の声を上げながらマンションを見上げる彩乃を横目に、和泉は後悔せずにはいられなかった。

 高級住宅街の中では、少々控えめな外観のマンション。

 高坂巴の別宅である。エントランスホールに入るのも躊躇って、入り口でうろうろしている彩乃を横目で眺めながら、和泉は溜息を零した。


「このあたりでは安い方ですよ。少し駅から離れると、それこそ豪邸ばかりですし」


 まさか彩乃を連れて訪ねる羽目になるとは思わなかった。唐草蛍と交渉するために華ノ森美術館へ足を運んだのはもう十日も前の話になるが、それとなく無駄であることを主張しても彩乃は〝やってみなければ分からない〟の一点張りだった。


「突っ立っていないで、早く来てください。不審者に間違われかねないので」


 手招きして呼ぶと、彼女はぼそぼそと言い訳しながらもようやく後に続いてきた。


「うう、仕方ないじゃない。こんなおっきいマンションだなんて想像していなかったんだから。和泉君はお坊ちゃんだから慣れてるのかもしれないけど――」

「お坊ちゃんって言いますけど、両親が小金を持っているだけですからね」

「小金って、その感覚がもう私とは違う……」


 勝手に落ち込んでいる彩乃は放っておくことにして、セキュリティキーに暗証番号を打ち込む。ぴたりと閉まっていたドアが機械的な音を立てて開いた。

 足を前に踏み出しながら、まだ圧倒されているらしい彼女に声をかける。


「置いていきますよ」

「あ、ちょっと待って。和泉君」


 慌ててこちらの後についてこようとした彩乃が、また足を止めた。


「言い忘れていたんだけど、もう一人声をかけてる人がいるっていうか」

「誰です?」


 和泉は訊き返しながらドアを押さえた。彩乃にしては妙に歯切れの悪い言い方だ。それだけで嫌な予感がした。案の定、彩乃はすぐには答えずに視線を泳がせた。


「ええと――」

「はっきり言ってください」

「怒らない?」

「俺が怒ると思うなら、事後報告はやめてほしいものなんですけど」


 じろりと睨んで、促す――と。


「あら、やだ! 国香チャンに和泉クン~!」


 遠くから、無理にトーンを上げた太い声が聞こえてくる。

 その正体に気付いて和泉は頭を抱えた。


「三国さん!」


 彩乃が振り返りながら、彼女? いや、彼の名を呼ぶ。

 石狩三国。

 それが彼の名前である。便利屋〈猫のヒゲ〉の所長で、彩乃の専門学校時代の先輩にあたる。今日はオフなのか、トレードマークのピンク色のポロシャツではない。

 ふんわりとした白のシャツに、淡い色のストール。女性らしく作り込まれた顔は映えるのだが、ボディビルダーのような肉体のせいでどこかちぐはぐに見える――合成写真のような男である。

 彼は体をくねらせると、その巨体からは想像もつかない驚異的な素早さで和泉にぴたりと寄り添った。


「あーら、和泉クン! 運命感じちゃうわ~。ほら、小指と小指を繋ぐ赤い鎖が!」

「見えませんよ。全然」


 和泉は彩乃の腕を掴むと、肩を寄せてくる三国に押しつけた。間に挟まれることにも慣れたのか、彩乃も溜息をついただけでされるがままになっている。そんな彼女に、和泉は小声で訊ねた。


「どうして彼に声をかけたんですか? 新手の嫌がらせとしか思えないんですけど」

「三国さん、比良原君のことを気に掛けていたのよ」


 彩乃は少しだけばつが悪そうに答えた。


「この間、三国さんが彼のことを送ってくれたでしょう?」

「ええ。でも、たったそれだけのことで? 物好きですね、石狩さんも」


 それとも暇なのか――と訊こうとしてやめる。

 訊くまでもなく、彩乃と三国は多忙である。ただ、二人とも物好きで途方もない世話焼きなのだ。和泉は諦めて、巨漢に視線を向けた。


「国香さん定義で言う、一度でも関わった人は友人というやつですか」

「ちょっと! 私定義って何よ!」


 彩乃が不服そうに喚いているが、無視する。

 三国は無駄に長い睫毛に縁取られた目をばちんと瞑って、ウインクしてみせた。


「若い男のコは放っておけないのヨ」

「はあ、そういうものですか」


 それだけが本音のようには思えなかったが、訊かれたくなさそうに見えたので追及せずにおく。和泉は肩を竦めて、オートロックを開け直した。ちょうど一階で止まっていたエレベーターに乗り込む。巴の部屋があるのは七階、非常階段に一番近い角部屋だ。ドアの横には高坂とプレートが嵌め込まれている。

和泉はインターフォンに手を伸ばした。

 何度足を運んでも、他人の家のような心地がする。彩乃とは違う意味で緊張しながら指先に力を込めると、高い音が続けて二度響いた――

 沈黙。

 事前に、訪ねていくとは伝えてある。巴も予定はないとの話だったので、不在ではないはずだが。

 そのまましばらく待っていると、ドアの向こうでチェーンの外れる音がした。分厚いドアの隙間から、女が顔を覗かせてくる。巴だ。

 彼女はなぜか驚いているようだった。


「やだ、和泉」

「なんです?」

「あなたが二人もお友達を連れてくるなんて、珍しいじゃない。どうしたの?」

「俺も三人で来る予定はなかったんですけどね。というか、友人ではありませんし」

「じゃあ、ガールフレンドかしら。そういえば、そっちの彼女とはこの間もデートしていたものね」


 巴はこちらの話も聞かずに一人で納得している。

 訂正するかと思いきや、彩乃も黙ったままである。女性というものはわけが分からない。否定をする気力もなく、和泉はげっそりと溜息を吐いた。


「それより巴さん」

「なあに? 和泉」

「貴士君に用事があるんですけど、います?」

「ええ」


 部屋の奥に視線を投じながら、巴が頷く。


「どんな様子ですか、彼」

「分からないわ。三国ちゃんが連れ帰ってくれた日から、閉じこもりきりだもの」


 彼女は小さくかぶりを振った。

 和泉は何か聞き捨てならない単語を聞いた気がして、訊き返した。


「……三国ちゃん?」


 彼女が巨漢の名前を知っていたことにも驚きだが。


「ええと、どうして?」


 その呼び方なのか――頭痛を覚え、額を押さえる。

 質問の意図を察してくれたらしい、巴は微笑交じりに答えた。


「だって、彼がそう呼んでくれって言うんだもの。ね?」

「いや、いつ」

「貴士のことを送ってくれた日に」

「ああ……」


 そうですか――と頷きかけて、我に返る。

 一瞬とはいえ、どうして納得した素振りを見せてしまったのか。少しのことでは動じなくなってしまっている自分を自覚して、和泉は憂鬱になった。

 いつかの折にも同じことを感じたが、作り替えられた日常が知らず知らずのうちに今までの日常とすり替わっている。以前の生活を思えば変化は決して小さいはずではないのだが、どうしてか自分はそれに気付けない。

 変化が当然のものとして定着してから初めて違和感を覚えるも、そのときにはもう後戻りできないところまで来てしまっている。


「和泉君?」


 彩乃に覗き込まれて、和泉は数歩後退った。


「どうしたの?」

「別に」


 反射的に言ってしまって、小さく舌打ちする。別に、は駄目だ。彩乃には通じない。案の定、彼女は眉間に皺を寄せて見つめ返してきた。


「別にって顔でもなかったけど」

「いえ。石狩さんは――」

「三国さんが?」

「あの日以降も貴士君の様子を見に通ってくれていたのかな、と思いまして」


 矛先を変えると、三国が苦笑した。

 話をすり替えられたことに気付いたのだろう。和泉は気まずくなって、彼から視線を逸らした。やはり誤魔化しも嘘も、上手くなれそうにない。

 とはいえ三国は、助け船を出してくれる気になったようだった。


「まあ、そうね。何回かは」

「三国さんって、比良原君みたいな子がタイプだったんですか?」


 彩乃が目を丸くしている。あのねえ、と三国が肩を落とした。


「違うわよォ。ただ、男同士いろいろと通じるものがあったっていうか」

「男だったり女だったり忙しいですね、三国さん」

「そうよ~。男の気持ちも女の気持ちも分かるから。まさに癒しの女神系男子」

「……癒されるどころか部屋に閉じこもりきりだって話じゃないですか。貴士君」


 ばちっと片目を瞑る巨漢から目を逸らして、和泉はぼそりと呟いた。巴は、そんなこちらのやり取りを眺めながら控えめに笑っている。母親めいた微笑だった。

 どうにも落ち着かない心地で、和泉は無理やり話題を戻した。


「それで、巴さんは彼と話したんですか?」


 彼女は和泉の視線に気付くと、微笑みを隠すように口元にそっと手をあてた。


「ええ。帰ってきた日に少しだけ。初めて頭を下げられたわ」

「なんて?」

「また、しばらく置いてくれって」

「そうですか」


 巴の喜びに水を差さないよう、努めて冷静に相槌を打ちながら。

 和泉は内心複雑だった。


「部屋にこもりきりということは、大学にも?」

「ええ、行っていないわ」


 巴の美しい唇から溜息が零れる。


「事情は三国ちゃんから少しだけ聞いたのだけれど、こういうときにどう声をかければいいのか分からなくて。駄目ね。中途半端なのよ。恋人としても、母親気取りにしても――」


 母親気取り。彼女には不似合いな言葉だ。

 懊悩に満ちた母親の声を聞きながら、和泉は眉間に力を込めた。皮肉の一つでも言うべきか、何を言いたいのかも定まらないまま口を開く。と、


「あ、あの! 比良原君の部屋に案内していただいてもいいですか?」


 そう言ったのは彩乃だった。気を遣ってくれたのか、或いは彼女自身が居たたまれなくなっただけなのか。なんにせよ、彼女が口を挟んでくれたおかげで冷静さを取り戻せたことは確かだった。ほっと胸を撫で下ろしながら、何か言おうとしていたことを気取られないように唇を結ぶ。

 幸い、巴の注意は逸れていた。彼女は、彩乃を見つめて言った。


「ええと、あなた――」

「国香彩乃です」

「国香さん、ごめんなさいね。和泉から聞いたわ。貴士が迷惑をかけたこと」

「謝らないでください。高坂さんのせいではないです」

「でも、私が無責任に甘やかしたせいで迷惑をかけてしまったのも事実だから」


 それと――と、巴がそっと目を伏せる。


「これからも和泉と仲良くしてあげてね。私が頼めた義理ではないのだけれど」

「あ、いえ。それは勿論」


 恐縮したのか、彩乃は慌てて頭を下げている。一方の巴は一度だけにこりと笑うと、思い出したように三人を部屋の中へ招き入れた。




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