第3話



 セミナーの草稿をようやく書き上げたところで、藤波透吾は大仰に溜息を吐き出した。原稿用紙の束を脇へ退けて、書き損じた紙の上に万年筆を投げる。飛び散ったインクが作り上げた濃い染みを眺めているうちに、ますます気分は重くなった。

(やれやれ、たったこれだけのことに三日か)

 独りごちる。時間をかけたわりに、草稿の出来は過去にないほど拙い。もっとも、聞いてそれと分かる人はいないかもしれないが。もう二、三度手を加えなければならないかもしれないと思いながらもひとまずそれは置いておくことにして、透吾は手帳に手を伸ばした。午後は法要の事前相談が三件ほど入っている。概ねいつもどおりだ。斎場スタッフに比べれば、忙しいこともない。

(それだってのに、どうしてこう参ってしまっているのかな)

 また溜息を吐きかけて――それを呑み込んだのは、その瞬間に電話の音が鳴り響いたからだった。憂鬱さを上乗せする音に顔をしかめながら、受話器に手を伸ばす。受付からの内線だ。


「夏上君か。どうかした?」


 彼女の顔を思い浮かべると、いくらか気は楽になった。深い付き合いをしているというわけでもないが、月に何度か食事に行く程度には親しくしている相手である。

 彼女は営業用に作り込んだ声をわずかに和らげて、すまなそうに告げてきた。


「業者の方から電話があったんですよ。藤波さん、どうしていらっしゃいますかって。昨日の夕方に連絡をする約束だったんでしょう? 体でも壊したのかって心配していましたけど――」

「ああ、しまったな」


 思い出して、頭を抱える。


「すっかり忘れてしまっていた。折り返し連絡すると伝えてくれ」

「分かりました。でも、珍しいですね。藤波さんがミスをするなんて」


 まったくだ――と肯定してしまうのも嫌みかと、曖昧に笑っておく。


「代わりに謝ってくれたんだろう。君にも、悪いことをしてしまった」

「いえ、藤波さんにはいつもフォローしてもらっていますから。これくらい、どうってことありませんよ。それでも気になるようでしたら、今度映画にでも付き合ってください」


 まったくしっかりしている。

 苦笑しつつ了承する旨を伝えて、受話器を置く。と、


「……トーゴ、最近おかしいぞ」


 万里だ。

 事務イスの上に縮こまって座りながら、遠慮がちに見上げてくる。


「ああ」


 分かっている。自分でも自覚はあった。

 ただ、子供に見抜かれるほどおかしいつもりはなかったが――


「最近ね、どうにも気分が優れないんだ。なぜだろうな」


 首を傾げる。

 万里はなにか言いたげに、膝の上で重ねた手をもぞもぞと動かしていた。

 彼女には、この不調の理由が分かるのかもしれない。

 と、透吾はなんとはなしに思った。幼い頃から周りに大人の多い環境で育ってきた万里は、我儘だが、一方で妙に目敏いところがある。


「思い当たることでもあるのかい? 万里」


 思いついたままに訊ねてみる。

 万里はぴたりと動きを止めて、臆病な視線を向けてきた。


「怒らない?」

「怒らないよ」


 怒らなければいけないようなことなどあっただろうか。やはり首を傾げながら、透吾は頷いた。それでも猶、万里は言いにくそうにしている。ようやく小さな声が聞こえてきたのは、答えへの興味が薄れてきた頃だった。


「この間、トーゴがタカシの絵を燃やしたときに……」

「ああ」


 そんなこともあった。ぼんやりと、その日のことを思い出す。


「アヤノから言われただろ。大切な人をまだ亡くしたことがないって」

「確かに、そんなようなことを言われた記憶はある」

「トーゴ、傷付いてるのかと思って」

「傷付く? 俺が?」


 透吾は少女と見つめ合ったまま、何度か目を瞬かせた。

 万里もまた、戸惑っているようだった。


「パパのこともそうだし、家族も、友達も、先生も、トーゴは亡くしてばっかりだ。そう、ママに聞いた。いくら昔の話だって、思い出したら悲しくないはずがない」


 上目遣いで、遠慮がちに続けてくる。


「……そうかもな」


 透吾は曖昧に肯定した。


「そう言われても、普通はそうなのだろうなとしか思えない。実感がない。けれど君の目から見ても様子がおかしいということは、俺もそうなのかもしれない」

「トーゴ?」

「いや、よく分からないんだ」


 かぶりを振りながら思い出したのは、高坂和泉の言葉だった。

 虚しくないのか。彼はそう訊いてきた。

(自分のことは理解されないのに、他人のことばかり分かる……か)

 記憶の中の彼に答える。


「虚しくはないな」


 まったく不公平だと思わないわけではないが。


「自分にすら分からないんだ。そんな俺をどうして他人が理解できるだろう」


 呟いた。その瞬間、頭の奥が鈍く疼いた――気がした。

 止まった時間の中から呼びかけてくる声だ。長く思い出すことのなかった死者の声。舌打ちをして、また頭の奥に押し戻す。


「おい、どうしたんだよ。トーゴ」

「ああ、ごめん。少し思い出していたんだよ」

「何を?」

「彼らのことを、さ。万里、君もそうなんだろう? あの日からおかしいのは……」


 ――お互いさまだ。

 そっと指摘すると、万里の眉がぴくりと動いた。予想外の指摘に驚いた――わけではなさそうだ。どの口でそれを言うのかと責める瞳だった。そこには怒りと困惑がはっきりと表れていた。

(やっぱり俺が悪者か。ま、分かってはいたんだけどさ)

 透吾は肩を竦めた。

 おかしい。なにもかもが、おかしい。

 自分も、万里も、そしてこの白けた空気も。

 鈴川の一件から、どうにも埋めようのない溝が二人の間に横たわっていた。少し追い詰めすぎたか、と体を強張らせている万里を眺める。

 公私を混同するなと釘を刺しただけのつもりではあった。が、そこにまったくの悪意がなかったと言えば嘘になる。透吾は胸の内で続けた。

(気に入らなかったことは認めるよ)

 万里が貴士の肩を持ったことも、和泉たちを頼ったことも。

(子供だから仕方ないけど、随分とあっさり他人の影響を受けてしまうんだから)

 教育係の苦労も報われないではないか。密かに嘆息して、万里を眺める。


「万里、今日は帰りにケーキを買って帰ろうか。美千留さんの分も」

「いらない」


 透吾の視線に気付くと、万里はふて腐れたように顔を逸らした。

 どうやら、いつもとは勝手が違うらしい。透吾は一瞬だけ面食らった。


「……あ、そ」


 まさか一言で拒絶されるとは思いもしなかった。他に用意していた言葉はない。日頃は、菓子の一つで簡単に機嫌を直す万里だ。途切れた会話にいくらか居心地の悪いものを感じながら、透吾は改めて少女が不機嫌な理由を考えた。

(万里なりに責任を感じているのかな)

 あれから、貴士はバイトを辞めた。美千留と面談をしたようだから、もしかしたら解雇という形になったのかもしれない。そのあたりの事情には興味もないため、詳しく聞くことはしなかった。


「いいやつだったんだ、あいつ」


 考えていると、万里の呟きが耳に入ってきた。


「いいやつ?」


 繰り返してしてしまって、透吾は顔をしかめた。

 まったく、オウムよりも気が利かない。


「いいやつって、比良原君のことか? 高坂君や、国香君ではなく?」


 言葉を足して、訊き直す。


「うん。タカシのことだよ。イズミやアヤノも、悪いやつじゃないけど……」


 万里は遠慮がちに頷いた。

(ふうん。いいやつ、ねえ? どちらかと言えば調子のいいやつだろう、彼は)

 分からない。万里のことが分からないというのも、初めてのことだった。

 他の社員たちにはない、彼のいい加減さや粗野な言動を目新しく感じたのかもしれない。或いは、親しみやすさを覚えたのかもしれない――そうだとしても相手はほんの一週間ほど働いただけの新人だ。

 日常からいなくなったからといって、心を砕くような相手ではない。

 ないはずではないか?

(まったく、なんだってんだ? 彼らといい、万里といい、俺といい……)

 いや、悩むようなことではない。

 これも、分からなかったところでどうということもない。


「まあ、もし体調にまで影響が出るようだったら病院に行くんだよ。万里」

「……うん。分かってる」


 万里は複雑そうな顔で頷いた。

 そんな少女から視線を外して、透吾はまた一人で考える。比良原貴士のことなど、どうでもいいのだ。国香彩乃のことも――彼女のことは嫌いではなかったのだが仕方がない。あの手の女性に嫌われることも初めてというわけではない。

(高坂君、かな。いや、彼の言葉か)

 決して弁が立つ方ではないのに、彼は人の心に寄り添うような鋭さを持って死者の気持ちを代弁してみせることがある。人を動かす言葉。胸に響く言葉。宥め賺して甘やかす、透吾のやり方とは違う。そこには何かしらの特別な想いが込められているように思えてならない。

(屈辱的だよ。俺と、何が違うって言うんだ。俺の方が、気が利いているくらいだ)

 内心で呻きながら、それでも認めないわけにはいかなかった。彼の言葉は的確に、こちらの急所を突いてくる。別れ際に投げかけられた言葉が、それだった。

 ――思い出は空白になんかなりはしない。

 背中を向けていたため、彼の表情は分からなかった。忌々しいことに、祈るような声が耳に残っている。気の利いた反論もできなかった。万里を連れて、無言でその場を後にしてしまった。

 まるで逃げ出すように。いや。逃げ出したのだ。自分は。

 紛れもなく、あの青年から。


「……思い出は空白になるよ。だって、そうだろう?」


 ――俺の人生は空白ばかりじゃないか。

 悔し紛れに呟きながら、気紛れに半生を手繰り寄せてみる――自分が生きてきたという事実以外に、これといった思い出はない。これからも空白は埋まるどころか増え続けていくばかりなのだろう、恐らく。

 人と死に別れるというのは、そういうことだ。

 すぐに時間の無駄を認めて思考を手放すと、透吾は再び受話器に手を伸ばした。




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