第2話



 華ノ森美術館――イタリアの作家、中世の作品を主として展示している。

 オーナーはイタリア芸術とエスプレッソをこよなく愛する好々爺で、五樹も彼に頼まれてコレクションの一部を寄贈したことがあるとの話であった。閉館後に会いたい――と唐草蛍への伝言を頼めば、彼は快く了承してくれた。


「唐草さんって、どんな人かしらね」


 中で購入したらしいパンフレットを眺めながら、彩乃が呟いている。当然そこには作品の写真や芸術家の経歴が載せられているばかりで、学芸員については一言も記されていなかったが。


「万里ちゃんの身内だったりするのかな」


 やはり、彼女も同じ疑問を抱いたようだ。眉間に薄く皺を寄せて、先日別れた少女のその後を気に掛けているようでもあった。どうしているかしら、万里ちゃん。と、独り言が聞こえてくる。

 それに答えようか迷って――

 聞こえてきた靴音に、和泉は顔を上げた。美術館の裏口から、こちらに向かって歩いてくる女の姿が見える。ヒールの高い靴を履いているわけではないようだったが、音は硬い石畳に反響してやけに大きく響いた。

 彩乃と顔を見合わせる。

 彼女が唐草蛍だろうか?

 身長は女性の平均よりも大分低めで、そのせいか年齢が分かりにくい。童顔というわけでもないのだが、スーツを着ていなければ学生と見間違えたかもしれない。女は和泉と彩乃の存在に気付くと、三歩ほど手前で足を止めた。

 とりわけ美人というほどでもないが、妙にバランスのいい顔立ちをしている。まるで計算尽くにそれぞれのパーツを配置したような――そんな顔の中で、穏やかな瞳がやけに印象的だった。無表情にも見えるのに、不思議と冷たさは感じられない。落ち着いた物腰の、彩乃とは対照的な女性だ。


「ええと、唐草蛍さんですか?」


 訊ねる。それに答えようとした女の口腔からは、もご、と気の抜けた音が零れた。どうやら、口の中に何か入っているらしい。

 よく見ると、頬のあたりが少し膨らんでいる。


「ああ、ごめんね。禁煙したときの癖が抜けないんだ。ちょっと失礼……」


 舌先で飴を転がしながら、女が肩を竦めた。随分と気安い女性だ。もっとも、最近出会った人たちの中ではまともな方ではあるか。

 そんなことを思いながら、和泉は軽く頷いた。

 女は二人に背を向ける形で包み紙に飴を吐き出すと、それを更にハンカチで包んで鞄へ戻した。そうして――何事もなかったかのように――再び向き直ってくる。


「どうも、唐草蛍だ。ええと、あなたが五樹さんの息子か」

「高坂和泉です」


 差し出された手をおずおずと握り返しながら、和泉は軽く頭を下げた。

 蛍が小さく肩を震わせる。表情がほとんど変わらないため分かりにくいが、どうやら笑っているようだった。


「五樹さんとはあまり似ていないね。そっちの彼女は恋人かな?」

「いえ、ただの知人で――痛っ」


 いつものように知人ですらないと言ったわけでもないのに、何が気に障ったのか。彩乃に肘で小突かれて、和泉は小さく悲鳴を上げた。わけが分からずに隣を睨む。


「和泉君の友人で、カメラマンの国香彩乃と申します」


 知人の次は友人でなければ気に入らないとは、まったく難儀なものである。つんと澄ました彩乃を見ながら、難しい人だ――と和泉は小声でぼやいた。

 蛍は今度こそ愉快そうに喉を鳴らした。 


「ふふ、前言撤回。親子してそっくりだ。五樹さんも、連れのことを恋人だとは言わないんだよ」

「あの人と一緒にしないでください」

「似ている親子ほど、それを指摘されると嫌がるんだ」


 蛍はひょいと肩を竦めつつも、その話題を続けようとはしなかった。


「で? 私に用事って何かな」

「これの修復を頼みたいんです」


 厚手の布で包んだ絵を鞄の中から取り出して、蛍に渡す。包みを解いた彼女の手は、画布がちらりと覗いた瞬間に一度だけ静止した。

 死者の行進。唇から零れた呟きはともすれば聞き逃してしまうほどに小さかったが、和泉はそこに含まれた動揺をはっきりと聞き取った。


「この絵のこと、ご存知なんですか?」


 訊ねる。蛍はあっさりと頷いた。


「そりゃあまあ、私だって芸術に従事している人間だからね。聞きかじったことくらいはあるよ」


 素っ気なく言って蛍は肩を竦めたが――和泉はそんな彼女の態度に、少しだけ違和感を覚えた。彼女は〈死者の行進〉を作品として知っているだけではない。もっと別の感情を抱いていて、何かを誤魔化してもいる。それを指摘してしまおうか少し迷って、和泉は疑問を呑み込んだ。

 どうやら、彩乃の悪い癖がうつってしまったらしい。

(……下手に首を突っ込んでも煙たがられるだけだろうな)

 そう思い直して、違和感は忘れてしまうことにした。


「しかし、これは酷い」


 蛍が顔をしかめている。


「絵の主題を削られてしまったのか。随分と悪趣味なことをするね」

「直せますか」

「技術的には、不可能じゃない」


 彼女はそんな曖昧な言い方をした。


「技術的には? まるで他に問題があるって言い方ですね」


 これは、彩乃だ。一方で、和泉はやはりと肩を落とした。

 ――彼女も芸術家ではなく、技術者なのだ。

 釈然としない様子の彩乃に、蛍は困ったように眉尻を下げてみせた。


「というのもね、今の私は絵画修復を専門にはしていないんだ。学芸員として展示を企画したり、作品の保存や簡単なメンテナンスに関わったりはするけれど……」


 視線が画布と和泉たちとを往復する。


「うちの美術館で扱っている作品の修復も、外部に委託しているほどだ」

「そうなんですか?」

「ああ。知人からの頼みでいくらか気安いとはいえ、修復師としての活動から離れてしまっている私が君らの依頼を受けるわけにはいかない。無責任すぎるからね」

「どうして、今は修復をしていないんですか?」


 遠慮もせず踏み込んでいく彩乃に、蛍はまた曖昧に答えた。


「いろいろと思うところがあったんだよ」


 それだけでは不十分だと思ったのか、一呼吸置いて付け加える。


「絵画修復は基本的に修復前の状態に戻せることが最低条件だと言われているけど――そうだとしても、何度も他人の手を入れたものに、果たして個人の作品としての価値が残るのだろうか」


 それは誰か別の人間が発した言葉のようだった。


「この価値というのは、もちろん金銭的なものではない。個の価値。魂の価値」


 少し、間が空く。和泉はその独白にも似た問いかけを噛みしめていた。修復師のジレンマを知らない彩乃は、難しい顔で言葉の意味を考えているらしかった。

 短い沈黙の後に、蛍は続けた。


「芸術は、芸術家の魂を形にしたものなのだろう? と、疑問を突き付けてきた人がいてね」


 なんでもない風を装ってはいるが、瞳には苦悩が満ちている。


「まだ駆け出しだった私は、修復師という職業に理想を抱いていた。熱意もあった。そこへ完全に水を差されてしまった気分だったよ。カッとなったし、反論もいろいろと考えた。けれど、悔しいことに相手の言うことも一理あると感じてしまったんだ」


 溜息のあとには、諦めたような無表情だけが残った。


「歴史保存、文化保存の観点から論じるなら修復師の存在は有用だと断言できる。だが個人の作品として尊重するのであれば、他人の手は入れないに越したことはないのかもしれない。答えは出なかった。作品の劣化は人が歳を重ねるようなものだと考える人もいるからね」

「それで、学芸員に?」


 彩乃が、また訊ねる。蛍は投げ遣りに頷いた。


「ああ。修復の勉強は好きだったんだが、そんな葛藤を抱えたまま他人の作品に接するというのも申し訳ない気がして、結局続けることができなかった。そういう話だ」

「そうなんですか……」


 彩乃は肩を落としている。

 落胆を隠せないが蛍の気持ちは分かる――という顔だった。

 その素直な反応に、蛍が苦笑する。


「比良原倫行の後継者か弟子でもいればいいんだけどね」

「ああ――」


 それは、和泉も真っ先に考えた。すぐに諦めたことでもあったが。

 やはり一人だけ意味の分かっていない彩乃は、え? と訊き返している。

 蛍が答える。


「比良原の作品は一般的に見て価値があるものではない。だけど彼の世界観を愛する人がそこに価値を見いだして蒐集している。そういった作品は猶更、志を継ぐ人に修復されるべきなんだよ」

「ですが比良原に弟子はいませんでしたし、後継者と言われる作風の人もいない」


 芸術家の中にも、比良原の作品を愛好する人はいる。

 が――個性的すぎる、或いはありきたり、そんな矛盾した評価を得ている彼の作風を目指すとなると、出来のいい模倣になりがちである。

 比良原の作風とオリジナリティの融和、その難しさ。仮に苦労して自分の作品に取り入れたとしても、市場では評価されない。そうした理由から、彼を目指しても諦めてしまう人が多いのだ。

 そのあたりの事情は蛍も知っているのだろう。そうだね、と頷いた。


「本当に、不憫だとは思う。けれど私では力になれそうもない」

「ええ。こちらも無理を言うつもりはありません。お時間取らせてしまってすみませんでした」

「いいや。こちらこそ、すまないね。また美術館の方に遊びに来てくれると嬉しい」


 会話はそれで終わりだった。じゃあ、と短く言って去っていく。蛍の後ろ姿を眺めていた和泉は、ふと足元に何かが落ちていることに気付いた。橙色の夕日を反射して、濃厚な金色が輝いている。屈み込んで拾い上げる。ライターだった。オイルを入れるタイプのもので、装飾こそシンプルだが、ずっしりとした重みがある。古い。使い込まれてはいるが、大切に手入れされているようだった。


「蛍さんの落とし物かしら?」


 こちらの手の中を覗き込んで、彩乃が首を傾げている。


「でも彼女、禁煙したと言っていましたよ」


 答えながら、和泉はそれをポケットに押し込んだ。

 そのまま放置していく気にはなれなかったが、ライターを眺めていると焼かれた絵のことを思い出さずにはいられなかったのだ。


「また今度会ったときにでも、蛍さんに訊いてみましょう」


 とはいえ修復を断られてしまって、何を口実に会えばいいのかも分からない。あてを一つ失って溜息を零す和泉の隣で、彩乃はぶつぶつと呟いている。


「後継者か弟子、ねえ……」


 やがて何かを思いついたのか、顔を上げて。


「ねえ、和泉君」

「なんですか?」

「比良原君って、独学で絵の勉強を続けていたって言ってたわよね?」


 思いも寄らなかった人物の名前に、和泉は困惑した。


「え? いや、勉強というか趣味で描いているだけだと――」


 言いながら、彩乃の意図に気付いてしまって顔をしかめる。


「まさかとは思いますけど」

「そう、そのまさか。比良原君も言っていたじゃない。正当な後継者だって」


 確かに言っていた。けれど、そういう問題ではない。

 和泉は額を押さえた。難しいことを考えすぎて、彼女はおかしくなってしまったのかもしれない。そうでなければ、自棄になったとしか思えない。そんな提案だった。


「無茶ですよ。素人ですよ、彼」

「私だって数年前まで素人だったわ。誰だってそう。最初は素人から始めるのよ。十年、二十年って勉強すれば、比良原君だってものになるかもしれないじゃない」

「十年、二十年って。また随分と気の長い……」

「だって、今すぐにどうにかしなくちゃいけないってわけじゃないんだし」


 ――ねえ、和泉くん。

 と、興奮気味に詰め寄ってくる。そんな彩乃を押し戻して、和泉は呻いた。


「……分かりました。分かりましたから少し離れてください」

「よし! そうと決まったら次の休みは――」


 スケジュール帳を取り出して、予定を調べているらしい。

 彩乃の横顔を眺めながら、和泉は小声で呟いた。

 ――無理だと思いますけどね、俺は。





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