ラスト・メメント――貴族と死

鈴木麻純

第1話

 誰が生きて死を見ることなく、また自らの魂を墓場より救いうるだろうか

(『詩篇』 第八十九篇 四十八節)





  Ⅰ.



 死は誰の許にも平等に訪れる。富める者の許にも、貧する者の許にも、偉大な者の許にも、愚か者の許にも、強き者の許にも、弱き者の許にも、男の許にも、女の許にも、老人の許にも、若者の許にも、ときには幼子の許にさえ。誰もが当然のように知っていて、けれど日頃は意識することのない自然の理。警句を目に見える形にした〈ダンス・マカーブル〉――そのテーマは芸術家たちの手によって今にまで受け継がれてきた。

 〈死者の行進〉を手がけた比良原倫行もその一人である。

 己の人生を賭けて死を描いた男は、果たして想像しただろうか。その絵の中から死が失われてしまう日のことを。

 高坂和泉はアトリエの床に座って、朝からもう三時間もイーゼルに立てかけた小さな絵を眺めていた。

 〝兵士と死〟

 比良原貴士が遺品整理の現場から持ち出して、そのために藤波透吾の手で焼かれてしまった一枚。彼がそう狙ったのか、偶然そうなったのかは分からないが――兵士に向かって骨で作られた剣を振りかざしていた〝死〟のみが、綺麗に焼失している。

 一方で死の恐怖から逃れた兵士、イレギュラーに死を克服してしまった彼は安堵している反面でどこか戸惑っているようにも見えた。あの日から一週間ほど経っただろうか。何度鑑賞してみたところで、消えてしまった死が和泉に語りかけてくることはない。そのために、兵士も困り果てて口を噤んでいる。

 ――溜息。

 目の奥に熱を感じて、和泉は眉間のあたりを押さえた。観てどうなるというわけでもないが、何もせずにいるよりはいくらかましだ。いや、打つ手がないために他にすることがないといった方が正しいか。事件の日からすぐ、和泉は交流のある何人かの修復師に連絡をした。修復師とは、芸術作品や文化財といったものの修繕やメンテナンスを生業とした人である。

 彼らは確かな技術をもって作品を後世へ保存する。その在り方は芸術家というより技術者というべきで、そうでない修復師は芸術の破壊者である――というのが、誇りある修復師の言い分であった。芸術家に敬意を表した立派な信念だ。だが、和泉の方はすっかり困り果ててしまった。信頼のおける知り合いたちは過度な修復行為を嫌って、今回の依頼を受けてはくれなかった。顔の利く蒐集家仲間も何人かいるが、やはり腕のいい修復師というと挙げられる人は限られる。

 さて、どうしようか。

 どうしようもないのか。修復は諦めて、他の手を探すべきなのか。

 彩乃も協力を申し出てくれたが、何も思いつかないのか、或いは多忙なのか携帯電話は鳴らない。

(いや、それは静かでいいんだけど……)

 ほんの少しでも落ち着かないと感じてしまった自分にぞっとしながら、和泉は胸の内で訂正したが、すぐに一人むきになることの無意味さに気付いてしまって、ますます顔に憂色を強くした。

 思考にも行き詰まって、そのままごろんと後ろに倒れ込む。冷えた床板の感触に心地よさを感じながら、ぼんやりと天井を見つめる。クトナー・ホラのシャンデリア――レプリカではあるが――そこにつり下げられた無数の髑髏と目が合った。物心ついて初めて擬似的な死と想念の世界を教えてくれたそれは、心なしか笑っているようにも見える。


「懊悩しているな、我が息子」


 と、語りかけてきたのは勿論シャンデリアの髑髏ではない。


「ああ、五樹さん……」


 寝転がったまま頭を反らして、アトリエの入り口に視線を投じる。

 さかさまの世界に立っているのは父、高坂五樹である。履き古したジーンズに、絵の具で汚れたシャツ。そのラフな姿を見るに、今日は家にこもって作品制作に没頭するつもりだったのだろう。

 彼は正面のイーゼルに気付くと、珍しく渋面を作った。


「これはまた、どうしてこんなことになったんだ」


 声にはやはり珍しく、非難めいた響きが含まれている。


「それが話すと長くなるんですが――」


 そういえば、父にはまだこの絵のことを話していなかったか。

 思い出して、和泉は父に経緯を話してみようという気になった。一人で考え続けたところで進捗も望めまいという焦りもあった。


「実は先日、知り合いの写真家に頼まれて便利屋でバイトをしたんです」

「バイト? 生まれてからこの方、一度も外で働いたことのないお前が?」

「そういう言い方はやめてください」


 本気で驚いているらしいが、妙に引っかかる言い方をした五樹をぎろりと睨む。

 しかし彼は怯んだ様子もなく、丸い目で和泉を見下ろした。しみじみ、呟く。


「すぐにでも巴に教えてやらないと。彼女も驚くだろうよ」

「そんなに大騒ぎするようなことじゃないでしょう」

「いやいや。好事家ぶった趣味の他はまったくの無関心だったお前が、便利屋なんてあからさまに面倒なバイトを引き受けたと言うんだから騒ぎもするさ。お前が自分から進んで社会に出るというのは、たとえば私が恋を辞めて一般的な家庭を築くというのと同義だと思っていたからな。私は」


 得意の冗談ではなく、その顔は至極真面目だった。

 言い返したいが有効な反論も見つからず、やはり黙って彼を睨むに留めて、和泉は先を続けた。


「……そのバイトというのが遺品整理で。けれど故人のお子さん方――と言っても、二人ともいい年ですし家庭も持っているんですけど、彼らがそれぞれ別の業者に依頼したために現場で鉢合わせしてしまったんですよ」

「もう片方も便利屋で、ライバル会社だった……といったところかな」


 推理してみせる五樹に、かぶりを振る。


「いえ、葬儀会社です。その担当というのが、また俺や知人とは因縁浅からぬ人でして。嫌みな偶然だと思っていたら、巴さんのところを飛び出した比良原君までそこでバイトをしていたという」

「それは気が利いた偶然だ」

「他人事のように笑いますけど、大変だったんですから。結局その日は解散。後日話し合いをということになったんですが、葬儀会社の担当の方がまた口が一見好青年な上に口も上手くて……」

「対照的な彼に、見事やり込められてしまったというわけか」


 五樹はまたもそんな引っかかる言い方をして、面白そうに笑った。


「写真家の卵に便利屋と葬儀屋、そして比良原の孫。なかなかに奇妙な顔ぶれだ」


 だが友人が増えるのは悪いことではないな、と満足そうに頷いている。


「そのうちの誰一人として、友人ではないんですけど」


 和泉は苦い顔で言い返した。暗に不本意であると含めたつもりだったが、五樹には伝わらなかったらしい。どうせいつもの天の邪鬼だろう、という顔で彼は軽く肩を竦めると、思い出したように画布を覗き込んだ。爪の短い指先で焼けただれた箇所に触れ、珍しく嘆息している。

 日頃は冗談めかしてばかりの彼だが、笑みを引っ込めた素の表情は憂鬱そのものだった。下がりがちの眉と造りの小さい唇のせいでそう見えるのかもしれない。

 女性受けはいいとの話ではあったが、本人は陰気だと言って嫌っている。すぐに、その“陰気な顔”に戻ってしまっていることに気付いたのだろう。五樹は――いかんな、と顔を手で撫でた。


「しかし、カメラの次は絵――それも、お前の愛する〈死者の行進〉ときたものだ」

「どちらも俺がやったわけではありませんよ」


 和泉はやるせなく溜息を零した。


「遺品整理に入ったお宅に、この絵があったんです。それを比良原君が黙って持ち帰ろうとしたのでトラブルになった、と。葬儀会社の娘さんに頼まれて謝罪に付き合ったところまではまあいいんですが、問題はそのあとですね。例の担当の方というのが、死というものを憎む人で」


 いざこざの末に絵を傷付けられてしまった。顛末を告げると、五樹は難しい顔で唸った。


「死を憎む男、か。もしかして例のカメラを壊したのも?」

「ええ、まあ」

「実に興味深い。その知人たちと知り合った経緯も教えてもらいたいくらいだ」

「他人事だと思って……」

「いや、お前たちの災難を面白がるつもりはない。自らの意志で手放したとはいえ〈死者の行進〉には思い入れがあるからね。しかし絵が損なわれたことへの落胆以上に、期待の方が大きいんだよ」

「期待?」


 何を期待するというのだろう。訝る和泉に、彼は父親めいた顔で答えた。


「今まで一人で交渉をしては、遺品や絵を淡々と集めてきたお前じゃないか。こうして問題を持ち帰ることなんて、なかった。私はそれをいい傾向であると思っている」


 と言いながら、絵を見つめる瞳は悩ましげである。

 ――そんな顔をするくせに、なぜ〈死者の行進〉を手放したのか。

 今まで、その理由を訊ねたことはなかった。蒐集趣味に口を出されたこともなかったため、なんとなく話題に出すことを躊躇ってしまっていた。が、いつになく真剣な面持ちで絵を見つめる父を見ていると、どうにも訊きたくてたまらなくなった。おずおずと、声をかける――


「五樹さん――」

「……愛しているから憎むのだろうね」


 呼びかけは、間の悪いことに彼の呟きと重なった。意味ありげで、確信めいた言い方だった。


「それって、五樹さんのことですか?」


 訊き返す。

 五樹は少しだけ虚を突かれたような顔をしたが、すぐに首を振って否定した。


「いいや」


 それだけでは言葉が足りないと気付いたのだろう。


「お前の言う、死者を憎む男のことさ」


 すぐに、そう続けてくる。そうですか、と和泉は頷いた。

 なんとなく機を逃してしまった心地で、〈死者の行進〉を手放した理由を訊く代わりに別の疑問を投げてみる。


「一応訊いておきたいんですけど、五樹さんならこの絵の修復――」

「分かっていると思うが、私には無理だ」


 こちらも即答だった。彼が人の言葉を途中で遮るというのも珍しい。声には苛立ちすら含まれていた。

 わけが分からず、和泉はきょとんと目を瞬かせた。


「何を怒っているんですか?」

「いや――」


 五樹はしまったという顔で、口を押さえている。


「私と比良原とでは作風が違い過ぎるし、それでなくても芸術家は作品の内に自らの魂を注ぎすぎてしまう。私に限らず、画家として活動している人間に修復を頼むのは難しいと思うよ」

「俺も勿論、修復師に頼むのが筋だとは思いますけど……」


 手元の絵を見つめて、和泉は唸った。

 素人目にも、この絵を元の状態に修復することは難しいように思えた。

 だからこそ、或いは五樹なら――と思ったのだが。


「五樹さんの知り合いに、こういうのを直せそうな人はいませんか?」


 レプリカを専門とした職人や、最悪の場合は贋作家にあたることも考えてはいる。が、まずはとにかく修復師に頼みたいところだった。訊けば、五樹は顎に手を当ててううんと唸った。


「いないことはないが、腕のいいやつほど職人気質だからなぁ。傷みの補修やクリーニングならともかく、焼けたキャンバスから絵までとなると、もう芸術家の管轄だと言われてしまうだろうね」

「ですよね……」


 分かってはいたが、父の人脈にまった期待していなかったと言えば嘘になる。

 和泉はやや肩を落として、恨めしげな視線を画布に注いだ。画布の中から兵士が見つめ返してくる。いや、兵士ではなく兵士だった誰か、か。戦いは終わってしまったのだ。もう彼が剣を振り上げる必要はない。画布の上に生み落とされたその瞬間から兵士として存在し続けてきた彼は、唯一のアイデンティティーを失って、もう何者であるかも分からない。彼は一体、何者なのか?

 絵への取り留めもない感想から、また思考の迷宮へ踏み出していく。そんな和泉を引き留めるように、不意に五樹が声を漏らした。あ。そんな言葉ですらない短い音に、思考が解けていく。


「なんです? 五樹さん」


 和泉は視線を上げた。彼は、何かを思いついたような顔をしていた。


「もしかしたら、彼女なら頼まれてくれるかもしれない」


 沈黙している間、ずっと心当たりを探してくれたらしい。

 ――彼女?

 と訊き返す和泉には答えずに、五樹はアトリエを出て行った。それから、五分。戻ってきた彼の手には一枚の名刺があった。


「華ノ森美術館、学芸員――唐草蛍?」


 机の上に放りっぱなしにしていたのだろう。名刺の端は大きく折れ曲がってしまっていたが、名前を読み取ることはできた。

 なんとはなしに折れ目を逆側に折り返しながら、和泉は眉をひそめた。


「どちらさまです?」


 探しているのは修復師であって、学芸員ではないのだが。

 五樹はにっこりと笑った。


「知り合いだよ。華ノ森美術館で学芸員をしているんだが、元は修復師志望だった子でね。資格を取るために留学もしていたから、力になってくれるはずだ」

「へえ……」


 唐草蛍。もう一度、その名前を口の中で繰り返す。唐草。そうある姓ではない。

(だからって、この人がカラクサ葬祭に縁のある人だとも限らないけど……)

 慎重になってしまうのは、たちの悪い冗談としか思えないような偶然が続いているからだ。あの男は、因縁めいたものを感じる――と、そんな言い方をしていたか。

(確かに上光さんとの一件……いや、今井さんのところでの遭遇も含めれば四回だ)

 和泉も彼との因縁を認めないわけにはいかなかった。


「どうかしたかい? 和泉」


 五樹が訝しげに覗き込んでくる。


「いえ――」


 その不吉な予感を口に出す気にはなれずに、和泉は言葉を濁した。


「……彼女も、五樹さんの愛人ですか?」


 代わりに、訊いてみる。奔放な父親は、まさかと笑った。


「彼女とは一夜限りだったよ。どうにも、男と女にはなりきれなくてね。芸術家と学芸員であることの方が勝ってしまったんだ。だから、今でも友情が続いている」

「〝だから〟の意味がまったく分からないんですけど」

「それはお前が激しい恋と、魂を揺さぶられるほどの友情を知らないからだよ」

「へえ」


 苦笑する父親に気のない返事をすると、和泉は名刺をポケットの中にしまった。


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