39. 主人が突然いなくなってしまった




「ニャーッニャーッ(おい、真弦しっかりしろ!)」


 吾輩は真弦の後を追いかける。


「真弦ちゃん……!」


 やっぱり話に聞き耳を立てていた美羽の両親が玄関に追いかけてくる。


「送って行こう。夜道だし雨が降っている」


 パジャマ姿の英二がビニール傘を二本取って、可愛い柄が入った方の一本を真弦に差し出す。


「いいえ、結構です。雨に濡れて帰りたいから……放っておいて下さい」


 真弦は傘を受け取らず、吾輩を抱いて牛山家をとぼとぼと出た。

 彼女の幽鬼のような気迫に圧されてしまった英二とパトリシアは呆然としながら小雨に打たれる真弦を見送った。


 雨に打たれて真弦の腹の子は大丈夫なのだろうか?


「……はぁはぁ……クッソ……! 私どうしたらいいのか分からないよ、玉五郎」


 吾輩は雨に濡れる真弦の頬をざらりとした舌で舐めてやるしか出来ない。最近親になった吾輩だが、人間の事情についてはただの猫では協力も何もしてやれないのだ。


「ニャァーン……(頑張れよ、真弦。家はあと少しだぞ)」


 真弦の足取りは重く、濡れたスニーカーをべちゃべちゃ引きずりながら人通りのない夜道を歩いていた。


 不意にLEDの光が真弦の体に照らされる。


「真弦お嬢様……!」


 真っ黒いレインコートと上品な蝙蝠傘を差した見慣れない口髭でオールバックに髪を固めた小柄な男が真弦に声を掛けてきた。

 いきなり名前を呼ばれた真弦は顔を上げ、知らない男に奇声を発した。


「ぎゃあーっ!!!!」


 ぺたんと地べたに尻もちをつき、吾輩を手放して急に腹を押えだした。


 真弦はレインコートの男を変質者と思い込み、座り込んだまま近くに転がっていた空のペットボトルを手に取って腹を庇いながら男にぶん投げた。


「ち、近寄るな変態ーっ!」


「お嬢様やめて下さい! 俺です、小林です!!」


 小林と名乗った男はギャーギャーと暴れる真弦に近寄って自分の顔を見せた。

 街灯の下ではっきりと照らされた小林は口髭を生やしているが童顔で年が高校生ぐらいにしか見えなかった。


「こ、小林……? え?」


小林龍之介こばやしりゅうのすけです。天上院家で秘書をやらせていただいております」


「りゅ……龍之介ぇぇー!? 真澄の幼馴染で遊び相手だった龍之介ー! 天上院の会社に就職したのかー!」


 真弦は大声を上げて再会を喜び始める。おい、夜中だぞ……。

 叫ばれた龍之介は「ハハハ」と苦笑いを浮かべていた。


「真澄は元気なのか? ていうか、前みたいにため口聞かないの? 私だって一応幼馴染に入るだろう、龍之介おにいちゃん」


 龍之介は真弦にニコッと微笑むと、傘を差しだす。


「ああ、真澄は元気だ。まだアメリカにいて元気にしている。来週か再来週にこっちに帰ってくる予定だ」


「良かっ……た……」


 傘を受け取った真弦は従姉の安否がわかるとガクッと気を失ってしまった。


「真弦!? しっかりするんだ!」


 小柄な龍之介は慌ててびしょ濡れの真弦を軽々とお姫様抱っこをすると、慌てて広い道路まで走って行ってしまう。

 道路にはロールスロイスが停まっていて、真弦はその後部座席に押し込められた。

 ま、真弦ー!? 吾輩は家に帰ってれば良いのか?







 吾輩が真弦の家に窓から帰宅すると、汚い柄の子猫を抱きしめているギャルの格好をしたおばさんが青ざめた顔でテレビも点けずに座布団の上で呆然としながら座り込んでいた。


「あら……もう一匹の猫ちゃん。玉五郎ちゃんだよね?」


 吾輩は体に付いていた水分をブルブルと振るって弾く、


「うなーごー(どうしよう、真弦が龍之介って髭にさらわれたぞ)」


 真琴に報告するが、彼女には猫語が通用しない。


「真弦は……一緒じゃないのよね」


 真琴は美しいネイルアートがされた爪を噛むと、革の自然な光沢を放つバーキンのハンドバッグを開けた。金持ちご用達のエ●メスだよな。

 スマホを取り出し、マップを表示させた。


「あのバカ娘……! 夜中にうろつくからこんな事になるでしょうが。……天上院の奴らにやっぱり嗅ぎ付けられていたか……!」


 真弦のスマホにはGPS機能が付いていたらしい。近くのインターから高速道路に入ったのが見える。


「院長と主治医にたっぷりお小遣い渡しても天上院の権力には逆らえないとは……。畜生、市内のどこの病院も実家の息がかかってやがるしっ!」


 真琴はやっぱり真弦の母親であり、気性の荒さはすごくよく似ている。床をダンッと拳で叩くと、違う端末で誰かに電話をかけ始めた。

 英語なのだろうか、早口でまくしたてると通話を切る。

 続いて、また違う端末でスペイン語を使って何かを乱暴に話すと、すぐに通話を切って他の端末に手を伸ばした。

 何台スマホや携帯を持っているのだろう? 中国語とロシア語を話した後、ぜえぜえと息を切らした。


「海外留学で鍛えた日本人なめるな本家のクズ共っ!」


 ニタッと笑った真琴は勝手に冷蔵庫を開けると、未開封のコーヒー牛乳の1リットル入りのパックを取り出した。口を開けてそのまま直接ゴキュゴキュと飲みだす。

 ……セレブでもやっぱり下品な真弦の本物のお母さんであるのは間違いない。


「さて、若草大学……だったっけ? に連絡だな」


 コーヒー牛乳を飲み干して一息ついた真琴が次にスマホを取り出し、若草大学に連絡を取り始めた。

 しばらく誰かと通話した後、


「ファーックッ!」


 嫌そうな顔でスマホを真弦が寝ている万年床に叩きつけたのだった。


「若草も既に天上院の息がかかってやがる糞がぁ!」


 真琴は立ち上がると、真弦の仕事机の前に立った。

 描きかけの同人BL漫画が散乱しているのを見つけ、がっかりした表情で額に手を当てた。

 白紙の原稿用紙を見つけ、真弦の持っていたカラーペンの赤を使う。


『真弦が妊娠したので急いで連絡して下さい。お母さんより』


 自分直通の電話番号も記入すると、物が散乱したコタツテーブルを片づけて赤い文字の紙を太いセロテープで張り付けた。これは吾輩達猫がいたずらしないように取った措置だろう。そして、ラップを台所から見つけ、それを紙の上に張り付けてまたセロテープで固定した。……真弦の母親は意外に几帳面な性格なんだな。


「何で娘の彼氏は携帯繋がらないんだよバカーッ!」


 真琴はぶん投げたスマホを拾い上げると、他の携帯と一緒にハンドバッグに放り込んで立ち上がった。

 最近になって光矢は帰ってこなくなったし、どうなるのかはわからないよ吾輩には。


 暗幕みたいなカーテンをしっかり隙間なく整え、ベランダと吾輩の出入りしていた窓を施錠する。次に、エアコンを『快適』モードに調整した。


「定期的にうちのスタッフが餌をやりにお世話に来るから、大丈夫だよ猫ちゃん達」


 そう言うと真琴は鍵を閉めて真弦の家を飛び出して行った。

 ちょ……! 106号室の住人は猫二匹になってしまったぞ……どうしよう……。しかも軟禁されちまったぞ……本当にどうしよう!?





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