40. さよなら106号室




 真琴の言った通り、ハウスキーパーみたいな中年女性の『スタッフ』が朝と夕方の2回、定期的に家にやって来た。

 合鍵を使って部屋に入り、外に出たがる吾輩達の気を玩具で上手に逸らしながら餌と水を与えて猫トイレのメンテナンスをして出て行くのがこの毎日だ。たまにかび易い水回り等を整えて行く。

 1週間近く過ぎた夕方頃、いつもの女性が餌をやりに来ていると、


 不意にガチャガチャとドアノブに付いた鍵を回す音が聞こえた。

 ……まさか!


「なんだ、真弦、いたのか。……え!?」


 しばらくぶりに帰ってきた就活スーツ姿の光矢と、餌やりの中年女性の目が合う。


「……あんた、誰?」


 光矢は餌やりの女性を見るなり泥棒を疑うような怪訝な顔をする。


「依頼主様から玉五郎様と子猫様に食事のお世話をするように仰せつかっております。中田と申します」


 ピンクのポロシャツとジーンズ姿の女性は光矢に深々とお辞儀をする。

 やっとこの中年女性の名前が判明したのはいいが、光矢は中田を見るなり不安な顔になった。


「……真弦に何かあったのか?」


「詳しくはよくわかりませんが、テーブルに書置きがあるので見て下さい」


 中田はコタツテーブルを示すと、狼狽する光矢をチラチラと野次馬の目で見ていた。やっぱり第三者も気になるよなこの只ならぬ事態が……。


「何て事だぁぁーっ!!!!」


 光矢は驚愕のあまり絶叫すると、声に驚いた中田の両肩を掴んだ。

 いつもはそんなに驚きのリアクションを示さない光矢にしては珍しい反応である。


「真弦は病院に入院してるのか?」


「……私は何も知らないんで、とにかく下に書いてある電話番号に急いで連絡してあげて下さい」


 山岳部で鍛えられた光矢の握力が強いらしく、中田の脂肪で緩みがちの肩に骨太の指が食い込んでいる。

 光矢は中田を突き放すと、背広のポケットを全部まさぐって目的の物を取り出す。


「ぐわああーっ! 電池が切れてるぅ……」


 いつも携帯を使用しない光矢のスマホは充電されていなかった。

 しょうがないので中田から携帯を借りて赤文字で書かれた連絡先に電話をかけたのだった。







 中田がいつも通り業務を終えて帰って行った。

 背広を脱いでネクタイを解いた光矢は万年床に胡坐をかいて座り込んだ。


「……どうしよう。マジでどうしよう?」


 ペット用の籠に仲良く折り重なっている吾輩とサビ猫の娘を見るなり悩み始める。

 いつもはヘラヘラして軟派そうな雰囲気を醸し出している光矢の真剣な顔は背広の特殊効果で妙に凛々しかった。


 充電器に繋がれたスマホを見ては、折り重なる猫を見る落ち着きのない光矢である。

 真弦に関する事を考えて時折ニヘラッと笑ったりガッツポーズを取るのだが、彼女の一大事が起こっている事を考えてバシバシと両方の頬を叩いている。

 充電されるまで気晴らしにテレビやパソコンを点けるでもない……。いつもはどっしりと構えている男なのに、今回の件はかなり落ち着かないのだろう。


 携帯を充電しながら、起動ボタンを押してみる。

 すると、緊急事態に場違いな呑気な南国音楽が流れてきた。ああ、着メロだろう。


「……もしもし?」


 やや動揺した面持ちで通話。電話の相手は誰だろう?

 相手は声が高いようだが、くぐもってて性別はよく分からない。


「え? え? ……家の前に?」


 慌てた光矢は充電器に繋がったスマホを持ち上げて立ち上がる。


 充電器のコードが伸びきってピンと張り。携帯が背後に持ってかれて光矢が後ろにひっくり返ってこけた。

 ゴンッ! こけたまま呆然とした顔で起き上がれなくなっていた。

 どうしたんだよ光矢ー!? お前らしくない……お前らしくないよっっ! 行方不明になった真弦といい、光矢といい、二人ともらしくなくて吾輩はちょっと悲しい。


 すると、ピンポーン とインターホンが鳴った。


 光矢が慌ててドアを開けると、松葉楓に容姿が似た少年が偏差値の高い有名私立中学の制服を着て立っていた。


「……炎! 楓は大丈夫なのか?」


「ああ、まあね……」


 松葉炎まつばえんはぶっきらぼうに答えると、背負っていた指定の鞄の紐を直して姿勢を正す。込み入った話でもしようとしているのだろうか……。


「そこにいるのもなんだ、上がれよ」


「やだよ、そんな不潔な部屋」


 万年床が敷かれていて、猫の獣臭がする狭っ苦しい部屋に辟易しているのだろう、炎は眉根を寄せながら入室を拒否する。


「いいから上がれ。ゲームの話をしに来たわけじゃねーだろ」


 光矢は炎の腕を引っ張ると、強制的に部屋の中に彼を入れた。

 炎は仕方なくフローリングの床の上に雑誌を置いてそこに座った。


「おい、光矢は俺の義理の兄貴になる奴じゃなかったのか?」


 炎は姉の楓の婚約者は光矢と刷り込まれているので、特に抵抗もなくタメ口で生意気な口調で話しかけてくる。


「……楓には申し訳ないと思っている。それは何度も……な……」


「うるせーよ! 約束はこっちの方が先だって親同士言ってたじゃないか! 何なんだよ後から割り込んできた天上院財閥ってさ? さっきじいやから聞いて驚いてここまで来たって言うのに何だよ光矢の態度も?」


「スマン、炎……!」


 光矢は思春期真っ只中の真っ直ぐな少年の怒りに満ちた目を見る事が出来ずに目を反らしてじっと耐えている。


「大人って汚い! 結局でかい金の力で左右されやがって。姉ちゃんはずっとお前と結婚するって信じて生きてきたのに……!」


「すまねえ……」


「天上院財閥に金積まれて松葉も何も言えないなんて……悔しい! 所詮地方議員どまりの親父なんて宛てにならないじゃん! クソッ」


 議員への献金は法律で罰せられるが、政府に見つからなければいい話なんだ。財閥が議員に賄賂を渡した所で、政府よりも権力がある存在では裏で行われている悪事ももみ消されてしまうらしい。真っ直ぐな心の少年は大人の世界に疑問と怒りを露わにしていた。


 光矢は辛そうな顔の炎に清涼飲料の入った500mlのペットボトルを渡してやる。


「これ飲んで落ち着け」


 ペットボトルを受け取った炎はそれを持ったままきょとんとしていた。

 生粋のお坊ちゃまなので、ペットボトルに直接口をつけて飲むなんてした事が無かったみたいである。

 光矢は一旦座った腰を上げて、コップ代わりにしていたマグカップに液体を注いでやった。それでやっと飲み物が飲める炎はちょっと可愛いらしく、プッと噴出した。


「お前も女遊びする時は気をつけろよ。特に議員になりたかったら家柄と容姿は選んで情は移さないようにな」


 光矢は意味深な顔で中学生の炎に対して言った。


「う……うん!」


 炎は耳まで顔を真っ赤にしながら答え、小さく頷くのだった。


「そ、そそっそれよりも! 光矢ずるいよ!」


「何がだ?」


「うちのねーちゃん振って例の財閥の令嬢と結婚なんて……」


「……それは不可抗力というかなんというか、な」


「光矢が総帥になったら、俺のバックに付いてパトロンになれよ! 総理大臣になる時に絶対に心強いから」


 松葉炎の将来の夢は総理大臣一直線の様だ。


「俺が天上院の総帥ねえ……? 柄じゃねーんだよなぁ……ハハハ」


 光矢は力なく笑っていたが、炎は本気で天上院財閥の最高権力者の座を光矢が勝ち取るようにギャンギャン吠えていた。振られた姉と家の無念は自分が晴らしてやろうと必死なのだ。


 ねえ、それよりも聞きまして奥さん? いつの間にか光矢は真弦と結婚するような話になっているんですけど……。これって今も昔も大流行の出来ちゃった結婚ですよね?

 光矢っの実家ってどんな家なのかまだ吾輩は聞いた事が無いので、とんだシンデレラボーイだなと思ってしまうのだ。吉良光矢は逆玉の輿でうらやましい奴だな。


 愛の無い政略結婚を嫌がっていた光矢は結局、より大きな権力者の元へと婿に行く事になってしまったのだろう。

 心労で病に伏せてしまった姉の事をギャンギャン言ってきた炎に平謝りしながら、内心はヘラヘラと笑っていた。


「楓には俺の事を忘れて幸せになれって言ってやってくれ」


「言われなくてもそうするっ!」


 炎は不機嫌そうに怒鳴ると、鞄を背負ってドアを開けた。

 扉の向こうには迎えに来た執事みたいなお爺さんがいて光矢に一礼をした。


「さようなら……楓……」


 光矢は炎の背中を見送りながら玄関でこっそりと呟いた。

 静かに部屋のドアを閉めると、スーツ姿のままどさりと万年床に転がった。


 数分ゴロゴロしていたと思ったら、急にスマホを取り出して誰かにメールを打ち始めた。光矢がメールをするのは珍しく、用があるなら直接通話を選ぶ男なのである。

 何だろう? このしっくりこなさは?

 吾輩は不安になりながらラタンの籠から外に出てサビ猫の娘と一緒に光矢に寄った。


「ニャーン(どういう状況なんだよ?)」


 言及しようにも吾輩には人間の声帯は持ち合わせていない、ただ鳴くだけで光矢の注意を引いただけだ。


「あ、そうだ!」


 光矢は何かを思いついたのか、ペットキャリーを取り出して吾輩達を無理やり中に押し込んで部屋の外へと飛び出して行った。


 え? え? 何が起こってるんだ?

 吾輩は全く状況もわからないまま、光矢に引きずられてキャリー越しに外気を浴びた。


「みゅーん(父ちゃん、アタイ達どうなっちゃうの?)」


 今まで外に出た事が無かったサビ猫はプルプルと身を震わせて吾輩の腹の下に潜り込んで不安になっている。


「(さあ? どうなるんだろうなぁ……?)」


 吾輩もよくわからず、キャリーの隙間から見える見慣れた外の景色を眺めていた。









 ピンポーン♪

 一軒家に備え付けられたインターホンを光矢が押している。


『はーい』


 インターホンに応じたのはすごく効き慣れた声である。


「ごめんください、吉良という者です。美羽さんは御在宅でしょうか?」


 光矢はいつもとは違った真摯な声でインターホンのマイクに向かって話している。


『美羽は私です。ちょっとお待ちください』


 美羽は固い声色で応じると、玄関まで駆けて出てきた。今日はコットンの部屋着風シャツワンピースを着ている。そのベリーショートでは子ザルのようにボーイッシュで似合っている。


 しばらく恋敵同士の二人は見つめ合うが、光矢が耐え切れなくなって目をそらしてしまう。


「や、やあ……。元気か?」


「お蔭様で」


 美羽は気持ちが悪いほど無表情で答えて頷いた。何とか鉄面皮を装っている様子だ。


「突然で何だけど、真弦の猫を預かってくれないだろうか?」


「いいけど? 光矢君どうかしたの?」


 美羽はあっさり吾輩達を預かると承諾する。が、光矢に何かあったのだと興味が湧いたらしい。それは多分、真弦にかかわる事だろうからと。


「……いや、その……、これから真弦の実家に挨拶に行かなくちゃならなくて……」


「真弦のお母さんの家なら玉ちゃん達大丈夫でしょ?」


「本家の方に呼び出されているんだ。真弦の容体もあるからしばらく滞在するように言われてるし、さすがにペットまで連れて行くのはまずいかなって思って……」


「そう……。真弦は妊娠したんだったね」


 美羽は暗い顔で吾輩達の入ったペットキャリーを受け取ってジッパーを引いた。

 吾輩は外に出て美羽のサンダルを履いた生足に体を擦りつけた。

 美羽が小さなサビ猫を出すと、半分眠りに落ちていた娘の毛皮を柔らかく撫で始めた。 

「あ……、ゴメン! 俺の所為で二人の仲が……」


 察した光矢が謝るが、美羽はフフッと笑った。


「いいの。元の親友に戻っただけだよ。真弦の気持ちに気が付かない私が馬鹿だったんだもの」


 美羽の作り笑顔は儚く悲しげである。

 そんな辛そうな美羽を前に光矢は目を反らし、背を向ける。


「……じゃあ、猫達を頼んだ」


「うん……わかっ……!?」


 そうはイカの金玉よっ!! 吾輩は美羽の隙をついて光矢の背広の上着に飛び乗った。

 幅広く筋肉質の肩の上に載った吾輩は光矢の顔に自分の頭を擦りつけた。


「んなーごー(吾輩も連れて行け)」


「おいおい、お前も行くってか?」


「ニャー(無論だ)」


 吾輩は人間と会話を成立させていた。光矢は吾輩の同行を無言で承諾する。


「あのー、玉ちゃんはどうしたら……?」


 取り残された美羽はサビ猫の娘を抱きしめたままオロオロしている。

 光矢は振り返ると、


「こいつは真弦と長い付き合いみたいだから一緒に連れて行くぜ!」


 美羽に向けてニカッと快活な笑みを浮かべた。

 吾輩は大体光矢とあまり変わらない時期に真弦と生活を共にしているが、光矢は吾輩が生まれた頃から一緒にいると少し勘違いしているようだ。まあいいさ、吾輩も真弦に会いたいのだから。


「みゅーん(父ちゃん……)」


 一匹だけ残っていた吾輩の愛娘は目を潤ませながらこちらを見ている。


「(娘よ、美羽の家は礼二が厄介だが後は心配いらない。美羽が絶対に幸せにしてくれるだろう。さらばだ)」


 吾輩は光矢の肩に襟巻のようにして乗り、美羽と愛娘と別れた。


 しばらく光矢は颯爽と歩いていたが、吾輩の毛皮と人間の皮膚の間に出来た汗だまりに気持ちが悪くなったらしい。

 吾輩の首根っこを掴み、まだ見送ってた美羽の元へと戻って行った。


「やっぱキャリー返して」


「うん」


 美羽はぽかんとしながら吾輩がイチゴ柄の趣味の悪いペットキャリーに入れられる姿を見つめていた。

 最初はカッコ良くてもいつも締まり切らないのが吾輩と光矢の最大の特徴なのだった。そこん所は何とかして欲しい。






  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る