38. 真弦の妊娠




 真弦は暗い表情のまま帰宅すると、抱きしめていた吾輩を解放した。


「ニャーン(お帰り父ちゃん、真弦ちゃん)」


 サビ猫の娘が嬉しそうに玄関で出迎えてくれた。


「ママ、これから荷物を取りに行ってくるから、変な気起こさないようにね!」


 真琴は厳しい表情で真弦に言いつけると、ピンヒールをハンドバッグにぶら下げて走って出て行ってしまった。

 帰りの車内では二人とも無言だったし、病院で一体何があったのだろうか?


「ニャーニャーニャー(真弦ちゃん晩ごはんまだー?)」


 子猫が玄関で呆然と立ち尽くしたままの真弦の足元にすり寄っている。

 だが、真弦はぼーっとしたまま靴を脱いで輝美から借りた寝巻を脱ぎ、いつものゆるい普段着に着替えた。


 非常用に用意してあった猫缶を戸棚から取り出すと、吾輩達に振舞う。


「玉五郎、ちょっと出かけてくるよ」


「ニ"ャッ(なんだと?)」


 真弦は髪を低い位置で二つにひっつめると、鍵もかけずに部屋を飛び出した。

 ちょ、ちょお待てー! どこへ行くつもりだー?


「なーごー(娘よ、父さんは主人が心配だから留守番頼むぞ)」


「ミャー(わかった)」


 真琴の目を盗んで真弦はどこへ行ったのだろうか?

 吾輩は出窓から飛び出して彼女の後を追った。


 追い詰められたあいつが行きそうな場所は大体わかっている。

 吾輩は抜け道を通りながら牛山家へ急いだ。得意の先回りだ!


 牛山家の門はいつも電灯が灯っており、家長の帰りを待っているのだ。

 吾輩はリビングのある庭に入り、中の様子を覗き込んだ。


 リビングで美羽と風呂上りっぽい礼二が仲良くアクションRPGをしていた。人生の暇を持て余して異常にゲームが上手い礼二と、初心者丸出し美羽が礼二に得意げに注意されているのが印象的である。礼二の奴は暇人だから何回かゲームをクリアしてると見た。


「ニャーニャー!」


 吾輩は来訪を知らせる為に大きい声で鳴いた。

 ゲームに辟易していた美羽が気が付いて窓を開けた。


「玉ちゃん、どうしたの?」


 美羽は真弦の所有物である吾輩を嫌悪するでもなく、すんなりと家に入れてくれた。


「お腹がすいてるんだね。ママー、煮干しか何かあるー?」


 猫の吾輩にはいつも通り接してくれるようだ。


「チッ……お前か」


 精神病院通院中の礼二も相変わらずだ。畜生の吾輩にも美羽に近寄る輩に対しては動物的な本能を出して敵意剥き出しである。妹を気が狂うまで溺愛しなければただのイケメンで済んだのに残念な青年だ。


 吾輩は牛山母から煮干しと茹でた鶏ささみを貰って食べた。

 夕飯はバンバンジーだったらしく、帰りの遅い英二の分からささみを拝借していた。


 美羽は吾輩を抱っこして腹のあたりをさわさわと触って感触を確かめている。

 吾輩が先に来たという事は、真弦が後で来るのだろうと覚悟している複雑な様子だ。


 真弦が来ないまま、時刻はデジタルで22時を示している。

 さすがに牛山父も帰宅していて、ご飯と風呂を済ませていた。

 今は美羽と一緒に団らんしてくつろいでいる。(礼二は処方された睡眠薬が効いて既に就寝中である)


「美羽ー、いい加減お風呂に入るダニよー?」


 リビングで吾輩を抱きしめて微動だにしない美羽は風呂上がりの母親に首を振った。


「お風呂の栓抜いちゃっていい!」


 美羽はイラつきながら母親に答えた。待っても待っても真弦が来ないのである。

 父親がザッピングしているテレビをぼーっと眺めていると、ピンポーンとインターホンが鳴った。

 牛山母がパックしている真っ白い顔で受話器を取った。


「美羽ー、お待ちかねの真弦ちゃんヨ」


「帰って!」


 何故か美羽は行動と逆の言葉を叫んだ。

 じゃあ真弦の所有物の吾輩はどうしたらいいんだ?


「何でか泣いてるケド、真弦ちゃん返していいダニか?」


 パトリシアが動揺しながら受話器を上げている。美羽に玄関に出迎えるよう促すが、美羽は出ようとせず、ソファーに縫い付けられたように動かなかった。


「んもーしょうがない子ネ。喧嘩して謝りに来るのいつも真弦ちゃんなんだからもう許してあげて欲しいダニよ」


 パックを外したパトリシアは急いで玄関に立った。

 そして、目の下と鼻を真っ赤にした真弦をリビングに連れてきた。


 真弦はリビングの椅子に導かれるが、パトリシアを制して床に正座する。

 そして美羽の父の英二に向かって頭を垂れた。


「娘さんを私に下さい!」


 衝撃的な発言に、牛山家の面々は凍りついた。


「え? ……真弦ちゃん、今何て?」


 英二は耳を疑い、前のめりになって真弦に聞き返した。


「牛山美羽さん、私と結婚してください!」


「はあー?」


 今度は美羽が耳を疑い、聞き返そうと真弦に近づくと、


 バターンッッ


 美羽の母のパトリシアが気を失って卒倒した。


「わああ、母さん!?」


 英二は気を失ったパトリシアを抱いて揺さぶるが、白人の彼女ははっきりした真っ青な顔で白目を向いて何も答えようとしなかった。


「真弦ちゃん、レズビアンなのはわかるが、うちの美羽とはさすがに結婚できないだろう……。日本の法律では同性婚は認められていないし」


 英二は意外と同性愛については冷静だった。あの時の衝撃発言を目撃した所為で何か勉強をしていたらしかった。


「それでも、私は美羽と結婚がしたいんです! お願いします!」


 真弦はボロボロと涙を零しながら英二に懇願を始める。


「真弦……っ!」


 美羽も真弦と同じようにボロボロと涙を零した。


「でも、いきなり何でわたしなのよ……?」


 真弦は美羽に「結婚してくれ」と一点張りで、他は何も言わなかった。


 真弦は美羽に抱き着いて嗚咽を上げて震えている。

 結婚を迫った者がなぜそんな素振りを見せるのかは謎だ。


「真弦、落ち着きなよ、私は怒ってなんかいないし、今まで通り普通にするから」


 激しく動揺した美羽が様子のおかしい真弦の涙を拭う。


「二人とも、レモンティーでも飲んで落ち着きなさい」


 パトリシアを寝室に置いてきた英二が慣れない手つきで紅茶を入れてきてくれた。

 真弦が暖かい紅茶を手に取る。


「……ありがとうござ……うぐふっ!」


 レモンの酸っぱいにおいを嗅いで不意に口元を押さえた。


「真弦!? どうしたの?」


 美羽は真弦がいつもとは違う様子に驚いて立ち上がる。

 顔面蒼白の真弦が口を押えたままトイレに駈け出したのだった。




 トイレに籠城して30分が経過した頃だろうか、パトリシアが目を覚まして扉が閉まったトイレの前に立った。

 狼狽えている英二から英語交じりの事情を聴いて頷いた。


「もしかして真弦ちゃん、妊娠デハ……?」


「え……? まさか……」


 ずっとトイレの前をウロウロしていた美羽が母親の両肩を掴んだ。


「ワタシも、礼二がお腹にいた時にレモンの匂いがダメになったものヨ。妊婦って身近な物で気持ち悪くなるのヨ」


 しばし重苦しい沈黙が続くと、水が流れて憔悴しきった真弦がふらりとトイレから出てきた。


「ニャーッ(真弦、お前死にそうだぞ!?)」


 吾輩が真弦を心配して近寄ると、真弦はフッと笑って吾輩を抱っこした。


「美羽、話を聞いてくれないか?」


 真弦は真剣な表情で美羽に詰め寄る。

 牛山家の父と母は妙にうずうずとしながら真弦を見ているが……。


「悪いけどママとパパは寝室に行ってて」


 美羽が空気を呼んで両親を制した。彼らは顔を見合わせてそわそわと心配そうに引っ込んでいった。






 真弦と美羽がリビングに併設したキッチンで話をする事になったのは、礼二の妹盗撮盗聴疑惑がまだ晴れていないからだ。

 美羽が冷たい水の入ったコップを真弦に手渡すと、彼女は一気にそれを煽った。


 咽喉の渇きが癒えた真弦が口を開く。


「美羽、本当に私と結婚してくれ! これは冗談で言っている事じゃないんだ」


「……何で?」


「海外なら同性の結婚も可能なんだ。そして、私が身ごもっている子供を美羽が生んだ事にして欲しいんだ」


「……何でなのよ? 出産するのは真弦じゃないの」


「そうだけどっ! どうしても美羽が生んだ事にして欲しいんだ……」


「何で? 真弦の言っている意味がよく分からないよ」


 真弦は気でも狂ったのだろうか、自分の身ごもった子を美羽に授けると言い出したのだから……。


「お腹の子って光矢君の子供でしょ? どうして結婚を迫るのがわたしなのよ?」


 目を見開いている美羽はテーブルの向かいで混乱してパニックになりかけている。


「あいつじゃ駄目なんだよ……」


「光矢君には婚約者がいるから? アンタは遊びの浮気相手だから?」


「違うんだ! そうじゃなくてっ……うわぁぁーっ!」


 真弦は大声を上げて泣き出した。混乱したままで、それはもう痛々しいぐらい真弦らしくなかった。


「実家が……うちの本家の実家が怖い……。天上院家になんて生まれたくなかった」


 確か真弦の母親の実家は財閥だか何だかでえらい権力者の家だったりするらしい。今まで母子家庭で自由に育児放棄されていたのは実は家庭の深い事情があるのだ。

 美羽はあまり真弦の実家の事については本人の口からはあまり聞いた様子では無かったみたいだが、有名な天上院財閥のお嬢様の一人だとは承知していた。


 美羽は泣きじゃくる真弦を母親のように背後から抱きしめる。


「真弦、落ち着いてよ。事情が分からないとわたしもどうにもできないから」


 弱々しく変貌した真弦に驚いている美羽はまたプロポーズを受けた時みたいにボロボロと涙を零し始めた。

 美羽も激しく動揺していた。


「……ひぐっ……私の産んだ子供が……本家に奪われてしまう」


「どういう事?」


「代々私の家は女系家族なんだ。天上院の名血を受け継ぐ者に男子が生まれたらその子は当主にする為に本家の籍に入れられて本家で生まれた子供として育てられる。そういう決まりなんだ」


 現時点で真弦が身ごもっている子供の性別についてはわからない。女系家族ならば女の可能性が強いだろうが、子供の父親である吉良家の血が入っているから男女の確立が頭でざっと計算出来なくなっているのだろう。


「そういえば、初等部の時によく話していた従姉の真澄さんは? あの人も適齢期だから婿養子を取って子供を産む可能性だってあるでしょ」


 真弦は苦しそうに呻く。

 彼女の母親の双子の姉が産んだ子は天上院真澄てんじょういんますみという。本家の子で、病弱な女の子だったと美羽は真弦から聞かされていた。


「……あいつは男だよ」


 地の底から湧き起こるような深いため息をついた真弦が憎悪と絶望感に打ちひしがれている。


「へ? 男の人だったの? 真弦と瓜二つでフリフリのドレスを着てたって言うしてっきりわたし……。じゃあ、お嫁さんを貰って男の子を産んでもらえば大丈夫じゃないの。もー、真弦ったら……」


 美羽は安堵するように「アハハ」と空笑いするが、真弦が唇を噛みしめて頭を振った。


「元々女なんだから、子種なんて一滴も出る訳がない。直系に男が生まれなかったからって真澄は無理やり男に性転換手術されて……ううっ」


 真弦は本家の恐ろしさにガタガタと震えていた。


 真弦は本家から離れて育てられたので詳しくはよく分からないみたいだが、真弦の伯母は真澄を産んだ後に生死を彷徨い子供が産めない体になったそうなのだ。

 男子を期待されていた直系の伯母は一時本家の立場を失ったらしい。その時に双子の妹である真弦の母親の真琴に男子を産ませようと色々とひと悶着があったという。しかし、あの自由奔放で意外と聡明な真琴だ、天上院家からふらっと姿をくらませてほとぼりが冷めた時に一人で帰ってきて女の子を産んで育てた。生まれた女の子は真弦で、父親は誰か未だに明らかにされてはいない。真弦は父親の顔を知らずに育ち、また、母親の真琴は今まで一度も結婚せずに自由な恋愛をしながら独り身を貫いている。

 だらしない真琴に期待できなくなった本家は真澄に期待を始めるが、あまり丈夫な子ではないという事で物理的な肉体改造を施し、彼女を女から男に強制的に作り変えた。

 そして、直系の子供を産む役目は真弦に託されたという……。


「……嫌だよ。どっちみち長男か長女は本家に取られてしまうんだ。女だったら男に改造されてしまうかも知れない……可哀想」


 真弦は美羽の小さな胸の中で泣きじゃくった。

 美羽は真弦の頭を撫で、自分の涙を拭う。


「それなら……その子供堕しなさいよっ……」


 言葉を吐き出した美羽の顔はとても苦しそうだ。瞳は今にも零れ落ちそうな涙で満ちている。


「そんなのもっと嫌だぁーっ!」


 真弦がまた大声を上げて泣く。

 美羽が真弦から静かに放れる。

 ビシャン! 美羽が真弦の頬を強く引っぱたいた。

 大粒の涙が宙にはじけ飛んだ。


 美羽は煮えたぎる暗い怒りと悲しみを隠しきれずに震えている。


「アンタはやっぱり光矢君の事を愛しているじゃないの! アンタを暗くて孤独で可哀想で守ってやりたいエゴの塊みたいなこんなわたしなんかじゃなくさあ!」


 今までにないヒステリックな声を上げ、頬を叩かれて目を見開く真弦に抱いていた感情を全部ぶつけた。


「真弦とは結婚出来る訳ないじゃない! 女同士なんだし馬鹿馬鹿しい」


「……何で? 美羽、私は美羽と結婚しないと困るんだよ?」


「アンタの都合の良いようになる訳無いでしょうがっ! ……わたしを何だと思ってるのよ!? わたしはアンタの道具じゃないんだ」


「ううっ……ぐすっ……い゛づも゛の゛、美羽じゃないぃ……」


 真弦は涙と鼻水で顔をグシャグシャにしながら床に尻もちをついて泣き崩れている。


「この嘘つき! わたしをたぶらかして弄んで許さないんだから! もう帰れよっ! アンタなんて顔も見たくない大嫌い」


 美羽は怒りにまかせてありったけの憎悪を真弦にぶつけた。

 

 感情をぶつけられた真弦はゆらりと立ち上がり、怒り狂う美羽を見る事もせずに顔をグシャグシャにしたままふらふらと玄関に歩き出した。



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