◆夢と現と現と夢

 キャロディナは精神の覚醒と共にはっきりと理解した。

 これは夢だ、と。


 世界の輪郭は四方八方があやふやではっきりしない。

 少し遠くへ意識を向けたところで、もやがかかっているように何も見えなかった。


 ミルクのような濃厚な空気の中で、地面とも空中とも判断がつかない場所で、巨大な獣が丸まって眠っていた。


 キャロディナはすぐに「狼だ」と悟ったが、キャロディナの知っている狼よりもこの獣は巨大すぎた。

 何しろ、丸まっているというのにカイゲツよりも大きいのだ。

 カイゲツどころではない、立ち上がればきっと馬よりも大きいだろう。


 あの森のように黒い狼だとキャロディナは思う。

 耳の天辺から尾の先まで、混じりけのない純粋な黒。

 艶々と光るキャロディナの黒髪とは違い、光を反射すらしない完全な漆黒だ。

 前足に顎を乗せ、その目は何もかもを否定するように閉じられている。


(カイゲツに、似てる……)


 何もかもを否定するように。

 キャロディナにとってのそれはカイゲツの代名詞だ。

 とはいえいずれ変えてやる予定なのだが。


 気になるのは、キャロディナと狼の床の位置が少しズレいることか。

 キャロディナの方が少し高いところに居るのだ。


 大きな狼をそっと見下ろした。


「ここは、私の夢? それともあなたの夢?」


 声をかけられて初めて存在に気が付いたのか、狼の耳が立ち上がった。

 鼻がスンスンと動き、余所者の位置を確認する。


 パチと開かれた目に、キャロディナの鼓動が跳ねた。

 これは自分の知っている生物ではない。

 そうはっきりと分かる目だったからだ。


 本来白であるべき部分が黒く、瞳は逆に白かった。

 色が逆だというただそれだけで、生物の理から外れていることが分かる。


 瞳が動き、まっすぐにキャロディナへと向いた。

 思わずたじろぎコクリと喉を鳴らす。

 色のない瞳には感情すらないように思えた。

 狼が何を思い自分を見ているのかが分からない。


 ふと、狼の尾が平行に二往復ほど揺れた。

 その尾は、見間違うことなく二尾だった。


 二尾の狼。

 キャロディナはつい先日その存在が何を表すのかを聞いている。


「あなたが魔王ね」


 その称号で呼べば、狼の黒い毛が逆立った。


 当たり前だが返事はない。

 ただ、白い瞳がキャロディナをじっと見据えて逸らさない。


「あなた、一人なの? 寂しくないの?」


 狼の顎が前足から離れ背筋に力が通ったように顔を起こしてこちらを向いた。

 名のある絵師に描かれたような、神殿に置かれた像のような尊厳な姿に息を飲む。


 なんて美しい獣なのだろうか。


 王の瞳がこちらに向けられている。

 魔を統べる王の真っ白な瞳が。


 その瞳をもっと良く見ようとして初めて、キャロディナは狼の姿が小さくなっていることに気が付いた。

 いや違う、キャロディナの位置が先ほどより高くなっているのだ。


(ちょっと待って! まだ話していたいのに。言ってないことがあるのに!)


 キャロディナは透明な床に手を着き、狼を覗き込む。


「ねぇ、私とお友達にならない?」


黒い毛に覆われた瞼が一度だけぱちりと瞬かれた。


「ここは夢だけど、夢の中だけじゃなくても行くから! あなたのところへ行くから!」


 言っている間にも、一人と一匹の身体は徐々に離れていく。

 狼が、何かに駆られるように立ち上がった。


「私とお友達になって……!」


 いかな狼の体躯が大きかったとしても、立ち上がったところで最早届かない位置にキャロディナは居た。


 透明な床があるので手を伸ばすことすら叶わない。

 歯がゆさに手を握り締めたキャロディナは、それでも笑顔を浮かべて狼を見た。


「待ってて」


 狼の姿がどんどん遠くなっていく。

 果ての見えないミルクのように濃厚な世界で、それでも漆黒の狼の姿はいつまでも霞むことなく見ることが出来た。



* * *



 キャロディナは、今度こそ現実の世界でゆっくりと覚醒した。

 意識は未だ夢の続きで、先ほどまでうつ伏せで両手両足を着いていたのにどうして仰向けに寝ているのだろうと、ベッドの中で首を傾げる。


 やはりあれは夢だったのだろうか。

 いや、そんな筈はない。

 あれは現実ではないが夢でもなかった。


 説明は出来ないが、そうに違いないとキャロディナははっきり思う。


 ベッドから上半身だけ起き上がる。

 手の平を顔の前へと出せば、どこから現れたのか蝙蝠がちょこんと飛び乗った。


「おはよう、……えーっと。あなたの名前も考えないとね?」


 蝙蝠からの反応はない。

 ただ、手の平の上にぴっとり張り付いている。


「それとももう名前はあるのかしら。話すことが出来ればいいんだけれど……」


 産まれた時からキャロディナの傍に居て、なのにキャロディナと契約した天魔というわけではない。

 この蝙蝠は一体何なのだろう。


 嫌な感じはしない。

 ずっと一緒に居てくれたのだと、そう思うだけで嬉しいと思ってしまう自分が居る。

 キャロディナがずっと独りだった理由を作ったのは間違いなくこの蝙蝠だが、恨むつもりは毛頭なかった。


 悪意はないのだろうなと信じているからだ。


「さて、朝食までに着替えておかないとね」


 ベッドから下り、クローゼットを開ける。

 迷いのない手で選んだのは、藍色のドレスだった。


 いつもの動きやすさを重視した地味なワンピースではない。

 袖もスカートも広がりやすい形で、ところどころに白く輝く石が散りばめられている。

 それを自分にあてて、蝙蝠に向かってウインクする。


「私の目の色が映えて素敵でしょ? 誰かに頼み事する時の、私の勝負服よ」


 兄が自分に作ってくれたドレスだ。


 キャロディナの青く光る銀色の瞳はとてつもなく美しい。

 美しいものには魔が宿る。

 だから、この目に射られると、人は正しい思考を保てなくなると言いながら渡して来たのだ。


 人の心を縛るような美しさなら必要ない。

 キャロディナがそう返せば、兄は優しく微笑んでこうも言った。


 この世界はキャロディナに対して少しだけ厳しいだろう。

 通らない意思はたくさんあるだろう。

 もし、キャロディナが人の心を縛ってまで成したいことがあれば、その時に自分が近くにいなければ、このドレスを自分の代わりに使ってくれたらいい。


 兄が死んでからも、キャロディナの成長に合わせてグラーシャが毎年直してくれたこのドレスに袖を通すのは、今日が初めてのことだった。


 何度か強く目を瞬いて、キャロディナは両頬にぺチンと手を当てた。


「さぁ、陥落するわよ……!」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る