◇森の中であふれ出る(2)
カイゲツは鳴り響く鼓動をどうにか治めようとして、進めていた足を止めた。
どちらにしろ、このまま歩き続ける勇気が自分にはない。
焦って家を出たので、カンテラを忘れてしまったのだ。
自分のみならまだ進めるが、人一人の身体を抱えて進むのは少し難しい。
腕の中の、先ほどよりずっと力が抜けた女性に意識を向ければ、案の定寝息が聞こえた。
居心地が悪い。
まさか他人に身を預けてこうもあっさりと寝入る人間が居るだなんて考えた事もなかった。
逆の立場ならば、まず他者に抱えさせることすら許さなかっただろう。
というか何故自分は易々と抱え上げてしまったのだ。
いや、それは仕方がない。
あんなにも心細げに腕をつかまれれば誰だってそうするだろう。
――多分きっと、恐らくそのはずだ。
なので自分はおかしくないが、この娘は完全におかしい。
普通は寝ない。
カイゲツはこれまでキャロディナに冷たく当たり、彼女の好意を否定するようなことしか言ってこなかったのに、なぜこうも安心されているのだろうか。
キャロディナがいつも好意的なのは蘇生術なのだろうと心得ている。
元々は蝙蝠の稀有な力により忌み嫌われていたはずだ。
家族にさえ避けられていたのだ、そんな中で自分に物怖じせず近づく者は貴重だっただろう。
好かれようと努力することが、彼女の人生そのものだったのではないか。
だから、拾われた子犬のようにまとわり付くことは、彼女にとってごく自然な行動なのだ。
自分が誰かに好かれるなどと、大それた考えを持つことはカイゲツには出来ない。
当たり前だ、誰かにこうも純粋な好意を向けられるのは初めてなのだから。
サーヤ意外では。
この家に住む者は少なくともカイゲツに対して好意的ではあるのだが、ミアやロイとの間にあるのはただの雇用関係だ。
普段は無礼極まりない二人ではあるが、主にはそれなりの態度くらいとるだろう。
ミディアンヌにいたってはもう随分話すらしていないように思える。
兄は、……積極的に話しかけては来るが嫌味ばかりで鬱陶しいことこの上ない。
昔はそれなりに仲が良かったのだが。
カイゲツは、普段姿を消している自分の天魔の姿を思い浮かべる。
一気に表情が険しくなり、何かを掴む手に力が入った。
と、手の中にある柔らかな感触にギョッと目を見開く。
腕の中にキャロディナが居ることをすっかり忘れてしまっていた。
遠慮も何もなく力を入れてしまったので痛かったのだろう、胸元で微かに呻く声がした。
それでも目を覚まさないのは、それほど疲れていたからだろう。
柔らかく、軽い。
起こさないようにそっと歩いていると、少し開けた場所に出た。
葉の群れを通ってほんの僅かに漏れる月光を、瑞々しい肌が柔らかく曲線を描いて反射した。
たっぷりと伸びた癖のある黒髪が交互に半円を描きながら艶々と光る。
閉じられた瞼の向こうに、厚い氷のような瞳が隠れていることをカイゲツは知っている。
氷のようではあるが、そこにある感情が酷く熱く、温かいことも。
――それを、嫌いではなかった。
そこにある感情が悪いものではないと分かっているから。
毎朝突っかかってくるのは、そうしないと自分が感情を表に出さないからだ。
敢えて分かりやすく作っている壁を、キャロディナはカイゲツの意思で壊させるように仕向けてくる。
自分からは壊さず、あくまでこちらの意思を鑑みて壁をとっぱらおうとしているのだ。
カイゲツが嫌がることしかしていないように見えるが、その実、最後に選んでいるのは自分だった。
あの青銀の瞳に見られると、感情が揺さぶられる。
堅牢に作ったはずの壁を越えて、自分の感情が飛び出てくるのだ。
瞼を上げないかな、と思う。
遠い昔に自分が隠したはずの様々な感情を探して引っ張り出す、秋の青空に浮かぶ月のような瞳が見たい。
はっきりとそう思ったことを自覚して、カイゲツは小さく舌打ちした。
キャロディナが軽くて柔らかくて温かいせいだ。
眉を下げ、安心しきった表情ですやすやと眠っているから。
何もかも暴かれたいだなんて、そんな馬鹿なことを思ってしまうのはそのせいだ。
カイゲツは浅く息を吸い、深く長い溜息を吐いた。
傍にある木に背を預けて、ずるずるとその場に座り込む。
胡坐をかいた脚の上にキャロディナの身体をそっと置き、幹に自分の頭を預けた。
そのまま目を閉じてしまえば、視界は闇に支配された。
全てが死んだこの黒い森で、腕の中にあるものだけが確かに生きていた。
風が葉を揺らす音すらしない静かな森に心地よい呼吸音がする。
カイゲツにとってはすぐにでも抜け出したいこの場所が、なぜか今日は離れがたかった。
足元が温かい。
あっという間に睡魔が押し寄せ、カイゲツは促されるままに身体から力を抜いた。
少しだけ休もう。
ここは心地が良い。
まるで日向の中のようだった。
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