◇森の中であふれ出る(1)
とぼとぼと、二人で真っ暗な道を進む。
空を見上げてもどれが夜空でどれが葉陰なのかも分からないくらいに黒い。
もしかしたら空すら見えていないのかもしれない。
この森はそれほどまでに深いのだ。
夜の森を歩いたことなど一度もないキャロディナは、コクンと小さく喉を鳴らした。
目の前に、少しの光を反射する赤金色がある。
カイゲツの髪だ。
そこにカイゲツが居るということだけを頼りに足を進める。
それだけが、森の中にある黒以外の色だった。
それだけが。
また喉が鳴る。
瞬きの闇すら不安だ。
夜になると、キャロディナの部屋には家族は勿論グラーシャですら近づかない。
部屋がある廊下も皆が避けるので、そこに灯る光は年々減らされた。
月明かりだけがキャロディナのを安心させた。
月すら見えないこの森で、キャロディナを安心させるのはカイゲツの髪だった。
海に沈む前の、太陽の紅を孕んだ月と同じ。
突然、くんっと身体が前に引っ張られた。
同時に何かに躓き、そのままカイゲツの背中に身体をぶつけてしまう。
「……何だ」
何だはこちらの台詞である。
暗闇で突然引っ張られれば、誰だって躓くだろう。
文句を言おうと口を開き、自分の右手のがカイゲツの服を摘まんでいることに気がついた。
「ご、…………ごめんなさい……」
なんだかとても居た堪れない。
暗闇が苦手だという自覚はあったが、こんなことを仕出かすほどだっただろうか。
キャロディナはすぐさま手を離した。
そしてまた闇の中を歩き始めたのだが、少ししたところでまた前に引っ張られ、カイゲツの背中に顔をぶつけた。
まさかと思い自分の手を確認すれば、やはり引っ張っているのはこちらだった。
「あ、……私、また……」
「言いたい事があるなら言え」
先ほどより一段低くなった声からも不機嫌さが伝わってくる。
「……ううん、なんでもないわ。気にしないで」
言いながら手を離そうとすると、それを遮るように腕を掴まれた。
掴まれて初めて、自分の腕が震えていることを自覚した。
「何でもないならこれは何だ」
強く掴まれたわけではないが、震えていることは気付かれただろう。
その上での質問だ。
嫌だ、面倒な女だと思われたくない。
私という扱いに困る娘を持つ父親の眼を思い出し、ザッと血の気が引いた。
一気に身体が冷たくなる。
「闇が怖いか」
腕から伝わる彼の手の平は熱かった。
取り繕っても無駄だなと悟り、キャロディナはなるだけたいしたことじゃないとアピールするために小さく笑った。
「お兄様が死んでから、私の部屋を訪れる人は居なくなったわ。グラーシャだけそばに居てくれたけど、メイド長だったから常に私の傍に居るわけにもいかないでしょう。それに、夜になれば使用人は主人の部屋に入らない。……暗いところは得意じゃないの」
「だから夜はすぐに寝入るのか」
ハッとして顔を上げた。
何故キャロディナが早寝だと知っているのだろうか。
もしかして、気にしてくれていたのだろうか。
いや、もしかしてではないだろう。
だってこの人は、いつだって面倒見が良くてとても優しいのだから。
じーっと見ていたからだろう、何も聞いていないのに言い訳のように口を開いた。
「廊下は暗いからな。光の漏れていない部屋は返って目立つ」
とは言ってもこれまで誰も居なかった部屋だと聞いている。
明りが灯っていない方が日常だっただろう。
なんて優しさの篭った下手な嘘なんだろう。
呆然として何も言えずにいると、沈黙に耐えかねたカイゲツが「何か言え」と呟いた。
「嫁いだ先が、――あなたでよかった」
春の風のように、どこからか感情がゴウッとやってきて、口から溢れ出た。
本当に、どこから溢れてきたのだろう。
たった一週間でどうやって、こうも自然に感じたことのないような情が生まれたのだろう。
「…………俺はお前のような、なにかと関わってくるお節介が来て大層不満だ」
たっぷりとした沈黙の後、絞り出すようにそう言われた。
左腕は未だカイゲツに掴まれたままだ。
キャロディナは、カイゲツの手に空いた手をそっと添えた。
「今度は本当に大丈夫。もう震えてないわ」
少し会話をしただけで、心に温かさをもらえた気がする。
恐怖心が、不器用な温かさに柔らかく溶かされる。
「ありがとう」
そう言ってカイゲツの手を外そうとすると、カイゲツの空いた手がキャロディナの手を更に掴んだ。
「カイゲツ? ……わっ!」
闇の中で呆然と立っていると突然身体が宙に浮いた。
背中と膝の下に差し込まれた温かいものが腕だと気付き、抱えられていることが分かった。
「カイゲツ!?」
「お前に合わせていると帰りが遅くなる。この方が早い。俺は通い慣れているからな」
戸惑う自分に対し、カイゲツの態度は冷静である。
見えないにしても、こんなにも近くにカイゲツの存在を感じられるのは初めてのことだ。
たかだか布が数枚あるだけの指一本分もない距離にカイゲツを感じ――るものかと、キャロディナは思考を全力で別に移した。
「行きも帰りも抱えられるなんて、小さな子供みたいね……」
移そうとはしたが、上手くいかなかった。
結局思考は他所へは行かず、連想的に先ほどのことを思い出すにとどまってしまった。
「行きも?」
「レルアバドさんにね。最初は荷物みたいに肩へ腹ばいに乗せられて、抵抗したら肩の上に座らされたわ」
今思い出してもとても恥ずかしい状況である。
嫁入り前の娘が人の肩に臀部を乗せるなど、本来あってはならない。
現在の状況とは別の意味で顔が熱くなる。
二の腕に添えられていたカイゲツの手がピクリと動いたことをキャロディナは気付かない。
「疲れてはいたからありがたかったんだけれど、人間扱いくらいはして欲しいものね。……まぁ、別にいいんだけれど」
きっと彼にとって、サーヤ意外の者はどうでもいい存在なのだろう。
ということは、数時間共にいるだけで十分に分かった。
「次からは絶対にしないように言いつけておく」
カイゲツが突然そんなことを言い始めたことに驚いた。
それも、極めて不機嫌な声である。
「あ、りがとう……? レルアバドさん、カイゲツの命令も聞くのね。サーヤ様の言葉にしか従わないと思っていたわ」
カイゲツからの返事はない。
これを肯定ととればいいのか否定ととればいいのか、彼の表情が見えないのでなんともいえなかった。
というか、キャロディナは「別にいい」と言ったのになぜ禁止させようとするのだろう。
考えてはみるが、理由なんてひとつしか思い至らなかった。
それも、絶対にありえない理由しか。
だって、まさか。
カイゲツが――ヤキモチだなんて。
しかし理由はそれしか浮かばない。
気がつけば、二の腕にカイゲツの指が少し食い込んでいる気がする。
痛いわけではないが、それがさきほどの推測を後押ししているように思えた。
自然と心が逸り顔が熱くなる。
駄目だ、今は駄目だ。
自分は今カイゲツに抱えられているのだ。
気付かれる。
肌が直接触れ合っていないにしろ、彼との距離は指一本分もないのだ。
そう、指の一本分も――。
そこで、逸らそうと思っていた思考が最初に戻ってしまったと気付く。
何か。
別のことを考えなければ。
何か言わなければ。
「次からは、ちゃんと嫌がることにするわ……?」
駄目だ、この発言が正解なのか不正解なのかすら判断できない。
食い込んでいた指が少し緩んだので、思わず身をよじらせた。
「すまない、い、痛かったか」
どうやら力を込めていた自覚はあったらしい。
顔は見られないからと油断しているのだろう、素直に気遣う声が切ない痛みをともなって頭に響く。
「ううん、全然……痛くないけど、……あ、頭と心臓が痛い……なにこれ怖い……」
「む。持病でもあるのか」
「ないはずなんだけど……痛いぃぃ」
「もしかすると最近発症したのかもしれないな。自分でも気付いていない間に病を抱えているのだろう。幸いうちは健康志向だ。安心して養生しろ」
「ありがとう……そうします……」
久しぶりにまともな会話を交わして入る気がする。
喧嘩を売るでも買うでもない、普通の会話だ。
カイゲツの感情を隠さぬ素直な声に促され、ぽつりと呟いてしまった。
「最近あなたを怒らせるようなことばかり言ってごめんなさい」
今なら自分も、暗闇にまぎれてすんなりと謝れる気がしたから。
幾秒か待ったが返事はない。
不安になり、カイゲツの肩辺りの服を少し握った。
「カイゲツ?」
なんだか本当にカイゲツがそこに居るのか不安になった。
自分は今どこに居て、誰に抱えられているのだろう。
「お願い、何でもいいから声を出して……?」
一度消えたはずの恐怖が戻ってくる。
全身に力が入った。
ますます強く服を握れば、溜息と共に声がした。
「…………分かったから、力を抜け」
ごめんなさい。
そう言おうと息を吸えば、発する前に止められた。
「謝るな。お前は悪くない」
とても落ち着いた声だった。
いや、キャロディナを落ち着かせるための声だ。
胸がいっぱいになり、恐怖がどこかに掻き消えた。
ホッと心が緩み、ようやく全身の力を抜くことができた。
この家の人間はみな優しい。
グラーシャや兄の他に優しくしてくれる人が居るということを教えてくれたのだから。
優しくされてもいいのだと教えてくれた。
私も優しくしたい。
何か返せるものがあれば。
キャロディナには、ひとつだけ思い当たることがあった。
けれど、それをしてしまうとカイゲツは怒るのだろうなぁと思った。
こんなに素直な会話を、二度としてくれなくなるかもしれない。
それでもいい。
この人は頑なだけどとても優しいから、ここから追い出すことはきっとしない。
キャロディナはカイゲツの呪いを解きたかった。
「ねぇ、聞いて。私の感情って、あなたの一言で左右されてることが多いみたいなの」
自分でも驚くくらい柔らかな声が出た。
じわじわと、カイゲツの身体が熱くなる。
キャロディナはきゅっと唇を結んで、彼の胸に頬を寄せた。
少しずつ早く大きくなる鼓動の音が、ただただ心地よかった。
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