◆黒い森で
「ありがとうございます。私でも綺麗になれるだって、……そう思えることができただけで、私はもう、誰よりも幸せです!」
そう言い残し、アンは家へと帰って行った。
屋敷から近隣の村までは林の中を、少なくとも一時間は歩かなければならない。
女子供に夜の林の中は危険だろうからとキャロは泊まっていくことを勧めたが、アンは「家族が待ってますし、私は早朝から仕事をしているので」と断られてしまった。
キャロよりも年下の少女が生活のために働いているのだと思うと胸が苦しくなる。
キャロは屋敷から出たことすらなかったのだから。
どちらが如何に幸せか不幸せかとか、そういった競争をするつもりはない。
しかし、自分を恥ずかしく思ってしまう。
「あの子は貴族でもなんでもない、ただの平民です。ここへ来るのに着古した服から着替えることもできないほどの。平民の中でも下のほうです」
キャロの心情を知ってか知らずか、ミディアンヌが言った。
「自らを省みず家族のためにがむしゃらに働き金を稼ぎ、生活してるんだと予想できます。これから彼女は自分を酷使し続けて生きて行く。それらを耐えるためにも、あたしの力が必要だった。――どこぞのお嬢さんよりもああいう子の方が本気であたしを求めてくれるんです」
ミディアンヌはまだ少し疲れているようで、椅子に座ったままどこか遠くを見つめている。
どうにか息を整えているようだ。
キャロにはそこまで考えが及ぶことが出来なかった。
ミディアンヌは思いやりがある人なのだろうと思う。
その心が、キャロにはとても眩しく思えた。
キャロは小さく微笑んだ。
「ミディアンヌ様が美しいから、誰かの心と身体を美しくすることが出来るのですね」
本気でそう思ったからそう言った。
しかしミディアンヌは、遠くへやっていた焦点を戻してキャロを睨みつける。
最初に見たものと同じ、拒絶の瞳。
「美しい? あたしが? 冗談は止めてよ。いくら肌や髪が美しくたって、このそばかすや赤毛やデカイ鼻や醜悪な目がどうにかなることなんてないんだから。この家において、あたしだけが美しくない……!」
ミディアンヌは突然大きな声で自分の身体を抱えた。
その反応はカイゲツがキャロを拒絶した時のものに似ていて、自分はまた他人の根底に触れてしまったのだと気がつく。
カイゲツとは違い、人と関わりたくないわけでも誰かに嫌われたいわけでもないミディアンヌの、心の底にしまった黒い部分に。
「あたしは綺麗な人が嫌いです。天魔の力を借りても手に入らないものを、あなたたちは持っています。あたしなんてあなたたちには必要ない。美を保つ力を手にしている醜女はただの馬鹿な道化だわ」
ミディアンヌの足元から白蛇が姿を現した。
キャロの前にするすると近づいて来てキャロの青銀の瞳を見つめた。
その琥珀色は爬虫類だと思えないほど感情的で、まるで何かを語りかけるようだった。
そう、それこそ、ミディアンヌを激昂させたキャロを責めるような。
「気安く見ないで」
言ったのはミディアンヌだ。
ふと彼女を見ると白蛇と全く同じ琥珀の双眸がキャロを睨みつけている。
白蛇とミディアンヌ、どちらに見られているのか、今自分がどちらを見ているのか混乱してしまい目を瞬く。
ミディアンヌは何も言わないキャロに苛立ったように後ろを向き、部屋から出ようとドアに手をかける。
白蛇は彼女が出ていくことを知っているかのようにその背を追いかけた。
「蛇って賢いのねぇ」
心の底からそう思ったので口に出したのだが、ミディアンヌは心外だとばかりに赤髪を乱して振り返った。
「……っ、その辺の動物と一緒にするだなんて、彼らに失礼です」
もしかしてミディアンヌは相当蛇が好きなのだろうか。
彼女の発言をちゃんと理解できずに首を傾げると、ミディアンヌはそのまま応接室を出て行ってしまった。
苛立った感情の現れだろう、ドアが喧しく閉められた。閉め切れなかったドアが反動でキィと開く。
白蛇の尾が、廊下へと消えて行った。
* * *
ファルクネス邸の裏一帯に広がるこの森を、カイゲツらは「黒い森」と呼んでいる。
カンカンと陽が照りつける昼下がりだとしても、幾重にも重なる木々の葉が地表へ光が落ちることを拒み、森はただの闇と化す。
幼い頃は闇という概念が理解できず、「黒」と表現したのだ。
木漏れ日すらないとなると健康な草は育たない。
草がなければ動物も居つかないので、樹木以外には日陰を好む虫や植物ぐらいしか見当たらない。
カイゲツはランタンを片手に、闇の中では黒に近い色になる瞳をしっかりと足元へと向けながら森の中を慎重に歩む。
この森には感情がない。
感情のある生物が居ない。
この森は、カイゲツが生まれる前から静かに死んでいるのだ。
そして自分が生まれ、そして死ぬ理由がここに在る。
それがなければ、自分は死に追われることはなかっただろう。
それがなければ、――あの娘のような輝きをこの目にも宿せたのだろうか。
脳裏に浮かぶのは、青いインクを落としたような銀色の瞳。
キャロのくすみのない瞳は逸らすことなくカイゲツの心を突き刺した。
強い感情をもてることを羨ましいと思ってしまったのだ。
突き刺さったものは心の中に焼け付き、今もジリジリとカイゲツを焦がしている。
しかし心のどこかで、嗤う声がある。
どうせ死ぬのに、無駄な痛みを抱えることなどないだろうと。
羨望など、カイゲツの人生において愛情というものと同等に無意味な感情である。
人を愛し、愛されたところで最後にそこに残るものは死だ。
先月兄が帰ってきた時、彼が何度も咳き込んでいるところを見ていて思った。
この人ももう永くないな、と。
兄が死ねば役目を継ぐのは自分だ。
命を削るような嫌な咳をするのは、次は自分なのだと兄の姿を見ながらそう悟った。
愛するから愛しろだと?
馬鹿馬鹿しい。
短命だと告げた後に愛せよと求めるとは、とんだ自己中心的な娘をあずかってしまった。
本能が、あの娘をこれ以上傍に置いてはいけないと訴える。
彼女の瞳は、あの凜とした声は、自分の胸の内を遠慮なくかき乱すから。
今朝、怒鳴った時に自覚してしまった。
自分は死にたくないのだ、と。
望んでしまったのだ。
生きることを。
――虚しい希望だ。
カンテラを持たぬほうの手を、近くの木に打ち付けた。
堅い樹皮に手の皮が削れ、鈍い痛みが走る。
物心が付いた頃から世界のために死ねと教えられて育ってきた。
そんな自分が、今さら希望などを抱くなんて。
あの美しい青銀の瞳は、カイゲツに希望という言葉を思い出させる、ひどく残酷な存在だった。
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