◆心の安定剤は

「カイゲツ」


 そうしていると、とつぜん背後から声がかけられた。


 カイゲツはうなだれていた顔を上げて声の主を睨みつける。


「気配を消して背後に立つな」


 振り向いた闇の中に紫色の双眸が浮かんでいた。

 相手は人間だが、カンテラの灯りではその姿形までは確認出来ない。

 瞳以外は完全に闇と一体化していた。


 不機嫌を隠すことなく声に出したカイゲツだが、相手は気にした風もなくただ用件を口にする。


「次の嫁が来マシたか」


「嫁じゃない、婚約者だ」


 反射的に否定したが、彼にとってはあまり違いがないのだろう、さらっと無視された。

 しかし彼とまともな会話が出来ないのはいつものことであり、カイゲツはなおさら苛々してしまう。


「視えマスか」


 とはいえ無意味な言葉は発さない男だ。

 カイゲツは求められるままに答えた。


「いや。常に魔物を連れてはいるが、視えないらしい」


 紫の双眸の位置が変わる。

 どうやら首をかしげているらしいことが分かる。


「人の幸福を吸い、不幸を与える魔物だ。娘に付いて離れない」


「仕事向きではありまセンが喰わせる必要はなさそうデスね」


 その言葉にカイゲツは内心で舌打ちする。

 この男はファルクネスの敷居を跨ぐ人間の天魔の能力が平凡か非凡かでしか判断しない。

 もしあの蝙蝠の力が非凡であれば、……考えるだけで虫唾が走る。


「小さい個体だから対した力はないがな、手の平よりも小さな蝙蝠だ」


 そう言えば、闇の中で息を呑む声が聞こえた。

 この森に、息を吸う生物はあまりいない。

 ということは今の音は目の前のこいつが鳴らしたのか。

 非常に珍しいことに驚けば、彼はカイゲツよりも驚いたように目を見開いていた。


 常は祖母の背後に立つだけの無口で無感情な男で、向こうから声をかけてくることすら珍しい。

 その彼が驚きに目を見開いているとなればただごとではない。


 侵入者でも居たのかと辺りを見回すが、まずカンテラ如きの灯りでは何も見えないしこの森に入る人間はまず居ない。


しかしなら彼は何に驚いたのだろう。


「何かあったのか」と聞けば、彼は「間違いありまセンか」と返してきた。

 相変わらず会話をする気が一切ないことが分かる。


「何がだ」


「蝙蝠」


「ああ。それが何だ、何かあるのか」


 語感を強くして訊くが、答えは返ってこない。

 文句を言おうと彼を睨めば、そこには細められた両目があった。


 笑っているのだと気が付き、思わず「はぁ!?」と出たことのない声が出た。

 思わず咳き込んでしまう。


 顔を上げた時にはいつもの目に戻っていた。


「嫁はどうしてマスか」


 もはや否定するのも煩わしくなり、嫁として話を通すことにする。


「寝ているんじゃないか。早くから起きていたからな」


 彼女の父親が言っていたことが真実ならばこれまでの人生を部屋に閉じ込められたまま育ってきたはずだ。

 新しい土地へ来て遅くまで起きていられる体力はないだろう。


「起きて……? まさかもう同じ布団で」


「そんなわけがないだろう今朝部屋から出たら会っただけだたまたま!」


 恐ろしい勘違いをされる前に速攻で否定する。

 久しぶりの大声に今度はまともに咳き込んでしまった。


 この男との会話は常にあちらからの一方通行で、こちらの言い分が通るのは質問に対する答えぐらいのものだ。

 非常に疲れるので正直に言うと長時間の会話は勘弁願いたい。


 荒れた息をぜえはあと整えて睨みつける。

 その行為に意味などまるでない事は物心が付いたころから知ってはいるが、睨まずにはいられなかった。


 すると、足音と共に紫の双眸が小さくなっていく。

 どうやら後ろへ下がっているらしい。


「どこへ行く」


「サーヤへ伝えに戻りマス」


 カイゲツは怪訝に目を顰めた。

 これまでも度々婚約者のことを聞いて来ることはあったが、それに対して反応することはなかった。

 しかも、祖母にまで教えると言い始めているではないか。


「待て。なぜ伝える必要がある」


 カイゲツの質問に答えは返ってこない。


 ふたつの紫が闇の中に消えた。

 来た道を振り返ったのだろうと見当を付ける。


 どうやら祖母の暮らす離れへと戻ったらしい。


 カイゲツは昔から彼が苦手だ。

 会話がままならないということも大きいが、何より、彼の正体が全くと言って良いほどつかめないからである。

 一言でいえば、全てが謎なのだ。

 何を考えているのか、どうやって生きてきたのか、どこから来たのか。

 なぜファルクネスに居るのか。


 そして、あの蝙蝠を連れた少女になぜあんなにも興味を示すのか。


 キャロが来た事によって、この屋敷の状況が変わろうとしているように思える。

 言いようのない焦燥感が胸の中に零れ落ちた。

 自分の知らないところで何かが動いている不安感が不快だ。

 こんな強い感情を持つのは久しぶりで、心の整理の付け方が分からない。

 昔はどうしていたんだと思い、はたと気付く。


 そうだ。そうだった。

 自分は近いうちにここから消えていなくなるのだ。


 何が起こったとしても、それ以上に自分を悩ませることは何もない。

 そう思うと心が少し落ち着いた。


 皮肉だな、とカイゲツは目を細める。

 自分の死が、まるで精神安定剤のようだと心の片隅で嗤った。

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