◆胡蝶花の乙女と否定と拒否
そう。今、あの屋敷で、唯一キャロを心配しているであろうグラーシャに。
「……今知った私の〈不幸〉の秘密も、彼女に伝えることが出来るんだわ」
誰よりも自分を愛してくれたグラーシャ。
ここへ来る前日、自分と思い切り抱き合って、案の定、クローゼットを崩壊させて服を何着か駄目にしてしまったことを最後まで謝ってくれた。
中には、父や母が誕生日に送ってくれた一張羅もあったのだ。
最初から彼女のせいではなかったが、これを教えることが出来ればどんなに彼女の心が軽くなるか。
「もし私が天魔と契約できるなら、そんな力がいいわ」
本気でそう思ったからそう言えば、チョコレート色の双眸が眩しいものを見るように細められた。
「ようございましたね、旦那様」
ミアがそっと呟けば、カイゲツはすぐに目を不機嫌なものに戻した。
「うるさい黙れ」
何が良かったのだろう。
首をかしげてカイゲツを見ると、なんとなくその頬が少し赤く染まっているように思えた。
本当になんとなくだが。
「カイゲツ」
そして。
「触れてもいいかしら」
そんな言葉が口から漏れた。
カイゲツが口に含んでいた紅茶をまともに飲み込めずに咽た。
「ゴフッ、ゴホゴホ、……触れ、触れ!?」
なんだか応援のような響きがあるな、と心のどこかで思う。
「お願いです。私に触って……!」
キャロは震える手をカイゲツに差し出した。
その、これまで
キャロの指先に触れたカイゲツの指先がピクリと動く。
どれくらい密着していいのか決めあぐねているような、添えてているだけの、けれども力が入った硬い指。
キャロは勇気を振りしぼって指先を伸ばして、彼の指と交差するように少しだけ絡めた。
指の神経が敏感に触れ合ったことを感じ取る。
脳に、カイゲツは確かにそこに居るのだと知らされる。
暖かい。冷たい。
それが一体どちらの熱なのか分からない。
自分が熱いのか、カイゲツが熱いのか……ただ、心地が良い。
カイゲツの指がまた少し動く。
触れ合うことに慣れていないキャロには、ただそれだけでなんともこそばゆく思えた。
「なんか、ちょっと恥ずかしいですね……?」
照れ笑いを浮かべれば、カイゲツはむすっと不機嫌な顔をしていた。
「俺にはその蝙蝠を追い払うことは出来ない。触れられるのは魔物の見える者だけだ。そのことを忘れるな」
キャロはぱちぱちと大きな瞳を瞬いた。
「あら、追い払おうだなんて思ってないわ私」
「お前はその魔物のせいで、しなくていい苦労をしてきたんだろう」
「それはそれ、これはこれよ。たしかに不自由な人生ではあったけど、不幸だったわけじゃないわ。それに、姿は見えなくてもこの子のおかげで私はこれまで一度だってひとりぼっちじゃなかったことが分かったんだもの」
カイゲツの目が大きく開かれた。
キャロの言っていることを信じられないとでもいいた気な目が。
「嘘じゃないわよ、だって、私、こんなに……」
言い切る前に、彼女の瞼から涙が零れ出た。
驚いたカイゲツが自分の手を引こうとするが、それよりも早くキャロの手がカイゲツの手を掴む。
「違う、違うのごめんなさい。嬉しいの、誰かに触れることを強がらなくていいだなんて、なんだかとても……っ」
さきほどからずっと触れているのに、カイゲツには何も起こらない。
テーブルに落ちる涙と同じ量の暖かな雫がキャロの心に落ちて広がる。
「あなたの手は綺麗ね。私、この手がとても好きだわ」
とたんにカイゲツの指先が冷たくなり、乱暴に振り払われる。
意識がはっきりしていないのだろうか、カイゲツは心ここにあらずといった風に、振り払った格好のまま早足でドアの方へと向かう。
キャロは慌てて大きな声を出した。
「待って! 不幸の影響は一体どこまで……人の生死まで関わるものなの!?」
いつの間にやらドアの前に立っていたミアに阻まれ逃走に失敗したカイゲツは、キャロに背を向けたまま勢い良く否定した。
「ありえないな。魔物が人を殺す力を得るなど聞いたこともない。その蝙蝠のような、お前の手の平よりも小さな個体では軽い擦り傷程度が限界だろう」
力の強さは大きさに比例するのだろうか。
いや、そんなことはどうでもいい。
そんなことはどうだって。
いま大切なのは、彼が否定したことだ。
自分の長年の懸念を。――自分だけのうのうと生き続けてしまったことへの後悔を。
キャロが、自分で自分を呪い続けていたことを、「ありえない」と。
彼はそう言ったのだ。
「私は……」
声が震えた。
一度は引いた涙が、また瞼を越えて頬を伝った。
「私は、お兄様を殺していなかったのね……!」
カイゲツがハッとしてキャロを振り返った。
兄は死んだ。それだけは変わらない。
だが、キャロはこの日のことを忘れないだろう。一生。
昨晩思ったことは正しかった。
自分は兄が死んだあの日に一度死んで、生まれ変わったのだ。
――たった今許されたのだ。
私はこの人と結婚しよう。
そして、今日教えてくれなかったことを教えてくれたその暁には、自分が彼を救おうと決意する。
与えてもらった挨拶は、喜びは、返さなければならない。
いや違う。
二倍にして、二人で分け合うのだ。
「ねぇ、私のことを好きになってくださる?」
濡れた瞳で真っ直ぐにカイゲツを見つめれば、「は?」と鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をされた。
「私、きっと今自分で思ってるよりもカイゲツを好きになれるわ。ねぇ、私、ここに来る前からあなたと愛し合いたいと思って来たの」
カイゲツの口は半開きのままだ。
首元に少し汗がにじんでいる。
朝日を受けた首元が、赤金色の髪と共にキラキラ光った。
「どんなオジサマでも性格破綻者でも愛し合える二人になろうと決めてここへ来たの。私はとてもラッキーだわ。だってカイゲツ、あなたはとっても素敵な人だもの」
嘘は吐いていない。
どんな人であっても愛する覚悟でここへ来た。
けれどそれには苦労が伴っただろうと思う。
自分の心を騙すことは何よりも負担だからだ。
「私のことを愛してください。私もあなたを愛します」
カイゲツならば、とても自然に愛することが出来るだろう。
実際もう既にだいぶ好きだ。
だってこの人は恩人なのだ。
「きっと私があなたを幸せにするわ。そうね、笑い皺が出来るくらいには」
カイゲツは誰が見ても初対面では見惚れるだろう美丈夫だ。
今のままでも十分魅力的だが、その目尻に笑い皺が刻まれればきっともっと素敵になる。
キャロはその顔を想像し、とても幸せな気分になった。
この難しそうな人に笑い皺を刻むことが出来る二人になれれば。
まだ見ぬ幸福に笑顔を浮かべたキャロだったが、それに相対するようにカイゲツの顔から感情が消え失せた。
最初に見たガラス玉のようだったものより、もっともっと色を無くした彼の瞳が言葉と共にキャロを突き離す。
「俺を愛することは許さないし俺もお前を好きになることはない」
その声に抑揚はない。無だ。
先ほどまで色んな表情を見せてくれていたのに、それらが全てなかったことのように、カイゲツから全てが消えうせた。
「どうせすぐ死ぬのに人を愛せと? ――去るほうも残るほうも辛いばかりだ」
キャロは、焦げ茶色の瞳に闇を見た。カイゲツは二十一歳である。ファルクネスは、長生きしても四十は生きられないようだった。
人生の半分を既に消費しているのだ。
キャロは瞳に同情の色を滲ませてしまった。
不覚だった。
カイゲツは、自嘲気味に、だけどどこか満足げに笑う。
「俺がファルクネスの秘密を離す時お前は俺の絶望を知るだろう」
言ったきり、キャロの反応を見るまでもなく部屋から出て行った。
今度はミアも止めようとはしない。
部屋から出る際、視界の端からカイゲツに向かって、小さな黒い影が飛んだ。
彼の首元を掠めて、今度は出てきた反対の視界の端へと消えて行った。
一瞬のことではあったが、キャロには確かにその一部始終が見えた。
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