第3話 なんだ、嬉しかったんだ

 まだダメよ...

 まだこちらに来てはダメよ...

 私の愛しい――




 生と死の空間で彷徨っていた私を現実に連れ戻してくれたのは、どこかやさしく、慈愛に満ち溢れた知らない声と、頬に感じた痛みだった。


 ジンジンと鈍く痛む頬の痛みに目を開くと、何故か逢いたくもないアノ人達が視界いっぱいに映り込んできた。


 そのことで背中に冷たい汗が伝う感覚がした。


(ど、どうして、いるの!!)


 ―何故、このヒトたちが...!!


 思わぬ再会で身体が動かない私をよそに、その人たちは構わずに私に抱き付き、完璧な笑みを浮かべた。


「吉乃・・・?吉乃!!良かった。あなた、智さん、吉乃が目を醒ましましたわ」


 恐怖で凍りついた私の身体を、決して二度と逢いたくない人たちのうちの一人である母が、涙で潤んだ瞳を細め、心の底から嬉しげに微笑んで見せ、私の身体を起こし、ベットの上部をギャッチアップし、甲斐甲斐しく世話を焼く。


 傍から見れば、美しい家族愛に見えるこの光景。

 私はその光景を守る為に、固まった表情筋を動かし、微笑んで見せた。



 私が一人だけなら、決してしようとは思わなかっただろう。

 けれど、私が目覚めたのは何故か緑色の薄いカーテンが引かれた病室で、病室にはあの人たち以外にも人がいたから、あのヒトたちが望む娘を演じるしかなかった。


「お母さん、私、少し寝過ぎちゃった?」


 恐怖と困惑から声が小さく、若干震え掠れてしまう。


 その掠れ、震えた小さな声は、どうやら母と、もう一人の女性見舞客であもあった姉の気に召さなかった様で。


「吉乃、アンタ憶えてないの?アンタはね、過労で倒れたのよ。智さんが病院に連れてきてくれなかったら、危なかったのよ!?」


 姉という名の悪魔は私の胸元を、グっ、と、力を込め鷲掴み、揺さぶる。


「い、痛いよ、みどりねぇ。分かったから放してよ」


 いつもこうだ。


 諦めながら、抵抗しつつもそのまま揺さぶられていた私は、逸らした視線の先で、じっと、こちらを静かに見つめていた人物と目があた。


(え...?どうしたの、この人)


 静観していた人物―智士さんは何故か酷く憔悴していて、私が自分を見ている事に気付くと、顔を歪め、手を伸ばしてきた。


 後から思いだせば、私はこの時初めて、彼の顔を見たんだと思う。


 不安そうに歪められた顔は、確かに私を案じていてくれていた。


 静かに、ねっとりと絡み合う視線。 

 結婚して、恐らく初めて絡み合った視線。


 それは、私に戸惑いと熱を生じさせた。


「あれ?吉乃、アンタ熱でもあるの?顔が真っ赤よ?」


「...っ!?」


 姉の静かな不機嫌な声に我に戻りかけても、一度乱れた思考は中々正常に戻らないどころか、心は歓喜しているかのように温かくて、そんな自分がひどく滑稽に思えた。


(そ、そんな...今更、なんで?)


  愛されてるはずがないのに。 

愛してるわけでもないのに。


 うだうだと混乱しつつ、頭まで布団を被り、一応夫である彼の視線から逃げれば、少しだけ落ち付けたような気がした。

たった一枚の布と侮ることなかれ。

防具無しと、薄布一枚とでは大きな違いがある。


一枚の布があれば、とりあえず敵からの視線に耐えうることが出来るのだから。


  そうして、ようやく何とか心を落ち着けてきた頃、バサリ、と、誰かによって心身を守って貰っていた布団を剥ぎ取られた私は、咄嗟に大切な防具を奪ったであろう犯人に批難の目を向け、そのまま呼吸も出来ない状態に陥ってしまった。


(どうして、キスされてるの!?)


 どこか恐る恐るとした唇と唇の触れ合い。

 決して独りよがりな行為ではない。

 それでも、どうして今なの、と、心がざわめく。

 と、同時に確かにキスに溺れかけていたていた私は、自分が自分ではなくなる前に、それとなく家族の姿を探したけれど、家族の姿は既になく、病室には私の乱れた吐息と、彼の急いた吐息だけが甘く響き。


「ん......、ゃ、っ...」


 思考がついていかなくなるくらい、唇を貪られ、顔を左右に振ることでようやく解放されたかと思いきや、首筋に感じた痛みと、温度、ちゅっと、濡れた音で、何も考えられなくなった。



「吉乃、吉乃・・・っ」



 どうして、この時、こんなにも彼が自分を求めていたのか、私はきちんと聞いておくべきだったし、話しあっておくべきだった。

 そうすれば、あんなことにはならなかったのではと、後に後悔することとなる。



 病衣越しのフロントホックのブラジャーに、大きな手が掛かった時、甘く、乱れた空気を邪魔するかのように、病室に一人の女性が現れた。



「智士さん、吉乃さんの様子はどう?」


 ―シャッ


 軽やかな音ともに開かれたカーテンから現れたのは、私とは正反対の、艶やかで自信に満ちた魅力的な女性で、私は瞬時に正気に立ち返った。


 今の今まで乱されていた病衣を手早く直し、ベットから降りる。


 若干身体はふらついたけれど、それよりいち速くこの場から逃げたかった。

 叶うものならば、今すぐ泡になってしまいたいほどに。


「ちょっとトイレに行ってきます」


「吉乃、戻ってこいよ?」


「......」


(アナタは何処まで私を苦しめるの・・・?)


 これが八つ当たりだということは判っていて、解ってなかった。

 全ては【夫婦】という関係に甘えて胡坐を掻いていた私の無責任な感情。

 けど、この時の私はそれを理解しようともしなかった。


 私がいつまでも黙って返事をしない事に、何かを察知したのか、彼―智士さんは、私と視線を合せ、念を押すように「行ってこい」と言いながら、肩を軽く叩き、突然病室に来た女性と向き合った。


 病室から出た私は、当てもなくなく院内を歩いた。


(どうして抵抗しなかったの?)


 自問自答にもならない問いなのに、考えずにはいられないのは、きっと揺れているから。


 キスされた瞬間は驚いたけれど、段々と深くなっていくキスは、女としての本能が働いてしまったのか、浅ましくも止められなかった。


 そして、嬉しかった。



 不意に出た答えに自嘲が漏れる。


(なんだ、嬉しかったんだ...。あんなに嫌いな相手なのに...、嬉しかったんだ...)


 報われない恋はしないと、あの日に誓ったというのに。

 自分で自分が情けなくなってくる。


 ぼろぼろと勝手に溢れてくる涙で、前が見えなくなってきた私に、神様は私に更なる試練を科そうとしていた。


 だからだろうか。 


 私が気付かない内に刻まれた、紅い華という夫の想いを、私は気付けなかった。

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愛と恋とそれから 海丘 雫 @Kuroera_S

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