第2話 私に、さわらないで
涙は三年前に枯れ果てたのだと思っていた。
だけどそれは私の単なる思い込みだったのかもしれない。
両頬に静かに伝わる、熱くも冷たい心の雫は、止まる事を忘れたかのように中々止まらず、今も流れ続けれいる。
その事実に自嘲しつつ、安堵している自分さえいることに驚いている。
それでも、心の一部でもある強がりな自分は、自分を否定する事を止めようとはしない。
(何を泣く必要があるというのよ...)
寝室は結婚して三ヶ月目に別々となり、夫婦として身体を重ね合わせた記憶も一度としてないはずなのに。
なのに私は今、それを悔しく、惨めに感じる。
私のこの、理性では泣く必要なんてないと感じていながら、感情は理性を否定する不安定さは、恐らく専門職の人からしてみれば、かなり危険というか注意する症状だったのだろう。
実際、昨日のあの後、私は正午までに仕事を何とか予定通りにこなし、上司の許可を得た上で早退し、足を運んだ病院で私はきっぱり断言されたのだ。
因みにその病院は、昨年の秋から定期的に受診している所で、受診したのは精神内科。
私が診察室に入った瞬間、私を担当してくれていた先生は、厳しい声で「やめなさい」と言葉を発した。
その時の私には、先生がどうしてそんな事を言うのか判らなかった。
―否、解りたくなかったのだろう。
でも先生はそんな私の心理状況も見通しているかのように、まるで泣き喚いている幼子に言い聞かせるかのように、諭すかのように言葉を連ねた。
「最近、泣いた記憶は?」
と。
私はその質問に躊躇いなく、でも緩慢に首を横に振り、覚えてないと答えを返した。
先生はそんな私の言動に痛ましげな表情を浮かべながらも、最近あった事を事細かく聞く姿勢を崩そうとはしなかった。
これも治療の一環だからと、辛くても話してくれるね、と、言われてしまえば、私は促されるがままに近況を報告し続け、遂に
「旦那さんとは別れられない?」
別れられなければ、近い内に確実に倒れるよ、と言われたのに、私はそれでも別れられない、と、ほぼ無意識に答えていた。
結局その後は先生が妥協してくれ、要様子観察ということになり、家に帰り、いつも通りの振舞いを心掛けた。
そして一夜明け、目覚めた今、私が無意識に別れられないと口にした理由が判った気がする。
いくら口先では愛がないと言っていたとしても、私は。
(あぁ、私って何処まで救いようがないの......)
そう。
心の中ではいつも、いつか、きっと、と、思い、願っていたのかもしれない。
でも、それももうそろそろ限界。
心が、身体が、そして何より私自身が、声無き悲鳴を上げ、今にも狂ってしまいそうな心理状態にある。
ベットからそっと降り、姿鏡の前に立てば、鏡の中には、女性らしさの一欠片もない、貧相な身体つきの
そんな自分に応えの帰ってこない問いかけをするのも、いつしか癖になっていた。
「吉乃、貴女はどうしたいの...?」
鏡の中の私は弱々しく、誰だって抱きたくない、鶏ガラより粗末な女にしか見えない。
これで愛されたいと願っても誰もが拒否するだろう。
それでも、愛が、想いが欲しかった。
と、そんな叶いもしない願いを何度か胸中で繰り返した後。
(とりあえず、食事作らなきゃね・・・。)
幾ばくかの諦めを憶え、のろのろと着替え始めれば、頭は勝手に暗い方へ暗い方へと思考を深めてゆく。
今の生活を捨てるのは簡単。
でも、その後の生活は?
不況な世の中のこのご時世、再就職なんて簡単に出来ない。
離婚が適ったとしても、その後の住居や仕事、住み易い環境を整えるのも並大抵なことではない。
大きめのトレーナーをクローゼットから出し、ジーンズと合わせれば、身体の線は簡単に隠せてしまった。
長い髪は適当にアップし、バレッタで留める。
そのバレッタは、結婚が決まったお祝に、と、類が、特別にオーダーメイドで注文してまで贈ってくれたモノで、一番気に入ってるモノ。
最後に、指輪をつけようと、ジュエリーボックスに手を伸ばし掛け、やめた。
(心もないのに、わざわざ自分から鎖をつける必要なんて、無いわよね)
あいも変わらぬ、自分の愚かさと滑稽さに吐き気がする。
そんな気分をなんとか押し殺し、ガチャリと、寝室からリビングへと通じる扉を開けば、そこにはもう笑うしかない光景が、今や遅しと私の登場を待ち受けていた。
「お邪魔したみたいですね。どうぞ、私の事はお気になさらないで下さい」
如何にもこれからという場面に出くわしてしまった私は、喚く事より、微笑を浮かべ、黙認する事を選んだ。
指輪をしていないだけで、ひどく精神的に楽だと知ったのは、多分この時だったのだと思う。
(最初から、こうしていれば良かったんだわ)
現に、名前だけの偽りの夫に睨まれている今も、全然怖くもなければ、悲しくて辛くもない。
自分でも気付かない内に、自然と笑みが浮かんでいるのが解った。
「吉乃・・・?」
その笑顔の意味が解らなかったのか、名前だけの夫・智士が、苛立った表情から困惑した表情で、私を見つめ、自分の身体にしな垂れ掛っていた妖艶な美女を引き離し、私と正面から向き合い。
そして、ゆっくりと伸ばされてきた手を、私は大きな音を立て、打ち払っていた。
「私に触らないで!!」
叫んだ瞬間、私を眩暈が襲った。
(・・・っ、こんな時に・・・っ)
だけど私はその襲ってきた突然の目眩を、気力と興奮から無視し、近くにあったガラスのフォトフレームを掴み、彼に思いっきり投げつけた。
投げつけたフォトフレームには、私と智士のウェディング姿の写真が収まっていた。 粉々に砕け散ったフォトフレームは、私達夫婦の関係の様に見えた。
最初から解っていた筈だった。
私達夫婦の間に、『愛』などと言う、愚かで、甘い感情がないことなど。
(なのに、なのに・・・っ)
結婚して二ヶ月位までは、確かに恋はしていた。
ただし、それは恋に恋にしていただけ。
荒れ狂う心を抑える為、私は自分自身に暗示をかける。
私が恋していたのは、幻で、幼馴染だった類だけ。
この人になんて、恋なんかしていない。
愛してなんかいない。
愛して欲しいなんて思ってなんかない。
(そうよ、恋なんてしてないのよ)
ヒトは案外簡単に自己暗示にかかってしまうのか、私は自分に言い聞かせた言葉を真実だと思い、いつの間にか仄暗い笑みを浮かべた。
そのまま、私を案じているはずの人へ狂気を向けてしまっていた。
「あぁ、何よ。その目は。貴方はいつもそう。私をいつもそうやってバカにして!!ずぅーっと気に食わなかったのよ・・・っ」
貴方の顔が、と、続く筈だった私の言葉は、無理して抑えつけていた強烈な発作により、声にならなかった。
胸を掻き毟るほどに、辛く、息苦しい発作は、身体からの命がけのSOS。
両膝をリビングの床につけ、右手で身体を支え、左手で胸元を押さえる。
そんな中で思い出すことは。
(あぁ、だからだったのね)
決して興奮してはならないと言われ続けた意味が、初めて解った気がした。
死にたくないのに、死神の甘美な囁きが私を誘い、私はその囁きに誘われるがまま、意識を手放してしまっていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます