愛と恋とそれから

海丘 雫

第一幕:動き出した秒針

第1話 愛なんて、ない

<愛してる> 


 そんな言葉はもしかして私達夫婦の間には、最初から存在していなかったのかもしれない。

 左薬指で形ばかり輝く指輪は、物言わぬ冷たい鎖にも似ていて、その鎖に刻みこまれている言葉は、想いの籠っていない偽りの想いの楔。 


―L'amour qui est destiné― 


真実味のない、当てつけの様な言葉。

日本語に訳せば<運命の恋>

フランス語にしてあるのは私に対する嫌味なのか、それとも他に意味があるのかさえ分からない。


 私、―菜々宮ななみや 吉乃よしの、26歳―は、結婚して三年目の、割と何処にでもいそうな一般事務社員。

 それに引き換え、戸籍上の夫は、今、最も世間で話題の中心になっている若手実力派社長のうちの一人。


 見た目も然ることながら、言動から眼差しまで全てが最高品質で、文句のつけようのない所が腹立たしいと言われるほど完璧。

 鋭い眼差しは、常に私以外を見つめていて、微かに掠れ、良く響く甘い声は、ベットの中で囁かれれば、程よい甘さを含む媚薬にも匹敵することから、抗えずに魅了され。

 そして、ガッシリしている割には、決して太っていない鍛え上げられた身体。 

 それで35歳となれば、玉の輿を狙っている女性社員にとっては、最高の獲物である事は間違いないらしい。


(最高の獲物ね......、莫迦みたい)


  噂と現実のあまりの相違に鼻白んだような気分になった私は、キャアキャアと、やけに煩く、甲高い媚びた黄色い声をを上げている先輩達を尻目に、私は与えられた仕事を全うしようと、美女の集団に囲まれている夫(他人)を見て見ぬふりをし、その横をさっさと通り過ぎる。


 たとえ家では夫婦でも、一歩家から出れば社会人たるもの、他人。


(まぁ、家でも他人だけど...)


  そんな誰も興味がないことを胸中で呟いていた私に掛けられる声。


「あら、菜々宮さん。アナタいつからそこにいらっしたの?」


 ――全然気付かなかったわ。


 と、勝ち誇った笑みを浮かべるのは、夫(仮)にご執心な営業の女性。


 彼女に小馬鹿にされ、蔑まれようとも、もうその程度の言葉では何とも思わないし、感じない。

 逆に、そんな言葉しか言ない人を憐れみたくもなる。


 本当にあんな人のどこがいいのか判らない。 


 でも、いちいち言い返すことも、反論するのも面倒だし、億劫。

 なら。


「すみません...」


 小さく、怯えた声で謝り、頭を下げ、下に俯いて走り抜ける。

 それが愉快だったのか、彼女の甲高い声が聞こえた。


「アレでも同じ女かしら。見た?あの子、今日は化粧すらしてなかったわ。」


 大袈裟に声を張り上げ、私をバカにし、優越感に浸っていた女性は、自分の隣に立っていた男性に甘えるように凭れ掛ったのを横目で見やり、そっと息を吐き出す。


(どこがいいの...ほんとうに)


 彼女が凭れ掛かっている男性こそが、私が勤務している会社の現社長であり、戸籍上の私の夫である、綾橋あやはし 智士さとし、35歳。


 でも、もう胸は痛まない。


 そんな光景に胸を痛めていた可愛い私は、結婚して2ヶ月目にして死んでしまったし、今では涙も出ないばかりか、軽く失笑さえ漏れてしまう位には捻くれてしまったと自分でも思っている。


 と、そんなどうにもならないことをぐだぐだと思案していた時。


 ―カツン


「吉乃、大丈夫か?顔色悪いぞ?」


 靴音共に掛けられた私を気遣う声に、出勤早々疲れてしまい、受付横のエレベーター前で項垂れていた顔を上げてみれば、目の前に立っていたのは同期で入社した営業部の若手であり出世頭の長瀬ながせ るい、28歳。


 彼は同期の誼で、私が営業部から総務部に異動した今でも、こうして仲良くしてくれている。


 彼は営業という職業なせいか、ヒトの顔色を窺うことに長けている。


(いけない、今は会社なのに......!!)


 そんな彼に気付かれないように、そっと自然に笑顔を浮かべて、それとなく注意を私の顔から背けるように話題を逸らす。


「類は今日も、相変わらず朝から元気ね...」


「まぁ、営業は体が資本だからな。それより、本当に大丈夫か?お前また痩せたんじゃないのか?」


 節だった指が、私の頬を滑っていく感覚が懐かしくて、不覚にも泣きそうになってしまう。


 お互いが大切過ぎて、親友以上になれなかった私達。


 後悔していないと言えば嘘になるけど、今の私は昔の弱い私じゃないし、彼にも彼の人生がある。

 それにいつまでも泣き虫の自分ではいられない。

 大きな手の平に手を絡めるように手を重ね、私はもう一度笑顔を浮かべた。


「大丈夫よ?私には愛する旦那様がいるから。類は知ってるでしょ?」


 嘘。

 愛なんかない。

 けど、類は優しいから、だからこそ嘘を吐く。


 あの人に対して抱いている感情があるとするのならば、それは深い深い諦めの様なもの。


 愛しさもなければ、悲しさや憎さも感じない。

 『無関心』と言う言葉が近いだろうか。


 その後二言三言、言葉を交わした私達はその場で別れ、私はエレベーターに乗り、仕事部屋にある自分に与えられたスペースでパソコンへ向かい、ひたすらキーボードを叩くように弾いた。


 その際に緩くウェーブが掛かっている柔らかめの長い髪が、他人の視線から私の表情を覆う様に隠す。


 先程、類に「痩せたんじゃないか?」と、指摘された時は驚いて、一瞬、呼吸をするのを忘れてしまう位、驚いた。


 確かに最近、私は最近痩せた。


 でも、バレるとは思っはなかった。


(あの人は気付かないのにね...)


 近しい人より、昔の想い人が私の変調に敏いだなんて。


 私の変調の理由は拒食症気味による少食で、その拒食症気味の原因は、環境の変化によるストレスと、心因性のものだと病院で判断された。


 私を担当してくれた先生は、そのストレスの原因を取り除かなければ、後々、私が悲しむ事になると、はっきり断言して、そして最後には、精神科の先生も紹介してくれ、くれぐれも興奮しないようにと、私に注意を促した。


 ふと、顔を上げ、何気なく辺りを見回した私は、見たくもない光景を目にしてしまい、無意識の内に唇から血が出るほど、強く噛み締めていた。


(あぁ、やっぱり。結婚なんてしなければよかった。)


 私が偶然にも見てしまったモノは、戸籍上の夫が、何故か総務部の部屋の前で、綺麗で、魅力的な女性とキスしている所だった。


 結婚して、今年の10月で3年。


 それは結婚した時から、僅かに軋み、隙間だらけだった私達夫婦の擦れ違う歪んだ関係が、いよいよ変化する刻を悟り、今にも大きく動きだそうとする瞬間でもあった。

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