鼈甲色の花蜜


 チリチリと涼やかな音。窓側に垂らした風鈴は、病室へ新たに持ち込んだ物だ。清涼な音は良く響き、鉛筆を走らせる音と重なり心地が良い。

「出来た!」

 諸手を上げて、達成感に浸る清陽。遅れていた分を取り戻し、独逸語の翻訳課題を終えた。

「頑張ったな。」

「当分、独逸語は見たくないなぁ。いやはや、聖典の言い回しには参った。」

 苦笑しながら頭を掻く清陽。具合は随分良く見える。その様子を眺めながら、己れは筆を進めた。

「真夏、だね。」

「今日は、地面で料理が出来そうなくらい暑いらしい。」

「厭だなぁ。焼け焦げてしまいそうだ。」

 宗田家から近い病院へ移ったのは先週のことだ。緑の蔦で壁面を覆った病院は、それなりに涼しい。己れは一日中、朝から晩まで清陽の病室にいた。父様と母様がやってくることも勿論ある。だが、二人はより良い治療ができないかを幅広く探し回っている。両親の願いや祈りがあってか、奴の顔色は良くなった。病人にしては元気がある様だ。

「先生が言っていたんだ。この病は急性に転じたらアッという間だけれど、慢性であるうちは天寿を全うできるほど、進行が緩やかなんだって。」

 ゆっくりと伸びをする己れの清陽は、洋風な猫のようだ。背骨一つ一つの隙間を開く動きは男とは思えぬ程しなやかである。

「だからね。僕の珪。お願いを聞いてくれないかい。」

 自らは重篤でないと言いたげな笑みからして願いが透けて見える。敢えて鼻で笑ってやる。

「外出の手引きはしてやらんぞ。」

「なんだい、何もまだ言ってないじゃないか。」

「違ったのか。」

「いや、そうなんだけども……。」

 そもそも、企みは半分以上の確率で失敗するものだ。清陽は見目や仕草を存分に使ってその確率を上げるが、己れ相手にそう上手くいかない。

「山の別荘に行く許可は貰えたのだ。焦らずとも外には出られる。」

 夏休みは全て養生に充てることと言い付けられた。ならば避暑地へ行くのは養生だと言い出し、なんだかんだと先生が折れた。己れの清陽がどんな泣き落としを使ったのかは知らないが、理論で詰めて感情で揺らしたのだろう。

「だって今日は、祭りがあるだろう?」

 ピタリと己れの筆が止まった。毎年欠かさず行っていた祭り。清陽の病が発覚してから、なんだかんだと忙しくなったせいで、すっかり頭から抜け落ちていた。

「僕は、毎年と変わらない事がしたいんだよ。」

 辺りが真っ暗になってしまった様な貌に心が痛む。清陽の身体に障る様な事はさせたくない。だが時間は限られていると医師から言われ、急性に転じたら数週間と持たぬと聞かされている。

 葛藤が螺旋を描き、目眩を引き起こす。己れは努めて、明るい話にしようと試みた。

「どんな風に過ごしたいのだ。」

「そうだなぁ。飴細工、金魚掬いなんかを眺めて歩いて……。何と言っても甘いものを食べながら、花火を見たいかな!」

「見るばかりだな。」

「どうせ珪は、食べるばかりなんだろう。」

「屋台の物が一等美味に感じる瞬間を逃してたまるか。」

 昨年は何をしたのだったか。来年はあるのだろうか。慢性であるうち、とはいつまでなのか。

「さて、己れは一旦家に戻る。次の課題を持ってきてやろう。」

「僕のシリカ。もう少し僕を甘やかしたって罰は当たらないと思うのだけど。」

「普段通りが良いのだろう?」

「言っておくけどね。期末試験の合計点は、君より僕の方が二点高かったことを忘れるなよ?」

「次で己れに抜かれたくないなら、さっさとやる事だ。」

 やれやれと肩を竦め、首を振るヘイゼル。栄養補給のための点滴が下がっていなければ、自宅での景色となんら変わらない。

 良い子で待っていろ、と額に口付け、靴を鳴らす。

 交渉ごとはそこまで得意では無いが、果たして。


 ◆ ◆ ◆


「随分と大荷物だね。」

 戻ってきた己れが担いでいる荷物全てを課題と勘違いしたのか、表情が一気に曇る。なるほど美人の顰め面というのは随分迫力があるものだ。

「お前の我儘に付き合ってやろうというのに、良いのか?」

 風呂敷の一つを紐解いた。顔を出したのは、真新しい浴衣。生地は生成りかすれ、帯は紺と白の献上角帯。もう一着は黒縞に白と藍の帯。 普段、清陽が着用しているのは洋装だが、祭りの日は毎年浴衣に袖を通している。

 妙に上質さを漂わせる浴衣を見ただけで、様々なことを把握出来たようだ。

「一体、どうやって。」

 清陽から驚嘆の息が漏れた。音がなりそうなほど、大きな瞳が瞬く。

「春に、仕立ててもらっていただろう。先走った母様が仕立屋を呼んで、採寸したじゃないか。」

「それは、覚えているけど。そうじゃなくて!」

 徐々に清陽から喜びの色が染み出してくる。周囲に花が咲いていくような幻覚が見える。清陽は己れの言葉を待ってか、視線を逸らす気配もない。

「……言っておくが、外出というほど遠くには行けないからな。」

 急に照れくさくなり、他所を向いた。穴が開くほど見つめられるとはこの事だろう。

「行動範囲は病院の周辺のみ。食べ物は火を通したものだけ。野山には立ち入らない。少しの混雑も避け、帰って来たら入念に手を洗い、うがいをすること。外出できる時間は十八時から一時間半程度。」

 指を立て、取り付けるに至った規則を並べる。病状が安定しているのと、短時間の外出であるからこそもぎ取れた条件だ。

「嗚呼、本当に嬉しい! 有難う、僕のシリカ!」

 両手を取り上下に振り、更にその場でくるりと回ろうとする。もはや小躍りと言って良い。点滴の針が抜けるのを恐れ、慌ててベッドへ座らせた。

「そんなに、祭りへ行きたかったのか。」

「そりゃそうさ!」

 夏の陽射しに負けぬほどの、まばゆい笑顔が弾ける。思わず目を細めるほど

の明るさだ。

「シリカと沢山、色んな物を見たいんだ!」

 莫迦を言うな。己れの台詞だ。

 言葉にはせず、消毒液に浸してある枕元のピアスに手を伸ばした。


 日が傾き始めた頃。己れ達は作戦会議と銘打って、案を出し合っていた。

 花火の会場付近はどうしたって混む。小高い所は既に先客だらけだろう。病院の屋上は他の患者が居るため、ゆっくり出来ない(清陽はここでも人気者となり、小児科で入院している小さなフロイラインに囲まれてしまうため)。

「それなりに高さがあり。」

「尚且つ混雑が無く。」

「僕らが入れる所か。」

 頭を捻る。自宅では意味が無い。裏山は入れない。図書館などは開いていない。

 やがて同時に貌を見合わせ、口を開いた。

「中等部……!」

 途轍もない妙案であった。夏休み中であれば寮そのものから人が減る。更にはこんな時間だ。部活に勤しむ輩はもう居ない。そして下校時間には一等厳しい我が母校に忍び込むと来たら、まるで肝試しのようではないか。胸が高まるのを抑えられない。

「なら、万が一の為、口止め料が必要だ。」

「酒と肴で良いだろう。少し多めに買ってさ。」

「もし知り合いや下級生がいたら?」

「僕が頼んで快く譲ってもらう。」

「おお怖い、己れのヘイゼルがその美貌を振りかざすとは!」

「君こそ、まさか力ずくのつもりだったんじゃないだろうね。」

「さてな。」

 洒脱なやり取りに心が弾む。気を落ち着かせるために、日が沈むまでは明日の課題を片付けようと清陽は言い出したが、全くと言っていいほど手に付かなかった。無論、己れも。


 ◆ ◆ ◆


 看護婦や小さなフロイラインに見送られ、病院を出発する。

 学舎方面にも屋台はあった。人通りはそこまで多くない。人とすれ違うのに困らない程度であった。それなりに盛況のようで、祭りの雰囲気は十分である。カラコロとなる下駄の音はその空気を一層引き立てた。

「ヘル・ヘイゼル、手を。」

「ねぇ、ヘルって付けているのは嫌味なのかい?」

 やや憤慨した様な貌をする。清陽は女の様に扱われる事を嫌うが、そんな事は分かりきっていることだ。不敵に笑い、こう返した。

「莫迦者。この己れが、フロイラインを列記とした病人と同格に扱うとでも思ったか。」

 さあ、と促せば、清陽は一拍置いて理解したようで、盛大に噴き出した。

「おお怖い! ヘル・シリカは僕以外に、こんなにも厳しい!」

 ケラケラと笑い、己れの手をしっかりと握る。互いの指を交互に重ね合う様に繋げば、清陽は可笑しそうにまた笑った。


 ◆ ◆ ◆


 中等部の裏門前に到着した。職員用の出入り口が開いており警備にあたっている人間の姿はなかった。

「懐かしいなぁ。」

「まだ卒業して、半年も経っていないというのにな。」

「高等科の生活が濃厚なせいか、随分と昔の事みたいだ。」

 無意識のうちに口角が上がる。足を踏み入れれば共犯だ。

「珪、こっち。」

 己れは乾き物と酒瓶を入れた風呂敷を片手に、清陽は二人分の鼈甲飴をもって校舎への侵入を果たした。渡り廊下の鍵が開いていたのは、見回り中だからかもしれない。目指すは屋上だったが、まずは忍び足で三年の教室へと向かう。

 かつての我らの教室は、前とは違う匂いがした。

「ここの席だったな。」

「僕がその後ろ。五十音順だとこうなるよね。」

 机をなぞる。今は後輩の何某かの席だろう。ほんの少し前まで、己れたちの物だった空間は形を変えてそこにある。

「嗚呼、懐かしい。シリカはなんだか、いつでも難しい貌をしていたっけ。」

「お前は今よりも、腑抜けた貌をしていたな。」

 席に着くと、ますます昔の事のように感じる。それと同時に愛しくも思う。己れ達はずっと、共にあったのだと。


「開いていると思う?」

「直されてなければ、開くはずなのだが。」

 ドアノブを勢いよく上へ持ち上げ、扉の下を蹴飛ばした。派手な音と共に施錠が外れ、外の空気が雪崩れ込む。まだこの扉の秘密は生徒だけのものらしい。

「やったね!」

「これは見つかったら大目玉な上に、後輩の憩いの場を潰してしまうだろうな。」

「そうならないようにしないとね。」

 あまり外側に出ると地上から見つかる恐れがあるため、壁際に沿って座り込んだ。風呂敷の中身はもう必要ないだろう。清陽の主治医への土産として、脇に避けた。

「わぁ!」

 程なくして、花火が打ち上がった。清陽の感嘆は直ぐに、太鼓の様な音に消されてしまった。夜空に咲く大火は降り注ぎ、消えていく。

 清陽から手渡された鼈甲飴は少し溶け始めていた。小鳥の細工が成されていたが、暗闇の中では細部までは見えない。花火が咲く夜空に透明な黄色を透かすと、幻想的な輝きを放った。まるで普段手に届かないものを掌握した心地がする。

 口に含めば僅かな水音と共に、じわじわと消えていく。この様に花火観賞と洒落込むのは悪く無い。閃光を放ち燃え広がる様子は、見事であった。

 一つ上がるたびに騒いでいた清陽だったが、いつしか静かになっていた。

「清陽?」

 返事の代わりに手を繋がれた。そこから辿り視線を移したものの、影が塗りつぶしており、表情は窺えない。だらりと両腕は下がっている。飴は食べきったようだ。

 次の花火が上がる。明かりに照らされた清陽は声もなく、大粒の泪を流していた。

「ヘイゼル……。」

 やがて咽び出した清陽。己れは清陽の肩に腕を回し、そっと抱き寄せる。その間も泪は止め処なく溢れ、喉を震わす。

「あまりに、あまりにもいつも通りで。この後、病室に帰るなんて信じられない。」

 いつもであれば自宅に戻り着替え、風呂に入り、ラムネでも飲みながら己れと話をしていただろうか。今日の興奮を思い出しながら眠りについていただろうか。

「シリカ、僕は。僕は怖い。」

 花火は上がり続けている。清陽の声は微かで轟音に消されてしまいそうだ。

「症状は、確かに軽い。だからこそ、僕の与り知らぬところで、身体が少しずつ崩れていっている気がして。」

 押し付けられた清陽の雫で、肩口が濡れる。こいつの身体は、こんなにも頼りなかったであろうか。取っ組み合いで戯れたら折れてしまうのではないか。少しずつ『いつも通り』から外れていく己れのヘイゼル。それを清陽自身は感じ取っているのだろうか。

「シリカ。僕のシリカ。

 君のヘイゼルは、ちゃんと此処にあるかい?」

 弱々しい言葉に、堪らず掻き抱いた。震える瞳に上手く言葉を返せない。

「……《心は燃えても、肉体は弱い》。」

 課題であった聖典の言葉。清陽の口から漏れると、なんと世を儚んだ響きを持つのだろう。無性に泣きたくなるのを堪える。

「己れのヘイゼル。

 お前は確かに、此処にある。」

 輪郭をなぞる様にして、全身に触れていく。頭部から始まり、肩、腕へと降りる。手を握り、指先を絡め、もう片方の手で背中から横腹へ……。

「あっ……。」

 断続的な夜空の花に照らされ、危うい光に揺れるヘイゼルの瞳。海の日に見たときとは違う、おぼろげな橙が溶けている。淡褐色の瞳と綯交ぜになった、鼈甲飴と同じ色。泪ひと粒ずつに口付ければ仄かに、蜜の味がする気がする。

「珪ッ……。」

 眼窩に流し込んだ、蜂蜜を固めた様な目玉。そこに舌が触れたら、溶けて無くなってしまうだろうか。慎重に泪だけを舌と唇で啄ばんでいく。身体をまさぐり、より密着させれば、ヘイゼルの瞳は大輪の花のごとく、丸く開いた。

「駄目だよ、珪……!」

「……《安心しなさい。わたしだ。恐れる事はない》。」

「……ッ、狡いよ、僕のシリカ……!」

 清陽に倣い、元は神の言葉である聖典を口にしながら、衝動のまま動く。首筋を柔く食み、ピアスをねぶる。本能に近しい衝動で何処もかしこも熱く、当てられそうな香りがする。倒錯している自覚はあったが、止めるつもりもない。

 普段、他人の舌が這うことなどまず無いだろう。熱い己れの舌を神経が多く巡る所へ押し付けられ、恐怖とは違う反射でヘイゼルの身体が跳ねる。互いの鼓動を感じ取れるほどの距離で、かちりと視線が合った。

「……存外、甘い。」

「――ッ!」

 最後の盛り上がりに差し掛かった花火は派手な音と光で炸裂する。掻き消されぬよう、耳元で囁いた。目尻に溜まった泪を啜ると、清陽は身体を硬直させ、ぶるりと震えた。弾けては儚く落ちる光が、清陽の瞳を揺らしていく。

 ついに最後の花火が上がった。

「愛している、己れのヘイゼル……。」

「僕も、……愛しているよ。僕の、シリカ。」

 互いの熱と興奮で己れも清陽も息が乱れている。言葉の隙間で漏れた吐息が熱い。強烈な音と光の中で生まれた飴は、己れが喰い尽くしてしまった。代わりにあるのは――……。

「……帰ろう、己れの清陽。」

 長い抱擁だった。清陽は満足したように微笑み、頬を摺り寄せた。

「疲れてしまったから、おぶってくれよ。」


 ◆ ◆ ◆


 約束の時刻からやや遅れて到着するだろう。しかし張本人は夢の中だ。あまり振動しないように、緩やかに歩く。背中で静かに寝息を立てる、己れのヘイゼル。

 己れは確かに、唯一の愛を感じた。愛欲だけではない、他者には持ち得ない愛を。

 まろやかで透明度のある鼈甲飴は、暫く己れの心を離さないだろう。

「……お前の肉体は弱いかもしれないが、あまり哀しい事を言うな。」


 そんな事を言われると、何をしてでも残したくなる。

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